第26話 感情が忙しいんだけどどうしよう

 「お兄ちゃん、ごちそうさま。」

 「ん、お風呂沸いてるから入っておいで。」

 「はーい」


 食べ終わった後の食器をキッチンのシンクへと運ぶ雪乃が言葉をかけ、先に食事を済ませリビングのソファに移動していた僕がそれに応える。

 雪乃はあれからしばらく泣いて、泣いて、やがて泣き疲れたのかそのまま眠ってしまった。雪乃が眠ってからもしばらく頭を撫でていたのだが、時間も時間なのでひとまずソファに寝かせ、その間に夕食の用意をすることにした。

 雪乃の好物である肉じゃがの具材を切っていながらも僕の意識がそこに集中することはなく、何年振りだろうか、僕は左手の人差し指に切り傷を負った。

 雪乃への思い、唯菜への想いばかりが僕の思考を奪い、そして手元を狂わせてしまったのだと思う。そう浅くないはずの傷を目にしても、どこか寂寞せきばくとした僕の心はそれを大事おおごととは捉えなかった。リビングに置いているカラーボックスから絆創膏を取り出しそれで傷口を覆う。そして何事も無かったかのようにまたキッチンに立ち、淡々と調理を進めた。

 このとき貼った絆創膏については夕食時に雪乃に指摘されたのだが、今の雪乃にこれ以上一切いっさいのショックを与えたくなかった僕は、多分適当なことを言って濁したと思う。


 「お兄ちゃん、雪乃はもう大丈夫だよ。そんなに怖い顔しなくていい。」


 そう言って雪乃は、洗面所とリビングをへだてるドアをゆっくりと閉めた。

 さっきも言ったっけか。僕は彼女に一切のショックを与えたくなかった。それなりに表情は作っていたつもりだったのだが、そんなハリボテはこの十五年近い兄妹関係の前では灰燼かいじんしてしまったようだ。自分の不甲斐なさに溜め息と少しの嘲笑をこぼした。

 再びキッチンに立ち、スポンジを手にとる。いつも通り、多分他の男子高校生よりいくらかいであろう手際で食器を洗い進める。慣れた作業だ。慣れた作業だからこそ、他のことを考える余裕がある。言い換えれば、今の僕の思考は雪乃のことでいっぱいである。

 雪乃を傷つけてしまったこと、雪乃に気を使わせてしまったこと、そして、雪乃のあの問いに答えてやれなかったこと。そのどれもが、まるで質量を持ってしまったかのように僕の心を突き刺す。ああ、痛い。


 食器を全て洗い終えた僕は、自室のベッドに潜り込むことにした。

 ベッドに寝転んで、また一つ溜め息を零す。

 雪乃もああ言ってくれた。もう、雪乃のことで悩むのは一旦終わりだ。


 そうだ、僕は唯菜のことが好きなんだよな。今度会ったら何を話そう。どうやって話しかけよう。上手く話しかけられるだろうか、いつも通り接することができるだろうか。

 そういえば彼女、さっきまでこの部屋に居たんだっけ。このベッドに寝転がってたんだっけ。


 「っ…!!」


 唯菜がここに寝ていた。その事実が頭をぎった瞬間、僕は飛び起きてベッドから降りた。どうすればいいんだこれ。

 先ほど自覚してしまった唯菜への恋愛感情。気がつくまでとは比べ物にならないほど、僕は唯菜という女性を意識してしまっているらしい。さっきまで普通に一緒に勉強していたのに。唯菜がこれに寝転がってるときも、ここまで意識はしなかったのに。今までの僕には無かった感情に戸惑ってしまう。むずがゆくてしょうがない。ただ、そのむず痒さを不快とは感じない。不思議すぎる感情だ。

 いやもうその不思議さが不快なんだよ。


 「ああ、もう」


 僕は寝転がった。

 ただしそれはベッドにではなく、床にだ。

 なぜ僕は唯菜を好きになってしまったのだろうか。いや、『好きになってしまった』では唯菜に失礼か。

 最初に唯菜と出会ったとき、つまりは彼女が転校してきた初日。僕は彼女が好きではなかったはずだ。それどころか多分、嫌いだった。軽い口調、馴れ馴れしい態度、容姿で言えば、金髪に露出の多い制服の着こなし方。どれをとっても、自分とは全く違う、自分とは住む世界の違う人間だと思っていた。

 最初に抱きつかれたときも、授業中に頭をぶつけあったときも、二回目に抱きつかれたときでさえ、僕から唯菜へのその印象が大きく変わることは無く、不信感とも言える疑念が晴れることはなかった。

 それが完全に消えたのは、やはりあの昼休みの一件があってだろうか。

 あれ、僕っていつから唯菜を意識してたんだろう。


 だめだ、考えれば考えるほどむず痒くて恥ずかしい。

 何回も抱きつかれたことだって、思い出す度 顔から火が出るようだ。そろそろ顔焦げそう。

 この調子では、今まで通り接することなど無理に等しい。こんなことなら気づかなければ良かったとすら思う。ただ、そう思ってしまうほどに、今の僕にとって唯菜が大きすぎる存在となっているということに気がつくと、もちろん恥ずかしいのだが、それ以上に嬉しく思ってしまう自分がいる。


 「お兄ちゃん、上がったよ。」


 部屋のドアを開けたのは雪乃。

 髪の毛はまだ少し濡れており、頬が少しあかい。いつも以上に肌がうるおっており、心なしか瞳もうるんでいるように見える。


 「ん、じゃあ僕も入ってくる。」

 「待って。」


 雪乃の横を通り過ぎて風呂場へ向かおうとした僕の腕を、雪乃の小さな手が掴んだ。…心臓が跳ねた。まだどうしても雪乃の目を見れないのだ。


 「どうし『お風呂上がったら、今日は一緒に寝よう?』


 僕の言葉をさえぎって、雪乃がそうくちにする。

















 「わかった。」


 僕が頭を撫でると、雪乃は嬉しそうに微笑んで見せた。

 これも雪乃なりの気遣いなのだろうか。自分を情けなく思いながら、僕は風呂場に向かった。

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