10 青木


               *


 寺に来て六日が過ぎた。遅い午後、裏庭に面した居間で正人は本を開いていた。経典の現代語訳と地獄極楽の画集だ。

 陽が当たって暖かい。秋の微風が頬を撫で、うとうと居眠りしかけていた。

 青木が部屋に入って来た。畳が踏まれる微かな音で、正人は我に返った。

「どうです。わかりますか?」

 青木に訊かれ、照れ笑いを浮かべた。

「信心がないから、すぐ居眠りしてしまいます。でも、お経って、思っていたよりつまらないことが書いてあるんですね」

 斎子との関係がうしろめたく、なんとなく青木の視線を避けている。

「つまらないですか?」

「ほとんどが極楽浄土と仏に対する称賛でしょう。言葉の限りを尽くして、すばらしいって褒めてる。あの時代の民衆に浄土という夢を与える必要はあったんだろうけど、コマーシャルもくど過ぎると嫌味でしょう?」

「コマーシャルか、そいつはいい」青木は笑った。

「でも、極楽というのは、あまりおもしろい処でもなさそうですね」正人は、座卓に拡げた大判画集の極楽絵あたりを繰った。

「欲を満たす事が、すなわち快楽です。ところが欲というのは、苦痛とか嫉妬とか、人間を困らすものを土壌にしなければ生じない。つまり、苦痛や嫉妬のない極楽には欲もまた存在しない。だから快楽もない」

「何もない世界か。つまらなそうだな」

「つまらないという気持も存在しないのですよ。それを涅槃という」

「涅槃か……想像の及ばない世界だ」正人は、虚無に満たされたような極楽絵にじっと見入った。「苦しみも怒りもない、妙なる音楽が流れ、光に満ちた世界。そこで微笑を浮かべ、ただじっと座っているだけ。どうも説得力がないな。こんな出来過ぎの老人ホームみたいな極楽に行くことが、どうして至福だなんて言えるんだろう。実際に見た人が描いたわけじゃないから、しょうがないけど」

 青木は座卓に肘をつき、ぐっと躰をのり出してきた。「そのとおり。いくら頭を絞ったところで、人間には苦痛や煩悩のない世界など想像できはしないのです。何故なら、それがあまりにこの現実とかけ離れた世界だから。無理やり極楽を創作したところで、結局、説得力に欠けた絵にしかならない。では、地獄絵はどうです? 極楽に比べて地獄の出来ばえはどうです? リアルだとは思いませんか?」

「そうですね……」

 青木の細い指が画集を繰って、地獄絵のところを開いた。「極楽で何もしないで座っている人の至福は理解できなくても、地獄で火に炙られたり串刺しにされている人の苦痛は、実感として理解できるでしょう?」

「ええ。苦痛というのは身近なものだから。地獄絵って、ちょっとした風刺ですよね。これなんかバラバラ殺人でしょう」

 画集は〈解身地獄〉の頁が開かれている。獄卒が凄まじい形相で包丁をふるい、俎上の罪人を切り刻んでいる。

「殺した人間を切断するとき、人の顔は本当にこんな鬼のような顔になるのかもしれない。それから、これ――」正人は〈衆合地獄・刀葉林の景〉の頁を開いた。

 剃刀のように鋭い葉を持つ樹の上に美女がいて、罪人を誘惑している。罪人は美女を求めて樹を登るが、刀のような葉が彼の躰を切り裂いてしまう。やっと樹上に辿り着くと、いつの間にか美女は地上にいて彼を呼ぶ。彼は夢中で降りる。刀葉が肉をずたずたに裂く。降りると、また美女は上にいる。これを際限なく繰り返し、罪人は自分の身を切り刻んでしまうという地獄だ。

「これは、色情に溺れて身を滅ぼす男の姿を、実にうまく描いてますよね」

 正人がそう言うと、青木は満足気にうなずいた。

「極楽はこの世界とまったく違う世界だから、それを描写するためには想像力を働かさねばならない。しかし地獄を描くなら、想像力など必要ないのです。あなたは風刺と言ったが、風刺どころか、地獄はこの世をありのままに描いただけなのです」

 正人は顔を上げて青木を見た。

「業火に焼かれる苦痛。獣に喰いちぎられる苦痛。刺されたり、溺れたり、潰されたり、炎熱、極寒――地獄で展開される苦しみは、すべてこの世にある。いや、この世にない苦しみは地獄にも存在しない」青木の瞳の深淵が、じっと正人を見つめている。「地獄がほかにあるのではない。この現実こそが地獄なのです」

「そんな……独断と偏見に満ちてるなあ。たしかにひどいことも多い世界だけど、そういう考えは暗いんじゃないですかぁ」正人は笑おうとしたが、深淵に見つめられると微笑さえ凍てついてしまう。「ここが地獄なら、死後には極楽しかない。人は皆極楽へ行けることになる。悪人も。そういうことですか?」

「極楽とは無です。一切の無。限りない停止。仏像が浮かべる、あの独特の虚無的な微笑は、無の中に棲む者のものです。有と無。この現実――有が地獄であり、無が極楽なのだ。遠い昔、おそらく釈迦はそのことに気づいたのでしょう。人はなぜ苦しまねばならぬのか。それは、この世が地獄にほかならなかったからです」

 そのとき、廊下に足音がした。斎子だ。青木は全身から緊張を解くようにして、のり出していた躰を退いた。

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