フラウケミ

 「どんな様子だった?」伊刈の帰還を待ちかねたように仙道が尋ねた。

 「フラウケミのスプレー缶の残液をドラム缶に移し変えているときに爆発したようです。工場長が所轄に呼ばれて不在だったので詳細はわかりませんでした」

 「県警からもフラウケミから出たものらしいと聞いたよ」

 「帳簿も全部押収されてしまったようですし、検査のやりようがありませでした。社長はほとんど工場に顔出さないみたいですね」

 「秋川実業は昔は優良企業だったんだが落ちたもんだな。親父は優秀な化学屋だったんだけどよ、倅の代になってからひどいもんらしいな。社長が処分場に顔出さないんじゃ会社はだめになるよなあ」

 「どうして残液が爆発するんでしょうか。ガス抜きはしたそうですよ」

 「プロパンガスか何かが若干でも残液に溶け込んでいたんだろう。それがドラム缶に貯まって引火したんだよ」

 「なるほど。それって警察も知ってるでしょうか」

 「警察はいずれ爆発実験やるだろう」

 「そこまでやるんですね」

 「そりゃあそうだ。過失致死罪だからな」

 「それより技監、思いがけない収穫がありましたよ」

 「なんだ」

 「爆発したフラウケミのスプレー缶は扇面ヶ浦のピッチの現場で収集したのと同じエレグランスという消臭スプレーでした」

 「ほんとか。それじゃもしかしてビンゴか。秋川実業がピッチを投げたってことか」

 「それはどうでしょうか。社長は一年前に硫酸ピッチを処理してくれって相談は受けたことがあるけど断ったと言ってました」

 「お前らしくもねえ。ドラム全部調べたのか」

 「数千本あるんです。全部調べるのは三人じゃムリです。それにガスマスクがないとドラムは開けられません。警察は明日も行くそうですから、ガスマスクをつけずにドラムを不用意に調べないように言っておいた方がいいですね。ガスを直接吸い込んだら死ぬかもしれないそうですよ。あとエレグランスを廃棄した経過についてフラウケミの東京工場も調べないといけませんね」

 「それは警察もわかってるだろうがな、ちょっと様子が違うみてえなんだよ」仙道は口ごもった。

 「どういうことですか」

 「ちょっとびびってんだよ」

 「なにがですか」

 「フラウケミといったら外資系でも大手の部類だろう。しかも化粧品や家庭用品ていうのはクリーンなイメージが何より大事な業界じゃないか」

 「そうでしょうね」

 「だから社会的反響を考えるとうかつにフラウケミには強制捜査に入れないんだとよ。それでうちに調べてもらいたいというんだ」

 「は?」伊刈は耳を疑った。「警察の代わりにフラウケミを調べろっていうんですか」

 「そうだ」

 「捜査の片棒を担げっていうんですね」

 「そうまでは言わないがな」

 「だけど秋川実業は今のところ別に不法投棄をやったわけじゃないですよ。フラウケミまで調べに行く理由がありません」

 「もう生経(県警本部生活安全部生活経済課)の弥勒補佐に約束しちゃったんだよ」

 「フラウケミっていったいどれくらいの会社ですか」

 「世界売上高二十兆円だとよ」

 「十億円程度の産廃業者の立ち入りとはわけが違いますね」

 「だけど俺がこういうのもなんだが、こういう仕事じゃお前にかなうやつはいない。弥勒補佐がお前を名指しで頼みたいって言うんだ。スプレー缶の廃棄ルートを確認してくれればいいんだ。わからないならわからないでいい。行ってくれれば俺の顔が立つんだ」

 「ですが警察の捜査情報と交換ですよ。不平等条約じゃ困ります」

 「わかったよ。それからフラウケミには市の職員だけで行ってくれってことだからな。警察官はだれも行かないぞ」

 「わかりました。そのかわり喜多と夏川だけじゃムリです。あと四人くらい動員してもらえます」

 「そんなに人数がいるのか?」

 「大企業だし行ってみないと書類のボリュームがわかりませんし、化学工場ですから化学技師さんがいたほうが好都合です」

 「わかった。お前の好きなだけ連れていけ」

 化学工場の本格的な検査は初体験だったが、検査のやり方は同じだという自信が伊刈にはあった。

 伊刈がリーダーとなって七人の検査チームが編成され、フラウケミ東京工場に向かった。中央線沿線にある敷地数万坪の大工場の正門に到着すると、環境対策室の担当の砂子が出迎えに出てきていた。ドイツの本社とイメージを統一したという事務棟は、いかにも外資系企業らしく幾何学的でスマートなデザインだった。

