片羽の妖精の愛され婚

冬の薔薇に愛を誓う

 リゼルとキリアンのお披露目から、約二ヶ月。いちだんと冷え込んだその日の朝、ウォード家の敷地内に突如、びゅうっと強い風が吹いた。

 コーコランに来客を告げられ、リゼルが玄関ホールに行ってみると、初風の妖精が半泣きの顔で抱きついてくる。

「うぅっ……助けて、リゼルー!」

「ど、どうしたのヒューイ!?」

「っ、これ……」

 ヒューイが差し出したのは、一本の切り花だった。……いや、「花だったもの」と言うべきだろうか。すでに花弁は散っており、葉と茎しか残っていない。

「これ、薔薇でしょう? どうして花びらがないの?」

「えっと……あのね……」

 ヒューイは若干ばつが悪そうな表情で、事の経緯をぽつりぽつりと話し始めた。

 昨今、かつてのように〈妖精の木〉に願い事をする人間がちらほら現れており、今日はヒューイもとある青年のプロポーズを手助けするため、相手の女性に薔薇を届けに行く途中だったという。

 薔薇は愛と誠意を伝える〈求婚の予告状〉だ。しかしヒューイが飛行中にうっかりぐるんと回った拍子に、花弁が全部散ってしまったらしい。

「オレ、気をつけてたんだよ。でもお菓子のことを考えてたら、なんていうかその、浮かれちゃって……」

「お菓子のことって――ああ、例のお店の?」

 リゼルの問いに、ヒューイは萎れた様子で「うん……」とうつむいた。

 甘党の彼はいまやすっかり人間の作るお菓子の虜で、近ごろは街の菓子店を手伝うまでになっている。毎回味見をさせてもらうのが楽しみで、今日はついついはしゃぎすぎてしまったというのだ。

 昼までに花を届けねばならないので、妖精郷に戻っている時間はない。とはいえ見知らぬ人間が暮らす家の庭で、勝手に花を摘むわけにもいかない。

 そもそもこの時季になると、薔薇の数自体が少なくなる。

 どうしようと困り果てたところに、リゼルの顔を思い出したらしい。

「お願い、リゼル! もし庭に薔薇が咲いてたら、一本分けてもらえない……?」

 そういうことならお安い御用だ。ウォード家には一年を通して、薔薇を楽しめる庭がある。

「うん、いいよ。いま切ってくるから、ちょっと待ってて」

 初夏の輝くような薔薇もいいけれど、リゼルは冬の薔薇も好きだった。どんよりと曇りがちな寒空の下、可憐に色づく花を見ていると心まで明るくなる。

 リゼルが庭で切ってきた純白の薔薇を渡すと、玄関ホールで心配そうに待っていたヒューイの表情がようやくぱっと晴れた。

「あぁ、よかったぁ……ありがとう、リゼル!」

「どういたしまして。ところでこれ、どうやって持っていくの?」

 空を飛んだらまた同じ悲劇が起きてしまいそうで、少し心配だった。なにしろヒューイは、ただでさえ普通の妖精よりも飛ぶのが速い。

「やっぱり歩いていったほうがいいかなぁ? でも、お昼まで時間がないし……」

 悩むヒューイを前に、リゼルも頭をひねり――ふと、玄関ホールで目立たぬように控えていたコーコランが目に入った。

 ――そういえば昨日、馬車の手入れをしていたような……。

 妖精の飛行速度には及ばずとも、馬車ならば歩くよりも確実に速い。

「コーコラン! 今日、キリアンが馬車を使う予定ってありましたっけ?」

「いえ。本日はございませんよ」

「なら、ヒューイに貸してもいいでしょうか? 実は……」

 リゼルが事情を説明すると、コーコランはふたつ返事で了承してくれた。ヒューイも感激し、「ありがとうございますっ!」と勢いよく頭を下げる。

 すみやかに用意された馬車に乗り、ヒューイは慌ただしく女性の家へと出発した。

「ヒューイ様のご用がお済みになりましたら、お知らせください」

 そう言ってコーコランも執事室へ戻ると、騒がしかった玄関ホールが途端に静かになった。

 リゼルもなんとなく一仕事終えた気分になり、ヒューイが取り結ぶ男女の恋の行方に思いを馳せる。

「プロポーズかぁ……」

 リゼルはプロポーズをした経験も、された経験もない。結婚を決めたのは族長なので当然といえば当然なのだが、人並みに興味はあった。

 ――自分たちで「結婚しよう」と決めるのって、どんな感じなんだろう……?

