05

 庫裡に上がり斎子が淹れたコーヒーを飲みながら、バスから見た交通事故のことを正人は話した。眉をひそめたくなるような話だが、青木も斎子も表情を変えない。その平然としたようすは不自然なくらいだ。二人の態度に苛々して、正人は表現を誇張したり、テレビで見た誘拐殺人まで持ち出したりした。

「――何も悪い事をしていない子供たちがあんな目に遭うなんて、神も仏もないじゃないですか。人の祈りは、いったい何処へ行ってしまうんです?」

 神も仏も、おらんのかなあ——老女の声が、はっきり耳に残っている。

「甘えてる。神も仏もいないよ、そんなモン」斎子が、鼻先で戸を閉めるようにピシャリと言った。「もし、いるのなら、許さない。酷いことを見て見ぬふりをする神なんて、許すことできない」

「人の祈りは何処へ行くのか、と言うが、祈るということは他人のためにするのではない」青木が穏やかな口調で言う。「他人のために祈るというのは、いかにも美しい。しかし、違うのです。祈らずにいられないのは、他人のためではなく、その状況を受容しなければならない自分自身の心のためだ」おちつきはらった目をじっと正人に向けたまま、語り続ける。「富と健康に恵まれ、満たされた生活を送っていた若き日の釈迦は、あるとき、人々が苦しむ姿を見た。人はなぜ苦しまねばならぬのか——その事を考えた。これがきっかけとなって、彼は仏道に入ったのです。あなたが他人の苦しみに心を痛めるのは、それだけ心が開かれているからだ」

 いきなり説法めいたことを言われて、正人は鼻白んだ。

 青木の話はまだ続くようだが、正人の気持を察したように斎子が割って入った。「やめよう、そんな話。つまんない。もっと楽しい話をしようよ」

 斎子に問われるまま、正人は自分のことを話した。怠惰な学生生活のこと。その最後を飾るはずの旅も失敗に終わりそうなこと――大半は愚痴のようなものだったが、二人は微笑みながら聞いてくれた。斎子は巧みに話を受け、合いの手を入れるので、自分の方ばかり話していることに正人は気づかなかった。

 陽は傾き、最終バスの時刻が迫っていた。

 腕時計を気にし始めた正人に青木は言った。「予定のない旅なら、ここに泊まったらどうです。何日居てもらっても構わない。退屈しているのです」

「そうよ。お寺で修行してきたなんて言えば、鈴佳さんの一人旅もカッコつくんじゃない?」斎子が茶化す。

「えー、いいのかなあ」正人は頭をかいた。

 気味悪い寺という先入観はすっかり消えている。それに、何より斎子に魅かれている。

「じゃあ、少しだけ修行していこうかな」斎子の目を見て、ありがたく申し出を受けた。

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