 「工場の検査から始めたいんですが」

 「見学者コースでもよろしいですか」砂子の言葉に伊刈はカチンときた。確かに大きな工場だから本格的に検査したら一週間でも終わらないだろう。それでも死亡事故に関連した検査に来ているのに見学者と同列扱いにされたことが癪に障ったのだ。

 「私は検査の準備がありますから見学は結構です。ほかのみんなで見てきてください」伊刈は他のメンバーを見送って一人で検査会場に充てられた小さな会議室に陣取った。砂子も伊刈が臍を曲げたのを察した様子だった。

 三十分ほどで六人は工場の視察を終えて帰ってきた。顔つきから大して面白くなかった様子が伺えた。砂子も上司の法貝マネージャーに従って会議室に戻った。

 「もうご存知と思いますが、廃棄物の処分場で爆発事故があり、警察はこちらの工場から排出されたエレグランスという商品名の入ったスプレー缶の処理作業中の事故だとみて捜査しています。事故に遭われた作業員は死亡されました」伊刈がそう切り出すと、知っていることとはいえ法貝と砂子の顔に緊張が走った。

 「事故の原因はわかったのですか」砂子が聞いた。

 「捜査中です。今のところ缶の残液の移し替え作業中の事故だったようです」

 「作業のミスということですか」

 「それはわかりません」

 「失礼ながら今日の検査の目的はなんでしょうか」法貝がじれったそうに言った。

 「こちらの工場から秋川実業への廃棄物の処理委託の状況を検査します」

 「何か当社に問題があるということですか」法貝が警戒心を露わにして毒づくように言った。

 「それは調べてみなければわかりません」伊刈は事務的な口調ではぐらかした。

 「どうすればよろしいのですか」

 「秋川実業との処理委託契約書と過去一年分のマニフェストを拝見できますか」

 「それでしたらこちらに用意してあります」砂子が手際よく準備しておいた書類を示した。

 「助かります」伊刈は書類をざっと点検した。大企業だけあって契約書もマニフェスト(産業廃棄物管理票)もコンピュータでデータベース化され、原本はきちんとファイリングされていた。

 七人で一斉に書類の点検を始めたが、契約書にもマニフェストにも商品名までは書かれていない。金属くず、廃プラスチック類、汚泥などと書かれているだけだ。そこから廃棄された商品名を特定するには、さまざまな書類との照合が必要だった。調査は難航を極めた。

 伊刈は廃棄物処理委託関係の書類だけではなく、秋川実業への委託料の支払証拠書類、工場の作業スケジュールなど、さまざまな書類の提出を求めた。砂子は要求された書類はなんでも持ってきた。ただし、ほかにもこんな書類があると自分からは言わなかった。検査は伊刈と砂子の知恵比べになった。

 五時間検査を続けたが、伊刈は爆発したスプレー缶の廃棄を裏付ける書類を特定することができなかった。

 「こんなにきちんとデータベース化されてるのにどうして肝心のスプレー缶だけが出てこないんでしょう。まさかこれだけけデータベースから消したんでしょうか」喜多が言った。

