餅屋にステーキ
「いろいろ問い合わせてみましたが、この事件の背景には複雑な裏事情があるかもしれませんね」
公判準備のためにさっそく拘置所までやってきた辻弁護士が言った。左翼系ならではの労組経由の情報網があるのだ。フットワークが軽く、これなら使えると伊刈は思った。
「伊刈さんの著書がとても有名になったので、メディアは不法投棄問題といえば伊刈さんのコメントをとり、犬咬市に取材するのが恒例になっていたでしょう」
「そうですね」
「どうして国よりも市の職員が注目されるのか、国の幹部はおもしろくなかったに違いないですよ」
「国の息のかかったメディアに対して犬咬市に取材するなと密かな指令が下りたと聞いています。それまで毎号で不法投棄特集を組んでいた環境雑誌から、あるときを境に犬咬市をとりあげた記事が一切消えましたし、私の投稿記事も突然反故にされたことがありましたよ」
「やっぱりそうですか。犬咬市から撤去された産廃が新潟県で問題を起こしたとしても、それだけでは国の感心することではなかったですよ。ところがこの問題に伊刈さんがかかわっていると聞かされて、伊刈さんを潰す絶好のチャンスだと思った官僚がいるはずですよ」
「さすがにそれを証明することはできないでしょう」
「それでも裁判官の心象形成には使えますよ。判事も人の子、上の人事には常に不平を持っています」
「新潟県への撤去を仕切ったのは県庁なんですよ。私は県職員といっても身分は市職員で、対策会議に呼んですらもらえなかったんですからね」
「そんなことは新潟県も国も知らないし、外部から見たら犬咬市の不法投棄対策を仕切っていたのは伊刈さんだったと思っていますよ。まさか、ほとんどなんの権限もなかった伊刈さんが、たった数人のチームで犬咬の不法投棄問題を解決してしまったなんて、誰も思わないでしょう」
「県庁の内部はどんな感じですか」
「はっきり申し上げて、伊刈さんの評判は最低ですね。手柄を独り占めにしていたとか、本の印税で遊び歩いていたとか、仕事のことを本にしたら守秘義務違反じゃないかとか、悪い噂が多いですね」
「僕がこんなに目立ってしまったので、不法投棄を減らした手柄を県庁から奪ってしまったと思われるのは仕方がないですね。犬咬の担当にすぎないのに、県全体の不法投棄をなくしたと報じるメディアも多かったですから」
「だって、県庁は伊刈さんのやり方を真似たんでしょう。そういう後ろめたさがあるんじゃないですか」
「確かに県庁で講師はやりましたけど、それで恨まれるんですか」
「県庁だけじゃないでしょう。日本中の警察が伊刈さんの本を捜査に使ってるそうですよ。なんたって警察よりくわしいんだから、すごいことです。自治労では、戦う公務員として伊刈さんの評判はいいです。他県の自治労でも知らない人はいません。不法投棄が県からなくなったのは、伊刈さんのネームバリューですよ。その伊刈さんを逮捕するなんてどうかしてますよ」
「確かにこれで逮捕されたら、形無しですね」
「県庁が硫酸ピッチの撤去を仕切ったというのが本当なら、誰かが保身のためにウソをついているんですね。伊刈さんはその犠牲にされたんですね。それをつきとめますよ」
「誰かではなく、誰もがですよ。保身のために嘘をつくことが悪いことだとは思いません。自分を守れなければ、誰も守ることはできない。自分を犠牲にして誰かを守るなんてありえないことです。これが僕の得た教訓ですよ。でも、だれが嘘をついていたとしたって、僕は僕自身を守ります。そのために人の嘘をとがめる必要なんてありません。むしろ僕はその人の嘘も一緒に守りたいと思うんです」
「伊刈さんは大きいですね。だけど、私には私の弁護方針があります。餅屋にステーキは焼けませんよ。これはビフテキ級の事件です。ステーキ屋にお任せください」
弁護士の前では饒舌な伊刈は、検事の前で時間稼ぎの黙秘を続けていた。証言して得になることなど何もない。純粋な情状などなく、司法もまた保身と打算で動いているということを、伊刈は仕事を通じてよくわかっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます