レッドクリフ
広州のリサイクル工場の視察を終えた伊刈は、重慶まで飛び、そこから三峡クルーズの観光船で長江を二昼夜かけて下り、三国志縁起最大の古戦場である赤壁(レッドクリフ)に上陸した。長江は世界有数の大河だが、乾燥地帯を流れている上に、ダムで水量が落ちたのか、川幅は想像したほど広くなかった。難攻不落の要塞というイメージのある赤壁は、川岸の崖にすぎなかったが、古代の歴史に思いを馳せると不思議な感慨が沸いてきた。
赤壁の風景は不思議なことに伊刈が不法投棄軍団を撃退した扇面ヶ浦によく似ていた。伊刈にとっての赤壁の戦いは、扇面ヶ浦のあの絶壁だったのだ。
人口三十万人の赤壁市は中国では典型的な田舎町だった。現地のガイドの案内で「清雅茶苑」という麻布十番あたりにもありそうな洒落た名前の湖北料理店で昼食を食べた。内陸性の猛暑で有名なこの地域の料理は本来激辛だが、初めて訪れたという日本人客のために特別に薄口に調理してくれていた。新鮮な野菜、豚肉、川魚が控えめの香辛料でいっそう引き立っていた。
赤壁市からは運転手付きのレンタカーをチャーターして陸路で武漢へ向かった。
何が車内で電話をかけ始めた。中国語の電話は日本人には喧嘩しているように聞こえる。電話を終えると、何が首を振りながら伊刈を見た。
「馬代表はこっちに来れないそうです。上海にいます。武漢のホテルをキャンセルして上海に行きましょう」
「いいですよ」
「時間がないですから食事は簡単でいいですか」
「さっき食べたばっかりだよ」
「四季美(スーチーメイ)という湯包(タンパオ)の店がお勧めだそうです」
「毛沢東が好きだったそうやから、食べていきなはれ」呉が口をはさんだ。
「結局食べるんだ。タンパオってなに」
「知らない。小龍包みたいなものやと思うわ」
武漢空港から上海の虹橋空港までは一時間だった。ところが上海にも馬代表はいなかった。急用で東京に飛んだということだった。
「困りました。今日は上海環境局の人を呼んでしまいました。どうしましょう」さすがに何も困惑した表情だった。
何は空港から浦東に向かうタクシーの中でもずっと電話をかけ続けていた。
「伊刈さん、これから環境局の方と会食なんですが、なんとかなりませんか」
「僕一人ですか」
「代理が来ます」
「それなら大丈夫です」
「まず、ホテルでお着替えされてください」
何が案内したのは、上海のランドマークとなっている上海環球金融中心、通称せんぬきビルのホテルだった。台湾の台北国際金融センター(TAIPEI101)と同じ百一階建ての超高層ビルだった。
夕食会場はそこから程近い黄浦江沿いの中華料理店だった。中国はワインブームらしく、エントランスの両側にこれみよがしに天井までワインセラーが飾られていた。川越しにかつての外国人居住区の外灘(わいたん)の夜警を望める個室につくと、既に環境局の役人二人が席について酒を酌み交わしていた。
来賓全員と名刺を交換し、会食が始まった。伊刈が選んだイタリアワインと晩秋の珍味、上海蟹をメインにした薄味の上海料理の相性は悪くなかった。
三十分ほどしたところで、馬代表の代役が現れた。
「伊刈さん、お久しぶりです。雨音響(あまおとひびき)と申します」妖艶に着飾った雨音響こと逢坂小百合がにこやかに挨拶した。それから上海市環境局の二人にむかって流暢な中国語で挨拶した。
呉が雨音の挨拶を日本語に翻訳して伊刈に小声で伝えた。
「馬代表がこれなくなってごめんなさいね。リーマンショックの影響でプラスチックの価格が暴落して船が出んのですわ。ですがな、馬代表はここがチャンスと考えはりましてな、プラスチックでもスクラップでもなんでも買いまくってはりますのや。そやさかい、ほんまに申し訳ないことですが、当分は日本から離れられません。そのかわり、今晩は十分なおもてなしをさせてもらうさかい、勘弁してくれなはれ」
雨音のきれいな中国語も呉の大阪弁の翻訳で形無しだった。
挨拶が終ると、雨音は何を無言で睨みつけた。あとは自分がひきうけたから、あなたは帰りなさいという合図だった。何は無言の合図を悟って立ち上がった。呉は伊刈のプライベートな通訳だったので、そのまま同席した。
「買いまくってるって、どれくらい買ってるんですか」伊刈が雨音に聞いた。
「全部買うわよ」
「全部」
「ええそう、日本のプラスチックもスクラップも全部買うわよ。百万トン買うキャッシュを用意したわ。でも、私にはどうでもいいわ」
「もしかして、買ってるのは馬代表ではなく、SMGですか」
「このワインは伊刈さんが選んだの?」雨音は伊刈の問には答えずに、ワイングラスをとりあげた。
「いい趣味ねえ、それじゃレッドクリフに乾杯しましょう」
「レッドクリフ?」
「見てきたんでしょう。あなたはレッドクリフの英雄だわ。だって、長江を埋め尽くした曹操の水軍のような何万台もの産廃ダンプをたった一人で撃退してしまったのよ。でも、それで終ってはだめ。あなたはこれから国を破るのよ」
「どういう意味ですか」
「乾杯しましょう」
雨音がワイングラスを強く打ちならすと、グラスが砕け、ワインが白いドレスの袖を赤く染めた。雨音は何事もなかったかのように、グラスに残ったワインを一息に飲み干した。割れたグラスの縁で傷つけたのか、唇から赤い血が流れ落ちた。まるでサロメだと伊刈は思った。
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