金豹王と子育て幸せレシピ

幸せのサプライズケーキ

 ノエルが王宮で暮らすようになり、二年の月日が経とうとしていた。

 宮廷料理人としての修行を積む傍ら、医学の知識を持つウィルバートと協力して、「食は薬」の教えを広める活動に取り組む日々が続いている。

 目が回るほど忙しい毎日も、ウィルバートとトリスタン、アシュリーと一緒なら、ちっとも苦にならない。

 けれど、その日だけは別だった。

 昨日からろくに眠れず、食欲もあまりない。ウィルバートからのとある「報せ」を待ち、ずっと気を張り続けているからだ。

『ノエル、大丈夫か? 足下がふらついてるぞ』

 気ままな精霊猫のアシュリーも心配してくれているようで、貯蔵室に向かうノエルのあとをタタタッと追いかけてくる。

『今日はもう上がったほうがいい。料理長にも許可はもらってるんだろう?』

「うん。これを運んだら終わりにするよ」

 言いながら指差したのは、貯蔵室に積まれた小麦粉袋だ。アシュリーは『大丈夫か?』と不安顔だけれど、この手の力仕事は慣れている――はずだったのだが。

「ノエル! ここにいたのか」

「……っ、陛下!? あっ」

 ずっしりと重たい袋を肩に抱え、立ち上がったそのときだった。

 背後から聞こえてきた声に反応し、振り返ると同時にビリッと嫌な音がした。肩で支えた袋がなぜか、どんどん軽くなっていく。

「――しまっ……」

 まずい、と思ったときにはもう手遅れだった。ドサドサッという鈍い音とともに、真っ白な粉が貯蔵室内に舞い踊る。振り返った拍子に袋をどこかに引っかけたらしく、破れ目から小麦粉が流れ出てしまったのだ。

「大丈夫か、ノエル!?」

 不運な大惨事を目撃したウィルバートが慌てて駆け寄ってくる。

「は、はい……ケホッ、ケホッ……くしゅんっ」

 幸いにして怪我はない。ただ小麦粉を吸い込んだせいか、咳とくしゃみが止まらなかった。

「へ、陛下は大丈夫ですか?」

「あぁ、おれはなんともない。それより早く小麦粉を洗い流さないと。可哀想に、髪も顔も粉だらけじゃないか」

「でも、ここを片付けなきゃ……」

「きみは気にしなくていい。アシュリー、人を呼んできてくれ」

『おっ、おう。わかった』

 身軽なアシュリーも小麦粉の直撃を免れたらしい。ふたつ返事で応援を頼む役目を引き受けてくれたので、ノエルは粉まみれのまま浴室に移動した。

 全身の粉を洗い流して着替え、ようやく人心地ついたところで、料理長から言伝が届く。「厨房への報告は不要、ただちに休むように」という指示にありがたく従って自室に戻ると、ウィルバートが待っていた。

「あぁ、よかった。元どおりのきみだ」

 ほっとしたように言うウィルバートは、まだ少し濡れているノエルの髪を愛おしげに撫でてくれる。仕事を終えたいまは、ふたりきりの甘い時間だ。

「ウィルさま、さっきはすみませんでした」

「謝るのはおれのほうだ。突然声をかけたせいで、驚かせてしまったよな。……それにしても今日は、ずいぶん不調だったんだって? 昨夜からほとんど眠っていないと、アシュリーに聞いた」

