中和師
ソウル交易の金本はドラム缶に囲まれた悪臭ただよう事業場で毎日悪戦苦闘していた。ドラム缶の中で固まってしまった硫酸ピッチをかき出すのが一苦労で、その後の中和処理も簡単ではなかった。さまざまな中和剤を試していたが、どれもうまくいかなかった。ソウル交易に近付くたびに道路にただよう臭気がきつくなっていくのがわかった。野ざらしのドラム缶にはぼちぼちと腐食の穴が開き、硫酸ピッチが流出し始めていた。ピッチに雨水が触れると毒性の強い亜硫酸ガスが発生し、直接吸い込んだら生命の危険もあった。周辺の民家からの苦情の高まりに応じて所轄は立件を急いでいた。だが警察は間違っていた。逮捕したら現場を管理する者がいなくなり、かえって手が付けられなくなるのだ。
パト車を乗りつけると、金本が地面にしゃがみこんで新しい中和剤を試している姿が鋼鉄の門扉越しに見えた。門扉に錠は下りてなかったので伊刈たちは勝手に開けて場内に立ち入った。
「どう、うまく行きそうかい」
金本があんまりまじめにがんばっているので、伊刈は遠慮しがちに声をかけた。手元を覗きこむと坩堝でピッチを溶かしていた。
「固まったピッチを溶かすには油を混ぜるのが一番だってことはわかってるんですよ。だけどねえ、なんとか中和剤だけで混ぜたいんですよ」
「油を使うといいの?」
「これは灯油だけどね、ガソリンならもっと早く溶けますよ。どんなに固まってるピッチだって見てる間に溶けますからね。それを新しいドラムに移せばいいだけなんだけどね。ガソリンを使ったんじゃ高くて商売になりませんからね」
「いろいろ中和剤の売り込みが来てるみたいじゃないか」
「ピッチの処理ってのは、まともに頼んだらドラム一本十万円でしょう。この業界じゃ今一番のベンチャービジネスですよ。二、三万でうまく処理できるってことになればぼろ儲けでしょう」
「それで有象無象の処理法が開発されてんだね」
「ここにピッチがあると誰に聞いたんだか知らないけどすごい売り込みっすね。俺らみたいな中和屋をカモろうってんだからすごいね。こっちも一儲けたくらんだ口なんだけどね。逆にこっちが中和師に儲けられちゃいますよ」
「中和師って言うんだ」
「まあなんとなくね。だけどなんつってもドラムから出てこないんじゃ中和のしようがないからねえ」
「今は何を試してんだ」
「ああこれは最近エコファンタジーって会社からもらったサンプルなんですけどよく溶けますよ。見ててください」
金本は乳鉢の中に固まったままの硫酸ピッチの塊を一つ摘み入れ、液状の中和剤をひと振りした。硫酸ピッチはたちまち溶けて黒いさらさらの液体になった。
「それにこいつはよく燃えますよ」
金本が新聞の切れ端に火を点けて乳鉢に投げ込むと黒い液体は勢いよく燃え出した。
「すごいじゃないか」
「からくりは簡単でね、この中和剤は半分がアルコール、半分が灯油なんですよ。燃えて当然だよね」
「なるほど」
「エコファンタジーから来てる話は、この中和剤でピッチを溶かして茨城の温室農家で燃やしてもらおうって計画なんですよ」
「ピッチの硫黄分はどうなるんですか。燃やすと二酸化硫黄が出ませんか」喜多が立ったまま尋ねた。
「たぶんそうだよね。燃やしたらえらいことになるね。だけどちょっと前まではタイヤボイラーってのがあったの知ってるかい」
「いいえ」
「すごいボイラーでさ、タイヤ丸ごと燃やせるんだ。値段も安くてここいらの温室農家がみんな買ったんだよ。だけどものすごい煙でさ、あんまりひどいんで農協が自主規制したんだよ。タイヤが黒いのは硫黄なんだよなあ。」
「法律には触れなかったんですか」喜多が言った。
「タイヤを買ってくれば焼却炉じゃなくボイラーになるんだよ。それで一本十円とかで買うんだ。農家のボイラーは小さいから規制がかからないってメーカーは言ってたけど、あっさり止めたってことは法律にも触れてたんだろうね。そうそうメーカーは大阪の会社だっけな」
「そのエコファンタジアの中和剤買うつもりなのか」伊刈が脱線していた話を戻した。
「ああそうねえ。問題は値段なんですよ」
「アルコールと灯油の値段がするってことか」
「なんかおかしいですよね。ピッチって軽油作るときに出るんですよね。それを溶かすのにまた油を使うんじゃ意味ないすよね」
「じゃやめとくのか」
「ところが俺としたことがうっかりしちゃいましてね。契約書に判子はついてないんだけど契約するって言っちゃったもんだからさ、準備を進めたんだから損害金を出せって脅かされてるんですよ。とにもうどうしようかな」
「うさんくさい中和師はもう中に入れない方がいいんじゃないか」
「やっぱなんだかんだいっても中和剤は石灰より安いのはないっすよねえ。石灰で地道にやってみますよ」
「どれくらいで終わるんだ」
「そうねえ一日二本として半年もらえるかなあ」
