クマ抜き工場
「これから関東興油に立ち入ってみましょう」的場が言った。
「どんな会社ですか」伊刈が尋ねた。
「キャンプとは反対に常設施設です。A重油と灯油を混合して軽油として販売する行為それ自体を規制する法律がないんです。それにつけこんで堂々と自家製燃料の製造・販売を行っている会社です」
「逃げる会社、逃げない会社、不正軽油の手口もいろいろなんだな。おもしろそうじゃないか」伊刈はだんだん乗ってきた様子だった。
関東興油は二十キロリットルタンクを四基備え、一日に四十キロリットル(タンクローリー車二台)の燃料を調整できる本格的な製油施設で、県税事務所は設備額を三億円と見積もっていた。玄関を入るとすぐに左側にはプレハブ二階建の事務所、右側には大型の石油タンク四基が整然と並び、ガソリンスタンドにあるような本格的な給油スタンドが二基設置されていた。ちょうどタンクローリー車が一台原料油の荷降しを始めたところだった。
染み一つない綺麗な作業服姿で出迎えに出た奥菜工場長はどこから見ても普通の工場の監督者で、不正な仕事に加担しているようには見えなかった。合同検査チームは挨拶もそこそこにさっそく場内を点検した。工場の建屋はもともと建築用鉄骨の加工場だったようで、天井がやたらと高く製油工場に改装するにはうってつけだった。
「こういう施設が始めての担当者もいるので処理の流れに沿ってラインの構成を説明してもらえませんか」的場が要請した。
「いいですよ」奥菜は悪びれた様子もなく快諾した。
「それじゃお願いします」
「原料の油を積んできたタンクローリーが到着するとスタンドから原料油タンクに移します」奥菜が歩きながら説明を始めた。
「原料タンクはA重油用と灯油用の二つを分けてるんですか」喜多が尋ねた。
「そうです。この二種類の油を一対一で混合したものを当社では混和油と呼びます。これだけでもディーゼルエンジンが焦げ付かずによく回ります」
「ほんとですか」伊刈が念を押すように尋ねた。
「もともとA重油も灯油も軽油もほとんど同じ成分なんです。A重油は硫黄などの不純成分がいくらか多いくらいで、逆に灯油は潤滑成分が足りません。それでこの2種類の油を混ぜるとちょうどいいんですよ」的場が言っていることは本当で、A重油は日本独自の税制上の区分名にすぎず国際的な分類では軽油だった。
「灯油ってジェット燃料のケロシンと同じものですよね。炭素が多くてカロリーは高いけどレシプロエンジンは焦げ付いてしまって使えないはずですよね」夏川が言った。
「ええそう聞きますね。だからA重油を混ぜるんですよ」的場が答えた。
「クマ抜きはどこでやってるんですか?」伊刈が聞いた。
「おやクマ抜きをご存知ですか」奥菜は感心したように振り返った。
燃料抜き取り検査でA重油や灯油を識別するために添加されたクマリン(赤色の識別色素、桜餅の香り成分としても知られる)を分解して不正軽油を発覚しにくくする工程を、この業界ではクマ抜きと言っていた。
「原料油タンクの隣にあるのが濃硫酸タンクです。配管がステンレスだからわかるでしょう。クマ抜きタンクに原料の混和油を入れておいて濃硫酸を一パーセント加えてバブリング(攪拌)するんです。これでクマリンが分解します。バブリングをやめてしばらくすると沈殿してくる濃硫酸を含んだタール分がピッチです。黒いので黒抜きとも言います」
「クマ抜きタンクの底のパイプからピッチを出すんですね」喜多が言った。未来の税理士らしく気合が入っているようだった。
「ピッチは最初は流動性が高いんですが冷えると固まってしまいます。その前にドラムに移すんです」
「濃硫酸はどれくらい使うんですか?」
「二十キロリットルの油を洗うのにドラム一本(二百リットル)の濃硫酸を使います。ピッチもだいたいドラム一本出ますね」
「洗う?」
「うちの製品は洗浄油って言っています。不純物を洗うという意味です。だから不正軽油じゃないですよ。せっかく作った商品を不正なんて名前で売る業者はいませんよ」
「洗った後はどうするんですか?」伊刈が聞いた。
「クマ抜きが終わった油は中和タンクに移して、消石灰、活性炭、白土(酸化アルミニウム粉末)を加えてまたバブリングします。最後にフィルタープレス(濾布式圧縮濾過機)で濾過して終りです。濾過した後にはスラッジが残ります。白いので白抜きとも言います」