 「そんなばかなことをしたら証拠隠滅になるじゃないか」伊刈はわざと聞こえよがしに証拠隠滅と言った。

 予想外の長時間検査に法貝と砂子は小声で相談を始めた。何か隠している書類があるなと伊刈は睨んだ。

 「現場に物(ブツ)がある以上、廃棄に関係した書類がないはずはないんだ。書類が出るまで徹夜でも調べるぞ」伊刈は聞こえよがしに激を飛ばした。

 「ここにはないんじゃありませんか」喜多が答えた。

 「ここにないならあるところに行けばいいよ。書類がないということを確認できるなら、それも意味がある。だけどないということを証明するにはあるものを全部見るしかない」

 「それはそうですが」伊刈の意味深長な言葉に喜多はあっさり同意した。

 「とにかく全部見てから考えよう」伊刈の意気込みを砂子は渋い顔で見つめていた。

 「お食事でもいかがですか」何もしないで検査につき合っているだけでもさすがに疲れきったのか砂子が小声で言い出した。

 「まだ検査中ですからご心配には及びません」伊刈がきっぱり言った。

 「そうおっしゃらずに。社食でよろしければご案内します。当社の社食は夜も営業しておりますから。VIP用の部屋もこざいますしなかなかおいしいんですよ」

 時計を見ると午後七時だった。

 「いえ食事は検査が終わってからにしますよ。お気遣いありがとうございます」

 「そうですか」砂子は決まりが悪そうに下を向いた。

 「砂子、それよりあれを説明したらどうだ」上司の法貝が唐突に言い出した。

 「はい、あの」砂子が法貝の顔色をうかがいながら口ごもった。

 「いずれわかることなんだから言いなさい」

 「あの、実はですね」砂子が重い口を開いた。

 「なんですか」伊刈が向き直った。

 「事故を起こしたスプレー缶はですね、この工場ではなく群馬のOEM(委託生産)工場で生産されたものなんです。だから、こちらには廃棄に関係した書類がないというか」

 「え、どうしてそれを最初に言ってくれなかったんですか。それじゃいくらここで書類を捜したって、見つからないじゃないですか」さすがの伊刈も声を荒げた。

 「すいません」砂子が頭を下げた。

 「経過を説明していただけますか」

 「パッケージのデザイン変更がありまして、百万本そっくりOEM先から在庫廃棄されたんです。私ども環境部門を通さずに、商品の配送を担当するロジスティック部門が処分を指示しております」手短ではあるものの核心的な証言だった。

 「それでここには書類がないのですね」

 「すいません、そんな大事だとは思わなかったものですから」

 「OEM工場とはどこですか」

 「伊勢崎ケミカルです」

 「ロジスティック部門は委託契約書とマニフェストを入手しているんでしょう。それを拝見することはできますか。」

 「たいへん申しわけないことなんですが、ロジに確認しましたところ、マニフェストは作成されておらないということでして」砂子は苦い顔で説明した。

 「それじゃあ、ない書類を何時間も探していたわけですね」

 「ほんとに申し訳ないことで」

 「処分先はやはり秋川実業でよろしいんですか」

 「はい、それは間違いございません。当社と継続的な取引のある優良企業だと承知しておりますので、伊勢崎ケミカルに秋川さんに出すようにと紹介したそうです。まさかマニフェストなしで出してしまうとは想定外の事態でして。多分、後で作る約束だったとは思うのですが」

 「ちょっと驚きましたね。マニフェストがなくても受ける会社が優良ですか。処分内容に問題がなくても書類がないだけで法令違反ですね」

 「それはそうでございますが」

 「マニフェストはなくても何か処理委託を証明する書類はあるんじゃないですか」

 「社内の伝票はあるそうです」

 「それを拝見できますか」

 「さっそく、取り寄せます」砂子が社内電話をするために立ち上がった。

 「あのう、当社にも法的な処分があるんでしょうか」法貝が心配そうな顔で発言した。

 「処分はどうでしょうかねえ。マニフェスト不交付くらいですと。でもほかにも違反があるかもしれないし調べてみないと」

 「社名が公表されたりするんでしょうか」

 「これは私のミスですから」席に戻った砂子の顔は青ざめていた。

 「君じゃないよ、私の監督責任だ」

 検査チームの面前で、上司と部下が美しい庇いあいを演じた。二人とも指先が震えていた。

 「ロジスティック部門の作成した社内伝票はいつ拝見できますか」

 「今手配したばかりですので」砂子は会議室を飛び出していった。

 「後からマニフェストを作るつもりだったというのはありそうなことですが、事件になっている以上、いまさら作ったりすると証拠隠滅になりますから気をつけてください」伊刈は残った法貝に言った。

