蒼霖、月を拾う
夏の盛りを前にした、新月の夜。
よく晴れた空には雲もなく、数多の星が瞬いている。
昼間の蒸し暑さが色濃く残る中、蒼霖は遠方での土木工事の仕事を終え、天泣街の路地を一人で歩いていた。
盛り場のある地区から一本入った道は、酔客の浮かれた声も、ならず者たちの騒ぎ声も聞こえず静まり返っている。
――疲れたなぁ、今日も……。
地方を点々としながら暮らし、この街に流れ着いて約二年。
手頃な住まいも見つかり、日雇いで働くのにもすっかり慣れたけれど、相変わらず休む暇はない。
重たい身体を引きずるようにして歩いていると、ふと、近くでなにかが動く気配がした。
「……」
咄嗟に息を殺して身構える。希少種である己の身を守るために、自然と身についた癖だった。
だが、周囲に怪しい人物は見当たらない。
気配の出所は道端に捨て置かれたがらくたの山だ。脚の折れた卓子や椅子に紛れて、なにか小さなものが横たわっている。
「……子供……?」
それも、まだ年端もいかない幼子だ。近寄ってみると、肌も髪も泥で汚れている。
着物の柄から見るに、男の子のようだった。おそるおそる脈を確認し、「よかった、生きてる」とほっとする。
「坊や、坊や。大丈夫……?」
「……うぅ、ん……。あれ、ぼく……」
目を覚ました男の子は蒼霖を見て、不思議そうに瞬きを繰り返した。
歳はおそらく四つか五つほど。どこか痛いところはないかと尋ねると、男の子はふるふると首を振った。
「坊や、迷子? おうちを教えてくれたら、オレが送っていくよ」
「おうち?」
「うん。どこからきたの?」
「……。わかんない……」
「通りの名前とか、目印になるような建物でもいいよ。覚えてない?」
「…………」
蒼霖が畳みかけるように訊くと、子供の顔が瞬く間に歪んでいく。しまったと思ったときにはもう遅く、円らな瞳に涙が盛り上がっていた。
「わかんないよぉ……」
「ああー……ご、ごめん、オレが悪かった。泣かないで、な?」
きっと心細さゆえに混乱しているに違いない。ぽろぽろと零れる涙を拭いながら、参ったな、と内心ため息をついた。
役所に届けようにもとっくに閉まっているだろうし、今日のところは蒼霖が連れて帰るしかない。
――迷子ならまだいいけど……。
よくない想像が脳裏をよぎり、暗澹たる気持ちになる。身寄りのない孤児は、この街ではさほど珍しくない。
「ひとまず今日はオレと一緒に帰ろう。……歩ける?」
立ち上がらせようと手を差し出すと、男の子は「ううん」と言わんばかりにうずくまる。途端、ぐぅ、きゅるると気の抜けた音が鳴った。どうやらお腹が空いて歩けないらしい。
「しょうがないな……ほら、おいで」
抱き上げると、男の子は遠慮なく体重を預けてきた。幼子とはいえ、一日中働いた身体にはずっしりと重い。
――体温、高いな。子供だから……?
抱えた温もりに、少しだけ戸惑う。
汗ばむような夜だというのに、なぜか不快ではなかった。
坊やの名前は銀露といった。
泥汚れを落とした肌はつやつやで、髪は美しい銀色をしている。大きな目は夜空のように澄んでいて、にこにこと笑う顔がとても可愛い。
翌朝、蒼霖は銀露の身元を確かめるため、再びいくつかの質問を試みた。
しかし住んでいた場所はおろか、自分の歳や、親の名前さえ覚えていないという。
銀露は単なる迷い子ではなく、記憶を失っていたのだ。
蒼霖は自力で親を捜すことを早々に諦め、天泣街地区を管轄する役所へと赴いた。銀露を身元不明の子として届け出るためである。
だが折悪しくほとんどの役人が出払っており、届出は受理されたものの、「詳しい話は後日聞きに行くから」と追い返されてしまった。なんでも黑道組織絡みの大きな事件が起きたばかりで、ほかの業務に回す人手がないのだという。
結局銀露を連れて帰るよりほかになく、期せずして幼子との二人暮らしが始まった。
役人が聞き取りにくるまでという期限つきではあるが、誰かと共に寝起きするのは、父親を亡くして以来久しぶりのことだ。
常に他人と一定の距離をとるのは、竜人希少種としての処世術でもある。
しかし、銀露にはまったく通用しなかった。隙あらば蒼霖の隣にきて「ねぇねぇ」と話しかけてくる。
「これ、ほしあんず、っていうの? とってもおいしいねぇ」
「きょうはねぇ、おとなりの才良とあそんだよ。いろんなえをかいたの」
「ぼく、いいこでまってるから、はやくかえってきてね?」
銀露と何気ない言葉を交わし、形のいい頭を撫でてやるたびに、温かな感情が胸いっぱいに溢れた。
ただいまを言う相手がいること。
おはようの挨拶で一日が始まり、夜は狭い布団で共に眠ること。
なぜかいつもよりも、ご飯がおいしいこと……。
ささやかなやすらぎはどこか懐かしく、蒼霖の胸をせつなく締めつける。
よくない兆候だということは、嫌というほどわかっていた。情が移ったりしたら、一人に戻れなくなってしまう。
早く銀露と離れなければと、そればかりを考えた。
そもそも二人でいること自体が危険なのだ。銀露自身に害はなくとも子供は人目を引くし、他人と関わらざるを得ない場面も増える。
これ以上深入りしてはいけない。
そう、頭ではわかっているはずなのに。
