第二章 闇の世界の住人3

 ユヒトたちは、細い小道を馬から降りたまま一列になって足早に進んでいた。

「しかし、ユヒトには不思議な声が聞こえるというのは本当なんだな。わたしたちにはなにも聞こえなかったというのに」

 ユヒトの後ろを歩いていたエディールが言った。

「ええ。でも、本来は風の竜の加護により、その声が聞けるというものなんです。でも、なぜかこの力はダムドルンドの闇の住人たちにも効力を発揮するようで、彼らの声も僕には聞こえてきます。今はだから、風の声よりも、そちらのほうの声を聞くことのが多くなってしまいました」

 ユヒトが心持ち沈んだ声を出すと、先頭にいたギムレが元気づけるように明るく言い放つ。

「なに、それはどちらにしてもすごい力には違いない! 現にこうしてユヒトのおかげで危険を察知できたわけだ。これを風の竜の加護と言わずしてなんとする」

 ギムレの言葉に、ユヒトは勇気づけられた。忌まわしい声が聞こえるということの不吉さを、その言葉はすべて払拭してくれた。

「ギムレさん。ありがとうございま……」

 ユヒトが言いかけた、そのときだった。再びそれは、ユヒトの耳に不気味に響いてきた。

『……よこせ。そいつをよこせ』

 その声はユヒトの胸を暗く覆うように、重苦しく呼びかけてきた。

 そしてそれは、先程よりも、より近く、大きく聞こえてきていた。

 異変は他の二人や馬たちにも伝わったらしく、みな足を止めた。馬たちは怯えていなないている。

「むっ。これは……っ!」

「まずいぞ」

 声は聞こえなかったようだが、ギムレやエディールもその気配を感じ取っていた。

 急激に辺りに満ちてきた障気に、彼らはそれぞれの武器を手にして身構えていた。

 そしてそれは、森の中からやってきた。

 晴れの昼間であるというのに、それの周囲には、濃い闇が満ちていた。地から這って出てくるようにして、そいつは徐々に姿を現した。

 ずるりと音を立てて地上に出てきたそれは、全身がぬらりと黒く光っていた。大きさは成人男性ほどもあり、形もそれに酷似していた。しかし、その皮膚を覆っているのは黒い獣のような毛であり、特に顔を見れば、この世界のものではない異形のものだということはすぐにわかった。

 その顔は猪のような形をしていた。しかも牙は猪のそれよりもはるかに大きく、見るものに戦慄を与えていた。

「ゴヌード……!」

 エディールが鋭い声を発した。

「エディールさん! 知っているんですか? こいつのことっ」

「いや、そうくわしく知っているわけではないが、文献で見たことがある。まさか、この目で実物を見ることになるとは思わなかったがね」

 そう言っているうちに、ゴヌードと呼ばれた魔物は、恐ろしい勢いでこちらに近づいてきていた。

「来るぞ!」

「構えろ!」

 ユヒトは恐ろしさに震えたが、ギムレやエディールの言葉に従い、剣を正面に構えた。

 最初にエディールが弓矢で攻撃した。その正確な射撃は見事にゴヌードの肩の辺りを射たが、ゴヌードの勢いはまるで衰える様子はなかった。

 次に攻撃をしかけたのはギムレだった。手斧を携えた彼は自ら森の中へと入っていき、木の陰からゴヌードに斬りかかっていく。

「うおおっ!」

 ギムレの手斧は、斜めにゴヌードの胸を切り裂いた。瞬間、黒い血のようなものが吹き出し、ゴヌードはよろめいて動きを止めた。

 しかし次の瞬間、ゴヌードの太い腕がうなりをあげ、ギムレの体をなぎ飛ばした。ギムレは木々の枝を背中に散々打ち付けながら、遠くへと飛ばされていった。

「ギムレさん!」

 ユヒトは叫んだが、そこからではギムレの様子はよくわからなかった。

「ユヒト! ギムレのことよりも、今はゴヌードだ。戦いに集中しろ!」

 エディールは言いながら弓をひいていた。そして、先の矢がゴヌードに届く前に、すでに彼は次の矢を弓につがえている。連続で射られた矢はゴヌードの胸や喉の辺りに刺さり、ゴヌードは痛みのためか、苦しそうに身もだえしていた。

 こちらの攻撃が効いているということに、ほんの少しユヒトが安堵したときだった。

 ゴヌードは、突然ユヒトへ向けて猛然と走ってきた。

 ユヒトは恐ろしさのために、その場から一歩も動くことができずにいた。目の前に近づいてくる異形のものが、自分を狙っているのだということはわかっていたが、彼にはそのときどうすることもできなかった。

「ユヒト!」

 エディールが叫んだが、ユヒトは自分の構えた剣を動かすことができず、がたがたと震えていることしかできなかった。

(恐ろしい! 恐ろしい! 恐ろしい! 僕にはとても無理だ……!)