 「わかりました」

 「今後の対応は警察と相談して決めますが、業務上過失致死事件の捜査ですから、フラウケミの廃棄物処理法違反まで類が及ぶことはまずないと思いますよ。県警でも担当する課が違いますからね」

 「そうですか」

 「たぶん県警から改めて書類提供要求があると思います。事故を起こしたスプレー缶の委託ルートを特定することが必要なのでね。それには協力してください」

 「わかりました」

 「ロジスティック部門がお持ちの書類をいただいたら今日の検査は終了にします」

 「かしこまりました」

 砂子は再び席を立ち、十分もしないで伝票綴りの原本とコンピュータで出力した帳票を手に会議室に戻ってきた。検査前からロジスティクス部門が準備していたと思われた。

 伊刈は伝票類の写しを入手して検査を切り上げた。結果的には七時間の長時間検査となった。最初の横柄な態度はどこへやら、法貝と砂子は平身低頭で伊刈たちを送り出した。

 「検査終わりました。委託ルートは大体わかりました」伊刈は第一報を待っている仙道に検査の概要を伝えた。

 「そうかわかったか。ずいぶん手間取ったじゃねえか。で、どうなんだよ、フラウケミってのは外資だけのことはあるのか」

 「どうなんでしょうねえ。建物は立派ですが、会社の管理は日本のトップ企業ほどじゃないと思いますよ」

 「ほう言うねえ。で、やっぱり秋川実業に出してたのか」

 「マニフェストなしの受委託ですね」

 「ほんとか。そりゃ一大事じゃねえか」

 「見つけないほうがよかったですかねえ」

 「そんなことはねえだろうが外資ってのはすぐに弁護士が出ばってくるからなあ。警察もやりにくいだろうよ。それにしてもよりによってマニフェストなしで出したとはねえ」

 翌朝、伊刈が書類を課に持ち帰ると、仙道は書類をつかんで所轄に飛んでいった。

 「伊刈、秋川実業には今日中に逮捕状が出るそうだ。業務上過失致死罪だってよ。死亡者が出ている以上は誰か逮捕しないと警察的に収まらないからな」所轄から戻った仙道が伊刈に言った。

 「硫酸ピッチを受けてたことは」

 「それも認めたそうだが、扇面ヶ浦との関係は否認したらしい」

 「社長逮捕ですか」

 「いや工場長だけだ」

 「社長は?」

 「社長の立件は見送られそうだとよ。遊び人で、ほどんど工場のことは工場長任せにしてたのがかえって幸いしたんだな」

 「仕事やってた工場長が逮捕されて、遊んでた社長は無罪ってのもなんだかやりきれないですね」

 「まあしょうがないな」

 「ピッチのドラムはどこから見つかったんですか。社長は残っていないと言ってましたが」

 「たしかに倉庫からはまだ見つかってない。警察が押収した帳簿の中に取引があったんだ。受注だけして処理はせずに再委託したようだな」

 「それなら社長の証言どおりですよ。どこに出したんですか」

 「ソウル交易だ」

 「その会社なら、この間も聞きましたよ」

 「どこで」

 「関東興油もそこに出してたと」

 「ほうなるほど」

 「許可がある会社じゃないですよね」

 「韓国との貿易を手がける個人商社だそうだ。巾着池のほとりの廃倉庫を事務所にしている。一度小火を出して消防が出動してるそうだよ。無許可でピッチを処理してることは間違いないようだな」

 「小火ですか?」

 「中和熱でピッチが引火したんだろう。ただピッチは燃料じゃないんで保管してても消防法違反にはならなかったそうだ」

 「ピッチはいろんな意味で抜け道のデパートなんですね」

 「これから行ってみてくれないか」

 「ええ言われなくても行きますよ」

 「こういう厄介な仕事はお前以外にないからな」

 巾着池は産廃街道と地元民から揶揄されている広域農道の下に江戸時代以前まであった湖の名残の溜池だった。周囲五百メートルほどある大きな池で、かつては農民の水争いの種になるほど重要な農業水源だったが、農業用水が整備され周辺の宅地化が進んでからは水質が悪くなり、干上がる寸前の泥沼として放置されていた時期もあった。その後、下水道の普及で水質が改善し、釣り客が放したヘラブナが繁殖して釣りの名所になったこともあったが、ルアー釣りの客が放したブラックバスのためにヘラブナは全滅してしまった。農林水産省の補助事業で公園として整備が始まったものの、途中で事業が廃止されたために親水公園は半分できたところで放置されていた。