今日も甘えてくっついてくる銀露を、どうしても突き放すことができない。
担当の役人がやってきたのは、結局半月ほど経ってからだった。
銀露の置かれた状況に驚きながらも、迷い子そのものは珍しくないのだろう、役人は冷静に聞き取りを進めていく。
しかし記憶を失ったままでいる幼子は、なにを尋ねられても当然、「わかんない」としか返せない。
傍らではらはらする蒼霖をよそに、役人は根気強く質問を重ねた。
「おうちの周りになにがあったか、わかるかい? よく遊びにいった場所でもいい」
「……」
「なら、お父さんやお母さんの顔の特徴は? どんな着物を着ていたのかな」
「……、……」
銀露の眉がきゅっと寄り、唇が引き結ばれていく。彼なりに頑張っているようだが、本気で思い出せないのだろう。どんどん悲しそうな顔になるのが可哀想で、つい、「もうやめてください」と口を挟みそうになってしまう。
「ううむ、これもだめか……。では、ほかの家族はどうかな?」
「……かぞく?」
「そう。誰か、大人が一緒にいなかったかい? きみにご飯を食べさせてくれたり、寝かしつけてくれたりした人が」
途端、銀露の表情がぱっと輝く。
ああ、ようやくなにか思い出したのだと、期待に胸躍らせたそのときだった。
「かぞくは、蒼霖!」
「…………えっ?」
突然自分の名前を呼ばれ、蒼霖は目をぱちぱちと瞬いた。
「お、オレ? いや、オレはちが……」
「いっしょにごはんたべて、おなじふとんでねてるもん。ぼくと蒼霖は、『かぞく』だよね?」
「いや……それは……」
――違う。オレはきみの家族じゃない。ただ、なりゆきで拾っただけだ。
はっきりとそう訂正すべきなのに、言葉は一向に出てこない。
銀露はきらきらした瞳で蒼霖を見つめていた。否定されるとは夢にも思っていない様子に、ますますなにも言えなくなる。
「この子はこう言っているが……どうするかね」
役人は同情的な目で蒼霖を見た。
迷うことはない。「オレはなんの関係もありません」と言えば、彼は銀露を役所に連れて行くだろう。……そのあとどうなるかはわからないが、少なくとも蒼霖といるよりは、まともな暮らしができるはずだ。
――オレが面倒を見るのは、絶対に不可能なんだから……。
自分の身の安全が危うくなるばかりか、この子にとっても益はひとつもない。
銀露のためを思えばこそ、ここで別れるべきなのだ。だけど――。
――それでいいのか? 本当に……?
役人に引き渡せば、もう二度と会うこともないだろう。蒼霖は一人の生活に戻り、銀露はどこかで健やかに暮らす。
……そんな“あるべき”日々を想像しただけで、胸がぎりっと軋んだ。頭と心がまるでちぐはぐで、どうすればいいのかわからない。
いや、わかっているのに、そうしたくない――。
「……すみません、お役人さま」
震える拳をきゅっと握った。
自分の選択は間違っているかもしれない。もし亡き父が天から見ていたら、きっと「諦めなさい」と諭すだろう。
けれど、今回ばかりは従えなかった。銀露のくれた温もりは、かつて父と暮らしていたときに感じたそれと、そっくりだったからだ。
「届出は取り下げさせてください。この子はオレが引き取ります」
「な――なに?」
役人は困惑顔で「いいのか?」と尋ねてくる。
しかし、気持ちは変わらなかった。
「はい。…………もう、家族ですから」
そう答えた声も身体も、まだ少し震えている。
だけど、撤回する気は微塵もない。「家族なんだから」と、今度は心の中で呟いた。
「はぁ〜……」
役人が帰って部屋に二人きりになると、銀露は大きなため息をついた。
「へんなひとだったねぇ? ぼく、つかれちゃった」
「うん……ごめんな、無理させて」
「ううん! でも、ぼくにかぞくがいてよかったぁ。ねぇ、蒼霖?」
「……うん……」
緊張の糸が切れたのか、うまく笑い返せなかった。一点の曇りもない銀露の笑顔が、ただただ眩しくて泣きそうになる。
「蒼霖……どうしたの? おなかいたいの?」
「……、ううん……」
痛いのはお腹じゃなくて胸だ。
天涯孤独の身になってからずっと忘れていた――否、忘れようとしていた感情が、存在を主張し始めている。
もう、一人になりたくない。誰かにそばにいてほしい。
――ずっとずっと、そう思ってた……。
「蒼霖……ないてるの……?」
違うよ、と言いながら銀露をぎゅっと抱き寄せた。本当は瞼の奥が熱くて、今にも涙が零れそうだったのだ。
いつの間にか慣れた体温が、心の奥深くまでじんと沁みる。
この温もりにすがったら、弱くなるかもしれない。けれどそれはもはや、銀露を手放す理由にはなり得なかった。
この子と離れるくらいなら、意地でも強くなってみせる。銀露を守れるほどに強くなれば、怖いものなんてなにもない。
それは孤独な夜のごとき人生に射した、細い月明かりのような希望だった。
――銀露のためならなんでもする。なんだってできる……。
小さな身体を抱きしめ、蒼霖はそう心に誓った。
どんなときも強く、明るく、笑顔でいよう。
たった一人の大切な家族のために。
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