第五章 雨の降り続く町6

 川の監視小屋は、辺りが雨で煙る中、寂しげに佇んでいた。ユヒトたちがそこへ駆け込んでいったとき、中には誰もいなかった。

「誰もいない。ギムレさんたち、どこに行ったんだろう」

「川の様子を近くまで見に行ったのかも。外を捜してみましょう」

 ユヒトとレミは、再び雨の降る外を走り、辺りに人影がないか捜した。すると、向こうの方の堤防の上で、誰かが立っているのが見えた。

「お父さん!」

 レミがそう叫ぶと、そこにいた二人の人影がレミの方を振り向いた。ギムレとレミの父親だ。

「レミ!」

 レミの父親が、レミの姿を見て叫んだ。

「こっちへ来るんじゃない! ここはもう危険だ!」

「お父さん?」

 父親の言葉に、レミは目を瞬かせた。

「さっきはすまなかった。やはりお前の言うことは正しかった。この数日川の監視を続けてきたが、水位はずっと上がり続けている。しかもそれは日を追うごとに早くなっている。もうすぐこの堤防の限界値をも超えようとしているんだ」

「そうよ! やっとわかってくれたのね。ここが危険だって。だったら早くお父さんもここから離れましょう?」

 レミは堤の上に向かって声を張り上げた。危険ということがわかったのなら、一刻も早くその場所から離れなければならない。

「駄目だ! 私はここから離れない。最期までここにいる」

 父親のその言葉に、レミは耳を疑った。

「お父さん? なにを言っているの? 堤が切れたら、流されてしまうのよ。きっと無事ではいられないわ!」

 レミの父親はしかし、頑なにそこを動こうとはしなかった。

「ギムレさん! どうしたんですか! 早くここから離れないと!」

 ユヒトがレミの横で叫んだ。

「ユヒト! そうしたいのはやまやまなんだが、この人が強情で、ここから動いてくれないんだ! 俺もさっきからなんとか説得を試みているんだが」

 どういうことかわからず、レミはユヒトと顔を見合わせた。

「お父さん? どうしてそこから動こうとしないの? 危険だってこと、わかってくれたんでしょう?」

 レミはとにかく父親たちのいるところへ近づこうと、近くの登り口へと駆けていった。ユヒトもそれに続く。

「この町はもう終わりだ! それもこれも、全部私がいけなかったんだ!」

 レミの父親は、悲痛な叫びを上げていた。 

「私が水の竜からお告げを聞いたという話は、全部私の嘘だったんだ!」

 レミは階段を上がりながら、その言葉に呆然と目を見開いた。

「私はそのころ、土木技師としての仕事が減り、日銭を稼ぐのにも苦労していた。仕事がなかなか入らないことに、いらだっていた。そんなとき、サダヌ川の堤の近くを通りかかった。堤は随分年数も経っていて、ひび割れがところどころ見えていた。それを見て思いついたんだ」

 父親は苦しみを吐き出すようにして、それを語っていた。

「今よりももっと大きくて立派な堤防の築堤工事を、町長に進言してみよう。もしそれが通れば、かなり大きな仕事になる。当分食うのに困ることはなくなるはずだと。けれど、ただそれを言ったところで、簡単に町長が予算をそこに回してくれるとは思えなかった。そこで思いついたのが、水の竜のお告げの話だ。町長は昔から信心深いことで有名だった。町に神殿を築いたのも、今の町長だ。水の竜のお告げの話をすれば、きっと町長は築堤工事を前向きに検討してくれると踏んだんだ」

 父親の告白に、レミは息を呑んでいた。今まで秘密にして隠していたであろう父親の話は、娘に大きな衝撃を与えていた。

「そして見事、私の思惑通りの展開になった。町長は築堤工事に、町の多くの予算を注ぎこんでくれた。そして今の堤が完成した。築堤工事でかなりの収入を得た私だったが、その後私の予想を超える事態があった。十年前の豪雨災害だ。あれにより、近隣の川沿いの町や村は大変な被害を被った。けれど、築堤を終えていたこの町は、その被害は最小限で済んだんだ」