「あ……はい。でも、全然平気ですよ」

「本当に? きみの寝不足の原因は、例の会議のことだろう?」

「……」

 ウィルバートは黙ったノエルの手をそっと握った。そのまま寝台に座らせ、自分も隣に腰を下ろす。

 なにを言われるのかを察して、にわかに鼓動が速くなった。待ち続けていた「報せ」が、いま言い渡されようとしている。

「落ち着いて聞いてくれ、ノエル。宮廷会議の結果――おれたちの結婚は承認された」

「! ウィルさま……本当に……?」

「ああ。すべての廷臣たちに認められたんだ」

「――っ……!」

 愛しい人の声が喜びに震えるのを聞き、一気に安心感が押し寄せてきた。

 ノエルが待ち続けていた「報せ」――それはウィルバートがノエルとの結婚の承諾を得るための会議の、結果報告だったのだ。


◇◇◇


 アルビオン王国の王・ウィルバートと、新米宮廷料理人として働くノエル。

 二人が結ばれた経緯は王宮の事情に通じた者なら誰でも知っており、反対する者もほとんどいなかったのだが、正式な結婚となると躊躇する廷臣が大半だった。

 生来気さくな性格で、王族でありながら医師を志して民間の学校で学ぶなど、一風変わった王子として育ったウィルバート。

 玉座に就いてからもその性質は変わらず、風通しのいい宮廷政治を目指し、数々の改革を断行してきた。

 そんな型破りの王として知られ、かつ世継ぎをつくる必要がない――むしろ不要な継承争いを生じさせないよう、つくらないと決心している――とはいえ、ノエルとの結婚を敢行するのは簡単ではなかった。

 現王太子・トリスタンの血縁であり、王宮で職を得てはいるものの、ノエル自身はごく普通の庶民だからだ。

 でも、ウィルバートは決して諦めなかった。元来身分や家格を重んじる廷臣たちを相手に、粘り強く説得を続けてくれた。

 それが実ってようやく、結婚を認められたのだ。

「待っていてくれてありがとう、ノエル。きみはどんどんきれいになるから、おれは愛想を尽かされてしまうんじゃないかと正直ひやひやしていた」

 ウィルバートはノエルを抱き寄せ、頬にキスしながら「特に去年は肝を冷やした」と振り返る。二人のあいだにちょっとした騒動が起きたのは、約一年前のことだ。

 親善外交のためにやってきた異国の王族に、どういうわけかノエルが見初められたのである。

 王宮晩餐会でのもてなしに感動したというその王族に口説かれ、ノエルは当然即座に拒絶の意志を示したのだが、角が立たないよう振る舞うのはかなり骨が折れた。万が一外交問題にでもなったら大変だからだ。

 最後は話が丸く収まったものの、ウィルバートのやきもちはしばらく続き、ノエルと婚姻関係を結べないでいる自分のことを相当責めた。廷臣たちからも責任を感じる声が上がり、結果として結婚の後押しになったことだけは、よかったかもしれない。

「僕が愛想を尽かすなんてありえません。ウィルさまだけが大好きです」

「ノエル……あぁ、おれもだ」

 互いの気持ちを確認しあい、自然と唇が重なった。ほんのりと温かな交わりに、心まで愛情に包まれる。

 最初は一緒に暮らせるだけで充分だと思っていた。なのにいまはこの温もりがなければ、一日だって耐えられる気がしない。庇護され、甘やかされる夢のような幸福に浸りきって、すっかり欲張りになってしまった。

「ノエル、おれと結婚しよう。必ずきみを幸せにすると約束する」

「っ……はい、ウィルさま。よろしくお願いします……!」

 プロポーズを受け、もう一度キスをする。誓いの証のように厳かで、とびきり甘い口づけだった。

「――きみに見せたいものがあるんだ」

 ウィルバートはおもむろに立ち上がると、小卓に置いてあった銀盆を持ってきた。

 見た瞬間、思わず「わぁ」と声を上げる。そこにあったのは愛らしいケーキだ。

 たっぷりの生クリームと、薄く削ったホワイトチョコレートで再現されているのは、アルビオンの建国神話を思わせる純白の雪原。そこにきらきらした菫の花の砂糖漬けが咲いている。二人で食べるのにちょうどいい大きさだ。

「厨房の皆がおれたちに内緒で用意してくれていたらしい。『本番はもっと大きくて立派なものを作るから期待しててほしい』という伝言つきだ」

「本番、って……」

「もちろん、おれたちの結婚式だろう?」

 ウィルバートに言われ、伝言の本意に気づく。これはただのケーキではない。仲間たちの祝福がこもった、プレ・ウェディングケーキなのだ。

「…………」

 嬉しさのあまり、言葉が出てこない。

 昨日今日の思いつきで作ったものとは思えない。きっとノエルたちの結婚が承認されると信じて、前から準備してくれていたのだろう。

 厨房で孤立していたころからは考えられない。時間をかけて信頼を築き上げ、仕事を通して結んだ絆に胸が熱くなる。

「なんとも洗練されたデコレーションだな」

「はい。それにすごくおいしそう……」

「よし、早速いただこう」

 予行練習にと二人でナイフを持って、小さなウェディングケーキを切り分けた。「おれからきみに食べさせたい」と言われ、「あーん」と口を開ける。

「! お、おいしい……!」

 舌触りも後味もふんわりまろやかな生クリームに、濃厚なホワイトチョコレートの甘みがきいている。王宮秘伝の黄金レシピで焼かれたスポンジとの相性も抜群で、口に入れると淡雪のようにとろけた。

