中国視察
この長い物語もやっと振り出しに戻った。冒頭のシーンを覚えているだろうか。伊刈は香港のマンダリンオリエンタルホテルに滞在していた。田辺知事の申し入れを断ったのち、伊刈は香港に向かい、そこで安座間彌香と再会したのだった。
「昨日はゆっくりおやすみにならはりましたか」
ロビーに降りると、通訳の呉(ウー)が意味深長な笑みで出迎えた。昨夜出会った美女(安座間)と一夜を過ごしたに違いないと思っていたのだ。
「そうでもないな」伊刈はあくびを飲み込みながら答えた。
伊刈と呉は、ホテルを出て陸路を深センに向かうため、タクシーで地下トンネルを潜り、昨夜はフェリーで渡った九龍に出た。その先はもう中国本土だ。香港の行政権は中国に返還されたが、まだ本土との間にはイミグレーション(入管)があった。中国人の呉は香港で伊刈を出迎えるため、通行証の交付を受けていた。日本人はビザが不要なので、日本人のほうが中国人よりも通関が自由だった。小さな検問所でパスポートにスタンプを押してもらっただけで、すんなり本土側に出ると、深センの案内役が待っていた。運転手かと思っていたら、名刺を差し出した。肩書きを見ると大安科技総経理と書かれていた。大安科技は大安商会グループの現地法人で、趙は社長だった。
「お待ちしておりました」
日本語ができない趙は中国語で挨拶したあと、自らビュイックのハンドルを握り、深センに向かった。八十年代、鄧小平の改革開放の最初期から開発された深センは、経済特区の代名詞として、すっかり成熟した街区が形成されていた。どこまでもだだっぴろいところは、アメリカ西部の開拓地のようだった。
「朝ごはんを食べませんか」
深せんに着くなり、趙が中国語で食事に誘った。同意も得ぬまま、趙はデパートの最上階の食堂に伊刈を案内した。中国のデパートは、吹き抜けを囲んだフロアを積み重ねたオペラハウスのような構造になっているところが多かった。パリのギャラリー・ラファイエットを真似た構造なのだ。昔はそれが豪奢に思えたのだろうが、今となってはなんとも古臭い感じがするのは、本家のラファイエットと同じだった。
最上階の食堂も、吹き抜けを囲むオープンスペースで、そこに所狭しとテーブルが並び、まだブランチの時間帯だというのにほぼ満席だった。点心中心の品揃えで、さまざまな包(パオ)や麺が次々とワゴンで運ばれてきた。適当に選んでいると、たちまちテーブルがいっぱいになった。伊刈は広東省の郷土料理だというウドンが気に入った。熱湯に練ったウドン粉を直かに流したもので、水団ともウドンとも湯葉ともつかぬ代物だったが、淡白でうまかった。
趙が次から次と注文する点心に舌鼓を打っていると、チーパオ(チャイナドレス)を来たモデルのような美女がやってきた。痩身で清楚な姿にチャイナドレスがよく似あった。
彼女を見るなり、呉が立ち上がった。
「伊刈さん、私の通訳はここまでなんや。ここからは何(ハー)さんがご案内しなはります。趙社長の会社の親会社の秘書ですから、なんでも遠慮なく申しつけなはれ」
「何です。よろしくお願いします」
何は流暢な日本語で挨拶した。
あっけにとられる伊刈を尻目に呉は退席し、何が伊刈の隣に座った。
「親会社とはどこですか」
「上海のサウルス・マテリア・グループです」
「なるほど、そういうことならわかりました。ちょっと失礼」
伊刈は食堂を横切っていく呉を追いかけ、通訳契約を延長したいと申し入れた。呉は何がいるから自分は不要だと固辞したが、仕事の通訳は何、プライベートな通訳は呉に頼みたいと口説き落とした。
結局、呉は伊刈の下に戻った。
趙が運転するビュイックは郊外にある工業団地に向かった。郊外といってもどこまでもレンガつくりの建物が続いている。建物の一階はどこも商店で、二階以上が住宅だ。この構造が延々と続く。中国全土の町が大都会から田舎の村まで全部この構造になっている。もっとも、これは中国のオリジナルではなく、ヨーロッパの町並みの安っぽい模倣である。中国本来の町並みは、中庭を囲んで四方に建物を配した胡同(フートン)である。古都に残っているフートンはどんどん壊されて近代的なマンションに建て替えられている。歴史的な遺構も偉人の生家もおかまいなしである。