 もしリゼルとキリアンが一介の妖精と人間として出会い、恋に落ちたとしたら――なんて、たわいもないことを想像してみる。

 果たしてリゼルはキリアンに対し、「結婚してください」と言えるだろうか。

「……そんな勇気、出ないかも……」

 自分でも情けないけれど、まったく自信がなかった。断られたらどうしよう、と考えただけで不安になる。でも――。

 ――キリアンならどうかな……?

 いざ“そのとき”が訪れたとしたら、キリアンは求婚してくれるだろうか。

 そんなささやかな疑問が、ふっと頭に思い浮かんだ。

 リゼルと違って勇敢なひとだから、怖じ気づいたりはしないはず。

 それに、いつでもすごくかっこいい。プロポーズのときはきっと、物語に出てくる騎士のようにひざまずいてくれるだろう。

 それからリゼルの手をとって、手の甲に口づけたそのあとは――……。

「はぁ……いいなぁ……」

「――――なにがいいんだ?」

「!? ……っキリアン……」

 突然声をかけられ、びくっ! とした瞬間、背中のスリットから羽が開いた。あまりの動揺ぶりに、キリアンが「そこまで驚かなくても」と苦笑する。

「な、なんでっ……? 書斎でお仕事をしてたんじゃ……?」

「一段落したから休憩しようと思って。ところで、『いいなぁ』っていうのは……」

「別に、な、なんでもありません」

 重ねて尋ねられ、リゼルはとっさに誤魔化した。隠し事などない仲とはいえ、願望という名の妄想を打ち明けるのはさすがに恥ずかしい。

「それよりさっきまで、ヒューイが来てたんですよ」

「ヒューイが? ――ああ、菓子店で店番をする日だったか」

「はい。でも、今日は別の用事もあって……」

 リゼルがやや強引に話題を変えると、キリアンはそれ以上突っ込んでこなかった。一連の出来事を聞いて、微笑ましそうに眦を緩める。

「うちの薔薇が力になれたならよかった。求婚もうまくいくといいが」

「そうですね。帰ってきたら、話を聞きましょう」

 どこの誰かはわからないが、これも縁だ。成功しますように、と微力ながら祈る。

 そわそわしながら、待つこと数時間。

 午後になって戻ってきたヒューイは満面の笑みで、薔薇の届け物も、プロポーズもうまくいったと報告してくれた。

「お礼だよ」と言って渡されたのは、彼が手伝っている店の看板商品――西南の国で修行をしたという店主特製フィナンシェの詰め合わせだ。

 妖精郷へと帰るヒューイを見送り、キリアンとふたりで早速いただいてみると、「これは確かに宙返りしたくなるかも」と唸ってしまうほどのおいしさだった。

 さっくりと焼き上がった生地は口に入れるとしっとりと溶け、焦がしバターの豊かな甘みが広がっていく。

「おいしいな。きみの幼馴染みは、いい店を見つけた」

「はいっ!」

 大好きなひとの微笑みに、リゼルの心まで甘くなる。

 同時に、浮ついた空想をした自分が情けなくなった。こんなにも幸せなのに、プロポーズに憧れるだなんて、単なるないものねだりだ。

 ――だめだめ。これ以上欲張ったら、罰が当たっちゃう……。

 リゼルはそう自分に言い聞かせながら、ティーカップにお茶のお代わりを注いだ。



 そんなことがあってから、数日後の朝。

 リゼルはいつものように、夫婦の寝室で目を覚ました。

 キリアンは早々に身支度を終え、「先に行ってる」と部屋を出て行く。

 リゼルも着替え終わり、朝食室に向かおうとして――コツン、と窓のほうからなにかがぶつかったような音を聞いた。

「……?」

 気になって窓辺に近寄ると、思わず「あっ」と声が出る。

 そこには誰がいつの間に置いたのか、薄紅色をした一本の薔薇があった。

 リゼルは急いで窓を開け、その薔薇を手にとる。まだ瑞々しい葉をつけた茎には、手紙が結ばれていた。

『――薔薇の庭で待っている』

「……!」

 筆跡は間違いなくキリアンのものだ。