 レミは父親に必死に近づいていった。泣きそうになる自分を叱咤しながら、足を動かした。

「私は町の人たちに、これ以上ないほどの感謝と歓迎を受けた。水の竜の加護を町にもたらした男として、町長に次ぐ権威を与えられるまでになった。最初は嘘から始まったことだったが、自分が設計し、築堤した堤が町を救ったことには変わりなかった。とても誇らしく、嬉しいことだった。この堤は私の成功の証なのだよ。そしてこれからもこの堤がある限り、私の栄光は続いていく。そう信じていた。それなのに……」

 レミはようやく階段を上がり切り、父親とギムレのいる堤の上に足を乗せた。後ろからユヒトの足音も聞こえてきた。

「もうこの堤は持ちこたえられない。それは、私の嘘で塗り固められた栄光が崩れ去るということだ。町が水に沈むとともに、町の人たちが信じていた水の竜の加護など、この町にはなかったことが証明される。それを恐れて町の人たちに危険を知らせなかった私は、大いなる犯罪者だ。町の人たちが水害によって多くの被害を被ってしまう。私はせめてもの償いをしなければいけない」

 レミの父親はふらふらと、堤防の向こう――川のあるほうへと近づいていった。

「お父さん?」

「やめろ! それ以上、そっちに行ってはいけない!」

 レミの父親とにらみ合うようにして立っていたギムレが、レミの父親に向かってそう叫んだ。

「止めないでくれ! この事態は私が招いた。堤防の高さに過信し、町民たちにもその意識を植え付け、本当の危機から目を背けてきた。この堤防さえあれば、町は護れるのだと勝手な自己満足に町民たちをも巻き込み、被害想定をきちんと考えなかった。これは私の罪だ。だからせめて、最期に我が身を水に捧げることで、水の竜の怒りをおさめたい」

 レミの父親は、また一歩堤防の端へと足を近づけていく。

「お父さん! やめて! 町の人たちは心配しなくても大丈夫。この人たちの協力で、みんな山の高台のほうへと行っているわ。だから、馬鹿なことを考えないで! わたしたちと一緒に早くここから逃げましょう?」

 レミが言ったが、父親は振り向かなかった。

「そうです。町の人たちは大丈夫です。これからあなたが町の人たちのところまでいって、今の川の状態を説明し、町が川の水に冠水する危険があることを伝えてくだされば、彼らもそのことを納得してくれるはずです」

 ユヒトがレミの横で言った。それを聞いたレミの父親は、ほうとため息をついてからゆっくりとこちらを振り返った。

「町の人たちは全員安全な場所へと移動できたのか。それならばよかった」

「お父さん。じゃあ……」

「だけど、そのこととこれから私のしようとしていることは関係ない。私はやはり、この堤を築いた責任者としての責務として、町を水から護れないかもしれないということに対し、なんらかの誠意を示さなくてはならないと思う。この雨をやませることができれば、今のこの町の住民にとって、もっとも喜ばしいことになるだろう。私の身を捧げることで、それが叶うとは思わないが、それでも水の竜が気づいて、私の願いを聞き入れてくれる可能性もまるきりないわけではない。風の竜が活動を停止し、この雨雲を吹き飛ばしてくれることを期待できない今、願うのは水の竜の御慈悲だけ。私一人の命で、どこまで聞き入れてもらえるのかわからないが、それでも私はそれをやろうと思う。もう、決心したんだ」

 父親はそう言うと、再び川へと向き直った。

「お父さん!」

「駄目だ!」

 レミと同時に、ユヒトが父親の元へと走った。川にもう少しで落ちるという寸前で、二人の手が、父親の腕と体を掴んだ。

「死んじゃ駄目だ! そんなのは勝手すぎる!」

 レミの言いたいことを、ユヒトという少年が、代弁するように叫んでいた。

「レミさんは誰よりもあなたの身を案じていた。川がいつ決壊してもおかしくないと知りながらも、この危険な場所まで足を運んでいた。それなのに、そんな彼女の目の前で、どうして死のうなんて考えるんだ! あなたも父親なら、娘が父の死をどう思うか、考えてみたらどうだ!」

 ユヒトの言葉は真に迫って聞こえた。引き留める腕に力が籠もっているのがわかる。

「わ、私は……」

 レミの父親が根負けしたように言葉を発した。

 そのときだった。山のほうから、なにか地響きのような音が聞こえ、それとともに足元が揺れ出した。

「これは……!」

「な、なにが……?」

 ユヒトとレミが驚いていると、ギムレが川の上流を皿のような目で見ながら叫んだ。

「鉄砲水だ! 逃げろ!」

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