「半年か」
そんな時間はないと言ってやりたかったが捜査情報を漏らすわけにはいかなかった。
ソウル交易の状況は日に日に悪化し、とうとう硫酸ピッチが倉庫の外にまで流出を始めてしまった。逮捕のエックスデーも近付いていた。伊刈のチームは毎日ソウル交易の様子を見に行った。金本は宣言したとおり手間はかかるが一番安上がりな石灰による中和作業を軌道に乗せようと奮闘していた。
「やっといけそうですよ。最初に呼び水的に軽油をコップに一杯だけ入れるんすよ。そうすると面白いようにどんどん溶けていきます。溶けてくれさえすれば石灰と混ぜるのは簡単です。なんでこれに早く気付かなかったかなあ。予定通り釜山(プサン)に出せそうですよ」
ようやく処理に見通しが立ったのか金本は久々に機嫌がよかった。
「まあ見ててくださいよ」
金本は用心のために大型の扇風機で亜硫酸ガスを飛ばしながら伊刈たちの目の前でドラム缶を開けた。中では硫酸ピッチががちがちに固まっていた。
「こうなっちゃうともうどうしようもないんですよ。だけどね」
金本は固まったピッチの真ん中にノミを突き立て牛乳瓶一本ほどの穴を空けた。そこに軽油を注ぎいれてすりこぎでかき混ぜ始めた。すると固まっていたッチが溶け始めた。
「最初は生石灰を入れるんです」
「軽油の中に生石灰じゃ火に油と同じじゃないか」
「少しずつ入れますから大丈夫」
金本は生石灰の塊を一掴み入れた。生石灰は反応性が高いのですぐに発熱が始まった。その熱でピッチを溶かそうというのである。ピッチが冷えたら生石灰を入れて温度をコントロールしながら、ドラム缶全体が程度温まったところで反応性の低い消石灰に切り替えた。ピッチに流動性が出たらセメントをこねるミキサーに移し変え、さらに消石灰を追加して完全に中和するまで混錬した。
「こんな感じです。これなら行けるでしょう。最期に別のドラム缶に移して終わりです」
「ずいぶんと手間はかかりそうだな」
「そうでもないですよ。うまくやれば俺一人でも一日五本はいけます。石灰は安いすから元も取れます」
「豊川はどうしてる」金本の機嫌に乗じて伊刈が尋ねた。
「ああそうか豊川も調べられてるんだ。あいつは外国人の女房がいてさ、赤ん坊が生まれたばっかりで借金がいっぱいあってさ、油(不正軽油)を作らないとどうしようもないんだよな」
「じゃまだ作ってるのか」
「まあそうだね。止めないと捕まるとは言ってるんだけどねえ」さすがに金本も捜査が進んでいることは知っている様子だった。
「ほんとに止めないとやばいよ」
「本人もわかってますよ。だけどほかに食うあてもないんだろうな」
「どうせ儲けはみんな九重に持って行かれちゃうんだろう」
「それは俺の口からはねえ」
「こないだ別の会社に立ち入った時に油を持ってくる会社は六十万円脱税してるのに現場の手間は二万円だって聞いたよ」
「俺は作ったことはないけど、まそんなもんでしょうねえ」
「ピッチの処理はほんとはいくらで受けたんだ。買ったってのは嘘だろう」
「俺は買いましたよ。だから騙されたと思ってんです」
「普通はいくらだ。たとえばマツダの海老原とか」
「ああそうねえ、海老原はニイゴ(二万五千円)で受けて一本(一万円)くらいで出してたんじゃないかな」
「何千本もやったらすごい儲けだな」
「まあね。だけど海老原にだって上がいるから手取りはどうだかね」
「北海道のはどうだ」
「俺もそっちまではよくわかんないすね。聞いたところじゃ苫小牧だか十勝だかの運び屋に一本七百円で渡されたそうすよ。いくらなんでもかわいそうすよね。こっちじゃどんなに足下見られたって一万円なのにねえ」
「七百円でも五十五本積めば四万円になるじゃないか。トラックの運賃ならそんなもんだろう」
「なるほどそのとおりだね」
「不正軽油は業界ぐるみなんだろう」
「そうすねえ」
「結局買い戻すのは石油卸の会社だろう」
「まあ油ってのは税金が複雑だからいろいろ混ぜるとわかんないからね」
「それはそうと扇面ヶ浦の情報はどうした」
「ああそのことすね。自分のことで精一杯で伊刈さんと約束したの忘れてました。投げたやつは知らないけど出したのは海老原に間違いないと思いますね」
「海老原が関与してるのはわかってるんだ。問題はどこから運んだかってことだ。栃木からこっちまで運んだとは考えられないだろう」
「ピッチを保管してる倉庫がありますよ。そこから出たんじゃないすか」
「ほんとか。倉庫がどこか知ってるのか」
「俺がネタモトだってのは内緒っすよ」
「パトロールで偶然に発見したってことにしておくよ」
「そう願いますよ」
いつも平静な伊刈も金本のネタに思わず身を乗り出した。
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