第十一章 セレイア3

 花の中に導かれるようにして入っていったユヒトは、その光景に目を大きく見開いた。

 そこには風の竜が横たわっていた。そしてその隣では、風の竜に寄り添うようにして、美しい人が立っていた。

 その人は、この世のものとも思えないほどの透明感に満ちていて、白く流れる長い髪の毛は、星空のような美しさをたたえていた。瞳は深い紺碧で、その下には芸術的なまでに整った鼻と、薔薇色をした品の良い唇があった。

 この世の美しさをすべて兼ね備えている。

 そして、この世のあらゆる知性を彼女が持っているということを、ユヒトは心の奥底で理解していた。

「女王様! フェン!」

 ルーフェンがユヒトの横を擦り抜け、女王たちのもとへと駆けていった。

 そこに横たわる風の竜は、今はぴくりとも動かない。そんな姿に、ルーフェンは悲しそうに身を寄せた。

「ああ、こんなにも弱って……」

『ルーフェン。随分長い旅をしてきたようですね』

 その美しくつま弾かれた琴のような声の主は、女王のもののようだった。しかし、その口は動いてはいなかった。どうやら女王は、思念のようなもので頭に直接話しかけてきているらしい。

「女王様。ここまでやってくるのに、随分かかってしまったこと、お許しください。けれど、どうしても女王様のもとに連れてきたい人間がいましたので」

 ルーフェンの言葉に、女王はそこに突っ立って呆然としていたユヒトに視線を注いだ。

 目があった瞬間、ユヒトはその瞳の中に宇宙を見た。

 深く広い世界がそこには広がっていて、ユヒトは自分がどこにいるのか、一瞬わからなくなっていた。

『ユヒト』

 その声で、ユヒトは現実へと引き戻された。その現実も幻想のようではあったのだけれど。

『あなたのことは、ここからずっと見ていましたよ』

 女王のその言葉に、ユヒトは驚いた。

「見ていた? それはどういう……」

『あなたがここにやってくるのを、私はずっと待っていたのです』

 女王のその言葉に、ユヒトは目を見開いた。

「僕がここに来るのを……?」

 それはどういうことなのだろう。女王は自分がここに来ることを知っていた。そして、待っていたという。それは、なにを意味しているのだろう。

 しかし、それよりもなによりも、先にユヒトには女王に言いたいことがあった。

「女王様。僕はこのシルフィアを崩壊の危機から救いたいと願い、その嘆願のためにここに参上しました。世界から風が消え、各地ではダムドルンドの世界の魔物たちが多く出没するようになりました。どうか、女王様。この世界をお救いください! このシルフィアをもとの平和な姿へとお戻しください!」

 ユヒトは勢い込んで、叫ぶようにそう言った。

 ずっとそれを言うために、ここまで旅してきたのだ。女王に世界の窮状を訴え、人々の願いを叶えるためにやってきたのだ。

 女王はユヒトの言葉を聞き、慈愛に満ちた表情を浮かべた。そして、星空のような瞳をかすかに動かしたかと思うと、再び思念でこう伝えてきた。

『ユヒト。その願い、確かに受け止めました。私もそのことは、ずっと案じていたことです』

「それならば、早く女王様のお力で世界を救ってください! 苦しむ人々や動物たちに、どうかその御慈悲を……っ」

 ユヒトはその場で跪き、女王に向かって頭をさげた。ユヒトは自分が、シルフィアに住むすべての人々の願いを背負っていることを自覚していた。

 世界から風が失われたあの日から、ここまで来られた人間はユヒトの他には誰もいない。

 今ここで、女王に願いを聞き入れてもらうことができなければ、世界はいずれ崩壊してしまう。きっとこんな機会が訪れることはもう二度とない。

 必死だった。

 ユヒトは、これまでの旅で出会ってきた人たちの顔を思い浮かべていた。

 トト村の村長、母レシル、ラーナ、レミ、モラ婆さん、エントウ、ベアトリス、聖王ナムゼ……。

 一緒に旅をしてきたかけがえのない仲間であるギムレ、エディール、ルーフェン。

 そして、シューレンで命を落としたたくさんの人たち。残されたその家族。

 すべての人々の願い。悲願。

 世界を救いたい。

 美しいあの世界を取り戻したい。

 ユヒトの胸は、その思いでいっぱいだった。

 ただ、それだけだった。

 ユヒトは女王の言葉を待った。

 女王はしばしの間、静寂を保っていた。下を見つめたまま、ユヒトはその答えをじっと待っていた。

『ユヒト。顔をあげなさい』

 やがて聞こえてきたその声に、ユヒトはゆっくりと顔をあげた。

 顔をあげたその先にいた女王は、じっとこちらを見つめていた。

『ユヒト。その願いを叶えることに、私も異論はありません』

 その女王の言葉に、ユヒトは、はっと目を瞠った。

 しかし、次に聞こえてきた台詞を聞いて、彼は打ちのめされていた。

『けれどもそれは、今はできません』

 絶望的なひと言。

 それはすなわち、世界は救えないということ。

 女王は、シルフィアを見捨ててしまったのだ。

 ユヒトたち人間のいる世界を、もう女王は見捨ててしまったのだ――。

 ユヒトは衝撃のあまり、ふらりと眩暈を覚えた。

 たったひとつの希望が失われた。

 この嘆願を聞き届けてもらえなければ、そこに待っているのは絶望の二文字。

 世界はこのまま滅びの道を歩んでいく。シルフィアに住む人々は魔物たちに殺され、世界は闇に飲み込まれていくのだ。

「女王様! お願いです! このままではシルフィアは闇に飲まれ、人間や動物、様々な植物さえも生きる場所を失ってしまうのです。どうか、どうか……っ」

 目頭が熱くなり、その目から涙が溢れていった。

 世界を救いたい。

 大切な人々を救いたい。

 その思いが叶わないのだとしたら。

(僕はいったいなんのために、ここまでやってきたというんだ……!)

 ぽたぽたと雫が下に落ちる。悔しさとやるせなさと悲しみで、ユヒトの体は満たされていく。

 悔しさで食いしばった唇が切れ、血の味が口の中に広がっていった。

『ユヒト』

 柔らかな慈愛に満ちた声が、ユヒトの脳裏に響いた。

『よく聞きなさい』

 ユヒトは顔をあげ、そこにいた女王の姿を見た。

『私はあの日の襲撃で、力を封じられてしまいました』

 ユヒトはその言葉に、目を見開いた。

『あの日、私はこの世界の神として、許されぬことをしてしまったのです』

 それから、女王は衝撃の告白を始めたのだった。

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