 ユヒトがぎゅっと目を閉じた、その瞬間だった。

 ふいに、耳の奥にその声は聞こえてきた。

 ユヒトはそれを聞いた途端、金縛りにあったように動かなかった体がなめらかに動かせるようになり、自然に剣を動かすことができた。

 ユヒトが目を開くと、ゴヌードが眼前で牙を剥いていた。ユヒトはそれを見ながら魔物の喉元に向けて、力一杯剣を突きあげた。気味の悪い感触が、ユヒトの手に伝わってくる。

 ゴヌードはしばらくそのまま静止していたが、とうとう力尽きたようで、どさりとユヒトに倒れかかってきた。

 ユヒトはたまらずゴヌードの体の下から抜け出し、その場に倒れ込んだ。そして、はあはあと荒く息をついていた。

「ユヒト! 大丈夫か?」

 エディールがすぐさまユヒトのところに駆けつけた。

「は……はい……」

 ユヒトはそう返事をしたが、鼓動は激しく脈打ち、なかなか静まることはなかった。

「しかし、よくやった。ゴヌードにとどめを刺したのは、ユヒト。お前の剣だ。自分を誇りに思うといい」

 ユヒトはうなずきながら、ふと横を見た。すると、そこに倒れていたはずのゴヌードから、煙のようなものがのぼり始めたのが見て取れた。

「な……なにが……?」

「ダムドルンドの世界のものは、死んだときにこうして煙になって消滅していくんだ。もともとシルフィアの世界の理からは、はずれたところに存在している魔物。彼らがシルフィアの土に還ることはないんだ」

 エディールが話しているうちに、ゴヌードの体には輪郭がなくなり、黒い煙と化していった。その煙も、そのうちにあとかたもなく消えてしまった。そして不思議なことに、ユヒトが浴びたはずの黒い返り血も、それと同時に消えてしまっていた。

 ユヒトはゴヌードの体が目の前から消えたことで、とてつもなく安堵した。しかし、まだいまだに自分がゴヌードにとどめを刺したという実感が沸かず、ただ激しい恐怖感が体全体を支配していた。

 しかし、先程耳の奥に聞こえてきた声はなんだったのだろう。

 とてもかすかな声だったけれど、その声は、ユヒトにこう語りかけてきたのだった。

 ――きみならできる。

 その声は、とても優しく、なにかとても懐かしい感じがした。

 風の竜が、柔らかな風を作り出しているときの声のように感じたのだった。

「さて、ギムレが戻ってこないが、様子を見てこなければならないな」

 エディールは、ギムレが吹き飛ばされた辺りへと足を向けた。しばらくすると、体中に木の枝や葉をつけたギムレが、エディールとともに戻ってきた。幸いギムレも、さほど痛手を負った様子はないようである。

「この俺があれしきのことでやられるわけがない」

 ギムレが強がってみせると、エディールが冷めた声で言った。

「先程気を失っていたのはどこの誰だ。わたしが来なければ、そのまま森の獣に襲われていたかもしれないというのに」

「なにを言う! ゴヌードに致命傷を負わせたのは、この俺だぞ。そしてその攻撃にも俺は耐えたんだ! それはこの俺の頑健な肉体があればこそのことだ」

「また、いつもの筋肉自慢か。やれやれ、それはもう聞き飽きたよ」

「エディール! 貴様というやつは!」

 再び二人が口喧嘩を始めたのを、ユヒトは呆れてしばらく見ているしかなかった。しかし、こうして喧嘩ができるということは、二人とも元気があるということだ。ユヒトは珍しくこの二人の喧嘩に、仲裁に入ることはしなかった。

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