スプレー缶

 仙道が緊張した顔で伊刈を呼びつけた。「おい、秋川実業でドラム缶が爆発して作業員が一人吹き飛ばされて亡くなったそうだ。廃棄物の移し替え作業中に引火したらしいぞ」

 「ドラム缶が爆発ですか」

 「何が原因かはわからんが、ありえないことはないな。化学系産廃の中和施設だからな」

 「とにかく現場を確認してきます」伊刈は夏川と喜多を伴って市庁を飛び出した。

 秋川実業は県境の黒田川を見下ろす小高い丘にあった。曲がりくねった坂道を登るにつれてどんどん道幅が細くなった。

 「こんなとこに処分場があるんでしょうか」ハンドルを握る喜多が不安そうに言った。

 「引き返すにも切り返すスペースがないから行くだけ行ってみようよ」ナビ役の夏川が言った。

 そのまま不案内な坂を登り続けると、丘の中腹の空き地にドラム缶を何百本も積み上げた処分場が現れた。

 秋川実業の角雪社長は緊張した面持ちで監視チームを出迎えた。中肉中背、目立った特長のない男だった。二世社長にありがちな上品だが影の薄い印象である。

 「警察の実況見分は済んだんですか」伊刈が尋ねた。

 「ええ、でも明日もまた来るそうです。警察だけじゃなく、労基(労働基準監督署)、消防署、保健所も検査するそうです。全部済むまで一か月くらいは休業になるだろうと言われました」

 警察に絞られたはずなのに、角雪はそれほど疲れた様子もなく他人事のように淡々と説明した。

 「所轄は業務上過失致死罪で捜査すると言っていましたか」

 「ええ、社長の私の監督責任が問われる可能性もあるということでした。自分が逮捕されたら産廃の許可はどうなるでしょうか」

 「労災事故を起こしたからといってただちに許可取消しにはならないですが、受託品目違反や処理規準違反があれば別ですよ。とりあえず状況の確認をします」

 「なるほどそうですか」角雪社長はそんなにがっかりした様子もなく答えた。

 「場内を案内してもらえますか」

 「工場長の三須が警察署に行っているので案内できるものがいません」

 「社長さんはわからないんですか」

 「申しわけない。滅多に現場には顔を出さないものですから」

 「施設の構造くらいはわかりますか」夏川が呆れながら言った。

 「それくらいなら図面がございます」

 「図面はどこですか」

 「工場の壁に掲示してございます」

 「なるほど」夏川は施設の配置図に向かった。

 「こちらでやっている処理は大きく分けると中和、脱水、焼却の三つですね」夏川が図面と現場を見比べながら尋ねた。

 「そうです」

 「建屋の中にたくさんタンクが並んでいますが中和はどこでやるんですか」

 「奥にある一番大きなタンクが中和槽です。その他のタンクは前処理に使います。性状の異なる廃液から重金属を沈殿させながら徐々に一つにまとめていって最後に中和槽に入れます。沈殿物は脱水し廃液は焼却炉内に噴霧し、飛灰に含まれる重金属もバグフィルターで回収します。当社の最大の特徴は脱水ケーキや焼却灰に含まれる重金属まですべて社内で再生できるところにあります」

 「現場はわからないとおっしゃっていましたが詳しいじゃないですか」伊刈が言った。

 「これくらいは営業トークのうちですから。だけど実際にやれと言われてもどうやってやるのかはわかりません」

 「脱水はどこでやるんですか」夏川が尋ねた。

 「二階にフィルタープレスが二台あります。下からも覗けると思います」

 「重金属の精錬はどこでやっていますか」

 「別棟でやっておりますが、ここは企業秘密でして視察を許可しておりません」

 「視察ではなく検査ですよ」

 「はあ、でも事故には関係がないということで警察の方にもお見せしなかったので」

 「どんな金属を回収しているんですか」

 「基本的に金や銀などの貴金属ですが、最近は水銀やタンタルなどのレアメタルの回収にもチャレンジしております」

 「爆発事故の現場にご案内願えますか」伊刈が言った。

 「こちらへどうぞ」角雪社長は工場には入らず裏手の空地へと歩いて行った。

 場外作業場となっている工場の裏庭に出ると、警察のマークのついた黄色いテープで囲まれて事故現場全体が証拠保全されていた。転がったドラム缶のいくつかには実況見分のためのマーキングが残っていた。伊刈はテープをまたいで事故現場に入った。夏川と喜多も続いた。

 「あれが爆発したドラム缶ですね。どんな作業をしていたんですか」伊刈が尋ねた。

 「スプレー缶の残液をドラム缶にあけていたようです。工場長はちゃんと缶のガス抜きをしたのにまさか残液が爆発するとはと言っておりました。それでも工場の中で爆発が起こらなかったのが不幸中の幸いでして。工場内で爆発してタンクや配管が損傷して中和前の廃液が反応したら大惨事でした」