子供たちが遊んでいる狭い街路を大型トレーラーが数珠繋ぎになってフルスピードで疾走していった。趙が向かっているリサイクル団地に行くのだと思われた。
「このあたりには日本のプラスチックを再生している会社がいっぱいあります」趙の説明を何が通訳した。「大安商会グループの工場は三つあります。全部ご案内するほうがよろしいですか」
「お願いします」
「それじゃゆっくりとご覧ください」何の通訳に頷きながら、伊刈はビュイックを降りた。
リサイクル団地というだけあって、右にも左にも廃棄物の山が見える。ただ、日本の産廃銀座との違いは、その山が全部資源だということだ。その証拠に雑前と積まれてはいるが汚れてはいない。電線、金属スクラップ、ダンボール、プラスチック、廃家具、古着、なんでもありである。
大安科技は、日本から輸入したプラスチックをペレタイザー(造粒機)で溶かしてペレットに加工している会社だった。原料のベールも紙袋に入った製品も倉庫の中に大切に保管されている。製品には出荷先の日本の化学企業の社名が印字されていて、ちょっと見にはその企業の製品のようである。
「日本の工場と違うので、驚かれましたか。日本のような巨大なプラントは中国では必要ないのです。手で分けて溶かして切るだけです。それがリサイクルには一番です。それ以上は必要ないです」
「日中の人件費の差が十倍あるからですか」
「そうではありません。リサイクルは機械でやるものではありません。それが大安グループの哲学です」
「大安グループの代表は馬(マー)さんですね。馬さんはどちらに」伊刈は試しに聞いてみた。
「馬代表は武漢(ウーハン)で待っています」何が答えた。「深せんと広州の工場をご案内したら武漢にご案内します」
「武漢にも会社があるんですか」
「工場はありません。馬代表の故郷で、ご自宅があります」
JHK特集に登場した人物の中で勝ち組になったのは大安商会の馬だけだった。他の人物は何かに憑かれたように起業し、倒産し、破産し、夜逃げしてしまった。これほど勝敗がはっきり分かれるとは思わなかった。
視察もそこそこに市内の薬膳料理店で昼食をとり、そのまま空港に向かって趙と別れ、伊刈と何と呉の三人は、国内線で広州に飛んだ。妙齢の通訳を二人も連れたぜいたくな旅になった。
広州郊外のホテルに到着すると、その日は視察日程がなかったので、何は翌日の予定を説明して辞した。
「何さん、美人やね」呉が言った。
「そうだね。さすがSMGの秘書だ」
「私でほんまによかったか」
「呉さんも美人だよ。それにSMGにプライベートな情報は知られたくない」
「広州にも香港みたいなガールフレンドいてはりますか」呉は真顔で聞いた。
「いませんよ」
「それなら夕ご飯は私とデートでよろしいでっか」
「いいですよ、なにかおいしいものがありますか」
「少し遠いけど田舎の鶏を食べさせる店がありまんねん」
「じゃ、そこで」
「遠いから、すぐでかけるよ」
呉が案内したのは、広州市の中心から車で二時間も走ったところにある、西部劇にでも出てきそうな砂漠の中のオアシスのような小さな村だった。渇いた畑に葱のような作物がいくらか育っているだけの埃っぽい村だ。せいぜい人口数千人と思われる寒村なのに、似つかわしくない大きなホテルが建っていた。
「どうしてこんな村にこんな大きなホテルがあるのかな」
「温泉があるね」
すぐに呉の推薦の鶏料理を出してもらった。首がやたらと長い日本では見たことがないスリムなモデル体型の金鶏が雄雌つがいで出された。放し飼いにしている鶏肉には経験がない弾力があって、薄く酸味を利かせたシンプルな味付けが肉本来の深い味わいを引き立てていた。
「どうする。ここの温泉に入ってもいいし、広州に戻ってもいいよ」
「中国の温泉入ってみたいな。呉さんとせっかくのデートだし」
「ほんと、それうれしいね」
呉はなにか誤解したのか、伊刈に身をすりよせてきた。
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