「ウィルさまも食べてください! 早く早く」

 今度はノエルがウィルバートに「あーん」をしてあげる。口に入れた途端、驚きで長い睫毛を瞬かせ、「うまい!」と絶賛した。

 一口ずつ食べさせあうたび、甘い幸せが胸に満ち満ちていく。

「あぁ……おいしかった。こんなにおいしいケーキ、生まれてはじめてです」

「おれもだ。きみと一緒に食べられて、本当によかった」

「ウィルさま……」

 ノエルが言おうとしたことを、先に言われてしまった。皆の思いがこもった極上のケーキを、大好きな人と一緒に食べる――こんなにもおいしい幸せが、この世にあるだろうか。

 ぴたりとくっついて甘えると、察したようにキスが降ってきた。ちゅっと軽く啄むようなそれからだんだん、食べられてしまいそうなほど深くなる。

 合間にウィルバートがふと呟いた。

「うちの料理人の腕は非の打ち所がない。だが、きみの唇のほうが甘いな」

「……ウィルさまの言葉のほうが甘いですよ?」

「そうか? ならもう一度確かめさせてくれ」

「んん……」

 終わらない口づけに、眼裏がじんと潤んだ。その隙をついて器用な舌が入り込み、ノエルのそれと絡みあう。

 かつてはたどたどしかったキスも、ウィルバートの指導ですっかり上達した。舌をこすりあわせると吐息は情欲を帯びて濡れ、濃密な夜を匂わすものへと変わる。

 けれどウィルバートは、すい、と身体を引いてしまった。

「――すまない、やっぱりだめだ。おれときたらきみの甘さに酔って、もっともっとと求めてしまいそうになる」

「っ……、やめちゃうんですか?」

「の、ノエル……いいか、おれは」

「求めてください、って言っても……?」

 うっ、と言葉につまったウィルバートが、己を律するように深呼吸して言う。

「さすがに今夜はちゃんと眠ったほうがいい。きみに無理をさせたくないんだ」

「…………」

「あぁ、ノエル。頼むからおれをそんな目で見ないでくれ。これでも必死に我慢しているんだ」

 めでたく結婚が認められたこの日、誓いのキスを交わし、ウェディングケーキまで食べたというのに、ウィルバートはノエルを抱く気はないという。

 雰囲気に流されない優しさは、ウィルバートの愛情そのものだ。

 だけど我儘を承知で言えば、朝までそばにいてほしかった。

「じゃあ、ウィルさまも隣で寝てくれませんか?」

「おれが、ここで?」

「はい。起きたときに、今日のことが『夢じゃなかった』って思えるように……」

「ノエル……」

 夢みたいな幸せだからこそ脆く、儚い幻のように思えてしまう。もしも朝ひとりで目を覚ましたら、寂しくて泣いてしまうかもしれない。

 我ながら子供みたいだ。それでもウィルバートはからかったりせず、「わかった」とうなずいた。

「なら、きみがよく眠れるように最善を尽くすとしよう」

「……?」

 首を傾げるノエルの前で、ウィルバートの身体が突如、まばゆい光を放った。輪郭は濃やかな光の粒となって融け、寝台の上に立派な金色の豹が現れる。

『おいで、ノエル』

「ウィルさま……!」

 愛しの金豹にぎゅっと抱きつき、黄金色の毛並みに顔を埋めた。麗しき王の被毛はつやつやのふこふこで、顔をうずめるとうっとりしてしまう。

「大好き、ウィルさま、大好き……」

 ふさふさの獣毛を撫でながら、何度も何度もささやいた。

 贅沢な添い寝を堪能していると、ほどなくして眠気が襲ってくる。どうやら、自分が思っていたよりずっと疲れていたらしい。

『ゆっくりおやすみ、ノエル。愛してる――』

 眠りに落ちる寸前に聞こえた金豹の呟きは、決して覚めない夢のような毎日を予感させた。

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