 なんで? どうして? と、頭が疑問符でいっぱいになる。一方で薔薇の持つ意味を思うと、にわかに鼓動が速くなった。

 ――もしかして……ううん、そんなわけない。でも……。

 半信半疑のまま寝室を出た。期待と緊張が半分ずつ胸に渦巻き、廊下を急ぐ足下がふわふわする。お屋敷の外に出るころには、早足から駆け足になっていた。

 赤みを帯びた深い葉色が目を引く、静謐な美しさに溢れる冬の庭。それらと対照的に淡く、明るく色づく薔薇に彩られた一角に、愛しいひとが佇んでいる。

「っ、キリアン……!」

「――リゼル。そんな薄着で……」

 駆け寄ったリゼルを見るなり、キリアンがぎょっと目を瞬く。

 立ち止まってはじめて、空気の冷たさに気づいた。はぁ、はぁ、と上がる息も白い。

 それでも頬が火照るほどの高揚感のおかげで、寒さなんて微塵も感じなかった。

「平気です、全然。そうじゃなくて、あの……これはいったい……?」

 リゼルが手に持った薔薇を見せると、キリアンは冗談めかした声で言う。

「おかしいな。きみは妖精だというのに、薔薇を贈る意味を知らないのか?」

「し……知ってます。でも……」

「だったら、心の準備を。きみに必要なのはそれだけだ」

 キリアンは冬の庭に躊躇なくひざまずいた。リゼルの手をとり、祈るような面持ちで口づけてから、ゆっくりと顔を上げる。

「愛しいリゼル――どうか、私と結婚してください。この命に替えても、生涯あなたを幸せにすると誓います」

「――……っ!」

 実直で飾り気のない言葉は、キリアンの人柄そのものだった。

 深青色の瞳から放たれるまなざしが、リゼルの胸をまっすぐに射貫く。

「リゼル――どうか返事をしてほしい。きみの答えは?」

「……、はい……!」

 声を震わせ返事をしたリゼルを見て、キリアンが安堵したように微笑んだ。

 立ち上がり、まだ動けないままでいるリゼルを寒風から守るようにそっと抱くと、髪にやさしくキスしてくれる。

「よかった。断られたらどうしようかと、ハラハラしていたんだ」

「まさか……でも、驚きました。なんで急にプロポーズを……?」

「きみの望みはなんでも叶えてあげたい。それだけだ」

 キリアンの言葉に、数日前の出来事を思い出す。ひょっとして――、

「ヒューイが来た日に、僕が『いいなぁ』って言ったから……ですか?」

 ああ、とキリアンがうなずいたのを見てようやく腑に落ちた。でも、なにを羨ましがっていたかは秘密にしていたはずなのに。

 どうしてだろうと首を傾げると、「あの流れで話を聞けば予想がつく」と笑われてしまう。うまく誤魔化したつもりだったのに、キリアンにはお見通しだったらしい。

 昨夜は緊張してなかなか眠れなかった、と打ち明ける顔をよく見てみると、確かに目許がほんのりと赤かった。

 どきどきしたのは自分だけではない。そう思うと、胸がきゅんとときめいた。

 リゼルがキリアンを愛するように、キリアンもまたリゼルを愛してくれている――その事実が、とてもとても嬉しい。

「ありがとうございます。僕……本当に幸せです。キリアンにもこの幸せを返せたらいいのに……」

 いつも自分がもらってばかりで、申し訳ない。そんなリゼルの言葉に、キリアンが「きみは謙虚だな」と呆れたように笑う。

「私はきみといるだけで、毎日幸せだというのに。だが、そうだな……もしもきみの気が済まないというのなら、その唇を私に――……」

 求められて目を閉じると、やさしいキスが降りてくる。冷たい外気のなかで唯一、重ねられた唇だけが熱かった。

 口づけをほどくと、ひらり、と白いものが舞う。小さくて冷たいそれは、触れるとすぐに溶けてしまう雪片だ。

「……初雪だ」

 キリアンの呟きで、リゼルは鈍色の空を仰ぐ。ひらり、はらりと降り始めた雪は、ふたりを祝福するフラワーシャワーのように見えた。

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