奇策

 エックスデーはあっけなく訪れた。市庁に出勤したところを待ち構えていた新潟県警の刑事に逮捕状を示された伊刈は、そのまま身柄を拘束されて新潟まで護送された。このニュースは報道されなかったが、午前中のうちに市庁、県庁、さらには本省にも知れ渡った。

 拘引された伊刈は否認を続け、期限ぎりぎりまで留置され、身柄付きで送検された。

 新潟地検の拘置所は想像を絶するほど寒く暗かった。骨身にしみる寒さとはこのことだと初めて思った。起訴されることが確実となった以上、弁護士をつけなければならなかったが、伊刈がとくに指名しなかったので、国選弁護士がつけられた。

 当番弁護士として拘置所に呼ばれた赤羽は、伊刈に面会するなり自白を勧めた。

 「自白すればすぐに保釈になりますが、否認すれば一審判決が出るまで下手をすると一年以上も拘置されますよ。どっちみち実刑になるほどの罪ではないのに、事実上の禁固刑と同じ拘置が続くのはばかばかしいと思いませんか。しかも、無罪になったとしても補償は微々たる額ですし、一度傷ついた名誉の回復はできないでしょうし、職も失われてしまうでしょう。刑事事件で起訴された時点で負けなんです。自白して保釈申請し、罪状認否で起訴事実を争わず、情報酌量に訴えて執行猶予付きの判決をもらうのが得策ですよ。そうすれば一か月で保釈を取れます。一年拘置されて無罪になったところでなんの意味もありませんよ」

 伊刈は内心では、赤羽の忠告はしごくもっともだと思った。彼自身、不法投棄容疑で逮捕状が出た穴屋や一発屋たちに対して、いたずらに否認せずに保釈を取ることを優先したほうがいいと忠告したことがあったくらいだ。

 刑事事件での検察の勝率は9割以上なので、起訴されてしまったら、さっさと自白して保釈申請をするのが得策だというのは、たいていのケースではほんとうだった。ただし、安易な自白が思いがけなく重大な冤罪を生むこともあった。戦前から比べれば、さまざまな面で人権が大きく改善した日本だが、司法に絶大な権限があり、誤認逮捕や誤審で侵害された人権に十分な償いがない点で、日本はまだまだ旧態依然の体質を残しており、民主主義国の仲間入りをしたといえない状況におかれていた。

 「争いますよ。公務員は起訴されれば休職になり、刑が確定すれば失職するんです」伊刈は笑みすら浮かべて答えた。

 「あなたの素性は聞きましたよ。有名な産廃Gメンで、本も出されたそうですね。出る杭は打たれるということですか。どっちみち、もう役所には戻れないんじゃないですか。いまさらまだ身分を守る必要がありますか」

 「戻りますよ。戻らなければ負けでしょう」

 「負けるが勝ちが刑事事件ですよ。ですが、ご本人が名誉のために争われるというのならまあ、仕事ですから弁護はしますが、無罪のお約束はできませんよ」

 「いえ、ご心配なく。本日、あなたを解任します」伊刈は自白を勧める赤羽を即刻解任した。

 弁護士がいなくては公判が開かれず、いつまでも未決拘留が続くことになるので、国選を解任した以上、自分で弁護士を選任する必要があった。

 講演活動を通じて知り合った環境派の弁護士は少なくなかったが、政治的に中立とは言えない弁護士が多かったし、行政訴訟には強くても、刑事事件に強いとは思われなかった。

 刑事事件とりわけ暴力団がらみの事件なら、ヤメケン(検事あがり弁護士)が強いのは承知していたが、伊刈はあえて県庁の職員団体顧問をしている辻に左翼系弁護士だと承知の上で連絡を取った。辻はかつて伊刈を告訴した海の家の代理人だった。

 「海の家事件でお世話になった先生にぜひ弁護をお願いしたいんです」

 「私にどうして?」辻はもちろん伊刈の事件に関心を持っていたが、弁護を依頼されるとは思いもよらなかった。

 「県庁の職員団体の顧問をされていらっしゃるんですから、無実の容疑で逮捕された職員の弁護をお願いするのは、自然の流れじゃないですか」

 「ほんとですか。それはおもしろいですね」

 「職員団体あげて支援していただけるとうれしいですが」

 「わかりました。職務熱心な職員の無実を晴らすんですね。これこそ私の仕事です。海の家問題では不本意な告訴でご迷惑をおかけましたが、今回は罪滅ぼしをさせていただきます」

 もちろん、辻弁護士の言葉が社交辞令だということはわかっていた。二つ返事で弁護を引き受けたのは、役所の内情に切り込む格好のチャンスだと思ったからだろう。しかし、彼のような海千山千の弁護士は、自分の得失関心が絡んでこそ本領を発揮するのだ。

 伊刈はもう一人、太陽環境の弁護士として、逢坂小百合と示し合わせて乗っ取り王の調所を破産に追い込んだ鷺沼弁護士にも連絡した。左翼系弁護士の辻は役所の人事システムに詳しく、右翼系弁護士の鷺沼は産廃とヤクザに詳しい。自分のかつての敵に等しい二人の弁護士はかえって名コンビになるだろう。そこまでしても、この戦いに負けるわけにはいかないと覚悟していた。まさに開き直りとも言える奇策だった。

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