強制捜査
金本が教えてくれた硫酸ピッチの保管場は林を拓いて建てた間口二十メートル奥行き五十メートルの大きな倉庫だった。オーナーは都内にいたが、地元の管理人に連絡がついたので鍵を借りた。管理人は中の様子は知らないと調査に立ち会おうとはしなかった。扉を開ける前から周囲に異臭が漏れていたので、亜硫酸ガスの吸収剤を付けたガスマスクを装着してから鋼鉄製の引き戸を開けた。とたんに倉庫内に充満していた亜硫酸ガスが道路へ流れ出した。
窓を閉め切った真っ暗な倉庫内は天井こそ低いがテニスコートを二面取れるくらいの広さがあった。右奥に中古のオープンドラムが雑然と並んでいた。マスクのおかげで異臭は感じなかったが、ゴーグルがなかったのでガスの刺激に目が痛くなってきた。かなりの濃度の亜硫酸ガスが充満していることは疑いなかった。
「写真を撮ったらすぐに撤収しよう」伊刈の指示で倉庫内の写真を十数枚撮っただけで早々に引き上げた。長居をしたら体に害があるのはもちろん、デジカメや携帯までダメになる可能性があった。
倉庫の外に退避してからデジカメの画像を確認した。ドラム缶は縦七十本、横三十本、概算で約二千本あると推定された。硫酸ピッチのドラム缶一本あたり二十キロリットルのタンクローリー一台の不正軽油を製造し、その全部について軽油引取税を脱税したとすれば、この倉庫にある分だけで十二億円の脱税事件になる計算だった。栃木県警が探していたマツダエンジニアリングの硫酸ピッチだとすれば、海老原の脱税額を査定する有力な証拠になると思われた。
伊刈はパトロール中に道路まで漏れてくる異臭に咳き込みながら硫酸ピッチのドラム缶が二千本保管された倉庫を発見したと石塚警部補に伝えた。
「そのドラム缶がマツダエンジニアリングのものだと判明すれば海老原を追起訴できます。すごいお手柄ですよ」石塚は色めきたった。
「交換条件というわけじゃないんだけど金本の逮捕を少し延期できませんか。今一生懸命処理してるし、このままのペースでやらせてやれば半年で終わるんですよ」
「僕はかまわないですが本社(県警本部)がなんと言うでしょうか。明らかな無許可処分業なんでしょう。市の指導で違法処理を続けさせるのはまずいですよ」
「金本はピッチを原料として買ってきたと言っていますから現時点で無許可処分業とは断定できません」
「そんなの伊刈さんだって信用しているわけじゃないでしょう。まあ確かに海老原は関東の不正軽油マーケットでは知らぬものがない大物ですけど、それに比べたら金本なんかは小物ですからね。扇面ヶ浦や北海道の事件もまだ未解決だし、そっちも海老原がらみだってことになれば金本の事件は後回しになるかもしれないですけど、いくら伊刈さんの頼みでも勘弁はできないと思いますよ」
「日本の警察に司法取引ができないってのはわかってますけど金本はなかなかまじめなやつですよ。自分の責任でなんとかしようとがんばってるんだからやらせてやってもいいと思うんですけど」
「扇面ヶ浦に投げたやつが捕まらないのに、逃げも隠れもしない金本を捕まえるってのはなんか気の毒な気もしますけど、これ以上金本をかばうのはやばいですよ。毎日伊刈さんがソウル交易へ指導に行くので所轄もやりにくいってかなり気にしてますよ」
「とにかく処分が終わるまでもうちょっと逮捕は待ってもらいたいんです」
「一応本社の弥勒補佐には伊刈さんの意見は伝えておきます。ピッチの倉庫を発見したのがほんとなら県警としても栃木や道警に顔が立つし、すごい功績ですからね」
伊刈が提供した情報に基づいて拘留中の海老原から犬咬市内の倉庫に硫酸ピッチを保管しているという自供をとり、令状捜査が出た。
警察官全員が頭部だけではなく上半身を覆う本格的なガスマスク一体型の防護服を装着しての現場捜索が行われた。化学テロでも起きたかと思うようなものものしさだった。伊刈たち産対課員もゴーグル付きのガスマスクを新調して捜査に参加することになった。マツダエンジニアリングからは海老原社長の代役で古森専務が立ち会っていた。一見したところ七十代の老人のように見えたが、実はまだ五十代だと聞いて驚いた。
「会社に誰もいなくなっちゃあ後始末ができないんで私だけ特別に保釈されたんですよ」無罪放免ではなくてもとりあえず自由の身になれたのが古森はうれしそうだった。
「そんなマスクで大丈夫ですか」古森が活性炭だけの簡単な防塵マスクしかつけていないのを見て伊刈が声をかけた。
「うちのマスク余分がありますけど使いますか」喜多が言った。
「これで大丈夫。もう慣れましたよ」古森は憎めない顔で答えた。
警察は二千本のドラム缶すべてに番号のついたラベルを貼って位置を特定し、産対課の化学技師の三輪が成分検査のためにそのうちの二十本から検体のサンプリングを行うことになった。蓋を開けた瞬間の亜硫酸ガス濃度を検知器で測定したところ一万PPMを超えていた。致死量とされる五百PPMの二十倍、一呼吸で即死する値だった。これほどの濃度になるとガスマスクの吸収剤も三十分と持たない。作業は神経質にならざるをえなかった。硫酸ピッチの性状はさまざまで液状のものも固化したものもあった。現場の環境調査には慣れているベテラン科学技師の三輪も警察官に囲まれている緊張のあまり汗びっしょりになりながら、なんとか二十本の検体採取を終えた。
海老原の証言で隣市の八鹿市の倉庫にもドラム缶千本が保管されているとわかり、犬咬市に引き続き同日中に八鹿市の捜索も行った。管轄外だったが、伊刈は警察に同行して八鹿市の状況も確認した。県道沿いのコンビニの隣の小さな倉庫だった。倉庫内は硫酸ピッチのドラム缶で満杯状態になっており、スペースに余裕がないので反応熱がこもって庫内温度が上がったせいか、流動化したピッチが庫外へ流出していた。状況としては八鹿市の倉庫の方がより切迫した状況だった。
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