 ソウル交易が工場を借りているのは池のほとりに建つ小さな廃倉庫だった。周囲がぐるりとトタン塀で囲われており、鉄製の門扉が南京錠でしっかり閉じられていた。車を降りると塀の外まで刺激性のある油の匂いが漂ってきた。門扉の前から調べておいた電話にかけると社長の金本が自ら門扉を開けた。中肉中背の営業マン風の男だった。

 「扇面ヶ浦に投げ捨てられたドラム缶のことで来ました」

 「ああ、あの事件ね。ひどいことするもんだね」

 「ここも警察に疑われているんですよ」

 「ほんとですか。俺はやりませんよ。売れるのに捨てるなんてありえないでしょう」

 「秋川実業から頼まれたピッチをここで中和処理してたと聞きましたが」

 「ああ秋川ね。受けたことはありましたけど、二三本ですよ」

 「そんなものですか。ドラム缶が山積みじゃないですか」伊刈は場内の空地のいたるところに二段積み上げられたドラム缶を眺めながら言った。

 「倉庫に入りきらなくなっちゃってね。だけど秋川さんのじゃないですよ」

 「じゃどこのですか」

 「いろいろかな」

 「関東興油のもありますか」

 「ああそこのも受けたことはあったけどね」

 「ここではどんな処理をやってるんですか」

 「ピッチを中和して釜山に輸出するんですよ。向こうではアスファルト増量剤に使ってるんですよ。金になるって聞いたんで見よう見まねで始めた仕事なんですけどね。正直なかなかはかどらなくて困ってますよ」

 「無許可の中和処理になりますよ」

 「産廃じゃないですよ。原料として買ってくるんだから問題ないでしょう」

 「よそでは処理費を五万も十万も請求しているのに買ってくるってのは変じゃないですか」

 「十万円てのはぼったくりでしょう。それとも何十億円もする贅沢な炉で燃やすからですよ。ピッチを燃やしたら炉が痛むから損料を見てるんでしょうよ。だけどうちみたいに手作業ならそんな値段にはなりませんよ」

 「釜山に売れなかったらどするんですか」

 「ちゃんと売れますよ」

 「倉庫の中も見せてもらえますか」

 「いいですよ」金本は奥の倉庫に向かって歩き出した。

 小さな倉庫の中はドラム缶が天井まで満杯だった。

 「何本あるんですか?」

 「数えたことないけど中に五百本外に百本くらいかな」

 「どこで中和してるんですか。施設らしい施設がないじゃないですか」

 「今いろいろ実験中なんで作業はしてないです」

 「火災を起こしたって聞きましたけど」

 「火災なんておおごとじゃないですよ。ピッチに生石灰を混ぜてたんだけどうまくいかなくてね、気がついたときはもう燃えてたんですよ。ドラム缶が一本燃えただけなのに真っ黒い煙がもうもうと上がっちゃったから消防車が出動しちゃってね。お目玉はくらいましたが特に処罰されたわけじゃないしね。それに懲りてね、今どうやったら温度を上げないでうまく中和できるか考えてるんですよ」

 「輸出してることを書類で証明できますか」喜多が言った。

 「契約書見ますか」金本はプレハブの事務所から中国語の書類の写しを持ってきた。「これですよ」

 「釜山に出す契約なら韓国語じゃないんですか」

 「ああこれは大連に出す契約書なんです。釜山のじゃないです」

 「これ原本じゃないみたいですね。預かってもいいですか」伊刈が言った。

 「ああ、いいですよ」

 「扇面ヶ浦に投げられたドラム缶は誰がやったか見当もつかないですか」

 「やったのは一発屋ですよね。誰かってのはわからないでしょうねえ。だけどドラムの出所はなんとなくわかります」

 「ほんとですか」

 「ええまあ」

 「どこですか」

 「ちゃんと調べてからにしてもらえますか。嘘を教えたら大変ですからね」金本は憎めない顔で笑った。

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