 「ここは作業場として許可になっていませんね。単なる保管ヤードですよね」

 「なんとも申し上げにくいですが事実上ここが作業場になっていたようでして。警察からもその点は詳しく事情を聞きたいと言われました」

 「スプレー缶は家庭系ですか工場系ですか?」

 「工場から廃棄されたものですから産廃です。うちは一廃は受けていません」

 「どの缶が爆発したんですか」

 「その辺に散らばってるの全部です。警察が片付けるなと言うものですからそのままになっているでしょう」

 伊刈は警察の指示を気にせずスプレー缶を一本拾い上げた。エレグランスという商品名が書かれていた。

 「フラウケミの消臭スプレーですね。脇の下に塗布するパウダーだ」

 「ああ、そうですか」角雪は再び他人事のように答えた。

 「フラウケミといったら外資系の大手ですよ。いつから契約を」

 「さあどうなんでしょう。途中に入っている業者があると思いますよ」

 「どこですか」

 「さあ今はちょっと」

 「これどう思う」伊刈は喜多と夏川にスプレー缶を示した。

 二人も驚いた顔でスプレー缶を見つめた。それは扇面ヶ浦の黒い滝事件の現場で発見したスプレー缶と同じものだった。

 「社長、こちらで硫酸ピッチを受けたことはありますか」伊刈は唐突に話題を振った。

 「ああ硫酸ピッチですか」角雪はうんざりした顔で答えた。

 「あるんですね」

 「実験的に受けたことがありますよ。どうしてもって言われてね。まあ許可品目上は廃酸の中和になるから問題なかったんですが、うちの設備ではムリでした」

 「どういうことですか」

 「固まっていましてね、ドラム缶から出てこないんです。それじゃあ処理のしようがないってことでお断りしましたよ」

 「実験はいつごろですか」

 「一年くらい前ですね。一本五万円でできないかと言われたんで、それならいい仕事だと思いましたが、工場でムリだと言われたんでお返ししました」

 「それじゃ最近は受けてないですね」

 「私の承知するかぎりでは」

 「工場長が勝手に受けたということはないですか」

 「それはわかりませんがないと思います」

 「こちらには今どれくらいドラム缶を保管されていますか」

 「数千本はあると思います」

 「そんなに。その中にピッチのドラムが残っていればわかりますか」

 「工場長が全部返品したはずですが」

 「もしもの話です。返してないのがあったとすれば特定できますか」

 「私にはわかりませんがたぶん工場長ならわかるんじゃないですかね」

 「ドラム缶はいずれすべて警察が検証すると思いますから動かさないでください」

 「ピッチなら絶対に爆発なんかしませんよ。固まっている油ですから」

 「とにかく今からドラム缶を片付けたりすると証拠隠滅罪になりかねませんから気をつけてください」

 「わかりました。今日からどうせ休業ですからドラムにも触らないように言っておきます」

 「フラウケミとの取引関係をもうちょっと詳しく教えてもらえますか」

 「当社はフラウケミの特約処分場ってことになっているんです」

 「さっきは仲介している会社があると」

 「ええございますよ。ですが契約上は直接ですから。東京工場の化学系はほぼすべて当社で処理しております。あの、やはりフラウケミにも調査に入るんでしょうか」

 「爆発したのがフラウケミの廃棄物なら入らざるをえないでしょうね」

 「そうですか」角雪は顔色を曇らせた。

 「なにか不都合でも」

 「あそこの契約を打ち切られたら許可を取消されるまでもなくうちは倒産ですよ。売上の四割はあそこですから」

 「スプレー缶の処理契約内容を確認できますか」

 「警察が書類も帳簿も持っていってしまいましたのでねえ」

 「社長なんですからおおよそのことはわかるでしょう」

 「お恥ずかしいことですが、さっきも申し上げましたとおりあまり現場には顔を出しませんので」

 「会計帳簿はありますか」

 「それは税理士に預けたままですが、それも押収されるだろうからそのままにしておくようにと言われました」

 「帳簿を改ざんしたりすると罪になりますからね」

 「そんなつもりはございません」

 「ここの従業員は何人ですか」

 「八十人くらいですね」

 「そうすると売上高は十億円から十五億円の間くらいですよね。十五億の方に近いですか」

 「どうしてわかるんですか。昨年は十四億でした」角雪はびっくりした顔をした。

 「同じ業種なら特別のことをやらないかぎり同じくらいの生産性でしょう。借入金の額とか利益率とかは企業ごとにまちまちでも、わりと売上高っていうのは規模で横並びだから」

 「恐れ入りました」

 「この缶を証拠に一本もらっていきますよ」

 「警察が現場を動かさないようにと」

 「一本くらい大丈夫ですよ。警察にはあとで言っておきます」

 「それならどうぞ」

 能天気な二世社長に伊刈は呆れるばかりだった。

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