地獄で天使

 釈放された伊刈を拘置所の玄関で出迎えたのは鷺沼から連絡を受けた逢坂小百合だった。

 「お勤めご苦労様でした」逢坂は深々と頭を下げた。

 「なんだい、その挨拶は。ヤクザの出所じゃあるまいし」

 「伊刈さんにお願いがあるの」伊刈がベンツの後部座席に座るなり、逢坂が言った。

 「いきなりかい」

 「昇山の社長になっていただけないかしら」

 「どうして?」

 「あたしには手に余る会社なのよ」

 「考えておきましょう。それより、どこかで風呂に入りたいね」

 「心得てる。こっちにホテルを取ってあるわ。新潟は料理もおいしいし、楽しい町だから、しばらくのんびりされたらどう。北陸の温泉を回られてもいいと思うわ」

 ベンツはそのまま市内のクラウンホテルに乗りつけた。

 逢坂は伊刈をロビーのソファーに待たせておいて、スィートルームのチェックインを済ませた。

 「お部屋にはお一人でどうぞ。落ち着かれたころにマッサージの子を三人送るから、お好みで選んでちょうだい。朝までお付き合いできるわよ」

 「キャンセルしてほしいな。呼びたいのはエンジェルキッスのユキエだけど、呼べるかな」

 「まあ、そうなの。わかった、伊刈さんの願いですもの、なんとかするわ」

 「心臓発作はごめんだと伝えてほしい」

 「まあ、失礼だことね。でも、発作が絶対に起きないとはお約束はできませんからね」

 伊刈はキーを受け取って最上階に上がった。

 ベッドサイドの電話の呼び出し音が鳴り続けていることに伊刈はやっと気付いた。同衾していたはずのユキエの姿はもうなかった。

 二日酔いでがんがんする頭を叩きながら受話器を取り上げた。

 「私は富山県の知事秘書をしております柏木と申します。実は田辺知事と都内で会っていただきたいのですが、いかがでございましょうか」まるで伊刈の無罪放免を待っていたかのようなタイミングだった。

 翌週、伊刈は田辺知事と、六本木のホテル・ウェールズのラウンジで待ち合わせた。秘書もSPも同行せず、都内での芸能活動をサポートしているマネージャーが同席していた。知事は内臓の大きな手術を受けたばかりだと言いながら、とても元気そうに見えた。

 「県の部長の椅子と年俸千四百万円を用意して伊刈さんをお招きしたいのですが、どうでしょうか」田辺知事は単刀直入に切り出した。ヘッドハンティングだった。

 「急なお誘いで、なんと答えてよいやら」

 「そちらの県庁では、伊刈さんの能力を発揮できないのでしょう」

 「処遇が不満だからといって郷土を捨てることはできません。郷土は生みの親も同然です」

 「ご事情はよくわかっているつもりですよ。わが県に来ていただければ、伊刈さんの好きなようにやっていただいて結構です。講演活動などは、今までどおりやってもらってかまわないですよ」

 この申し出は、ある意味で人生の岐路の一つだったのかもしれないが、伊刈は田辺知事の申し出を辞退した。彼は新たな戦場をどこにするかもう決意を固めていた。

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