フィルタープレスは汚泥処理業者にはたいていある設備だから伊刈たちにも馴染があった。関東興油のフィルタープレスはもともと食油か酒造の施設で使われていたものの中古のようだった。
「これが製品ですか?」伊刈は製油の入ったタンクの蓋を取った。中にはブルーの燃料が貯まっていた。
「ええそうです」
「品質はどうなんですか?」喜多が聞いた。
「普通の軽油に比べて硫黄がまだちょっと多いくらいでディーゼルエンジンは問題なく回りますよ」奥菜は終始余裕の表情だった。
「堂々たるもんですね」伊刈が言った。
「だって軽油を製造しちゃいけないって法律はないでしょう。どんな油を作って売ろうと税金さえ払えば自由なんじゃないですか」
「硫黄が多いのは問題ですよ。排ガスが汚れます」島倉が言った。
「自動車には浄化装置が付いてるから、ちょっとくらいの硫黄は大丈夫じゃないですか」
「フィルターがすぐにダメになります」
「それは燃料の問題じゃないですよ。フィルターを交換すれば済むことでしょう」
「軽油引取税の納税関係書類を拝見できますか」工場の検査が終わると的場が言った。
「税金なら本社がちゃんと収めているはずですよ」
「消防法の届出はどうですか」
「もちろん毎年検査に来てもらっていますよ」
「そうですか」的場は書類が出ないことを承知していたように迫力なく答えた。
「納税の書類がないのはどうしてですか」伊刈が的場の代わりに聞いた。的場はムダだと言わんばかり天を仰いだ。
「だから書類は本社にあるんです。税金は払ってますよ」的場が面倒臭そうに答えた。
「だったら本社から取り寄せてください」
「私にはムリです」
「どうして。工場長じゃないんですか」
「工場長といっても実は肩書きばかりのアルバイトでしてね、ほんとの社員じゃなくて手間だけもらってるんですよ。だからほんとのこと言いますと納税の書類なんか見たこともないです。電話で今日は何台入って何台出すか指示を受けるだけですよ」奥菜は正直に自分の立場を説明した。
「でも現場には詳しいじゃないですか」的場が言った。
「もともと帝都石油にいましたからね。肺をやられたら容赦なくリストラされてね。だけど奇跡的に治ったんです。それで今はこの仕事」奥菜は少しむっとしたように言った。
「どうりで詳しいわけですね」夏川が言った。
「手間はいくらもらってるんですか」伊刈が聞いた。
「一台三万ですよ」
それが高いのか安いのか判断は難しいところだった。毎日二台受ければ月百八十万円の手間になる。四人で割っても四十五万円だから悪くない手間賃かもしれない。しかし軽油引取税はタンクローリー一台で六十万円。毎日二台申告漏れにしたとすれば一か月三千六百万円の脱税になる。脱税額に比較したら奥菜の工場の手間は僅か五パーセントということだ。
「さっきタンクローリーが入ってきたとき何か記録をつけてましたよね」喜多が鋭く指摘した。
「はあなんのことでしょう」
「タンクローリーが何台入ったかメモしてるでしょう。そうじゃないともらう手間を計算できないですよね」
「それはまあ受払簿はつけてますよ」
「それを見せてもらえますか」
「はあまあ」奥菜は顔を曇らせた。
「工場長それ見せてください」的場がダメ押しのように言った。
「しょうがないね」
奥菜は渋々検査チームを事務所に案内し、タンクローリーの受払簿を示した。ありきたりの大学ノートに毎日の入庫出庫状況が記録されていた。
的場がノートの全ページをデジカメに写し撮るのを的場は呆然と見守っていた。
「工場長、最近硫酸ピッチを出したマニフェストはありますか」伊刈が言った。
「それならございますよ」
「それを見せてください」
「はあいいですけど」奥菜はマニフェスト綴りを持ってきた。
「喜多さんお願い」伊刈は綴りを見もしないで喜多に渡した。
「わかってます」
「工場長、ちょっとあそこの休憩室のテーブルを借りますよ。集計したい数字がありますから」
「だめと言ってもやるんでしょう。お好きにどうぞ」奥菜が諦めたように言った。
喜多は受け取ったマニフェストから硫酸ピッチの排出量を手際良く計算した。
「的場さん、タンクローリーの入出庫台数はどうなっていますか」
「入荷量と出荷量はほぼ同じで一日にタンクローリー二、三台です。平均すると二台半ですね」
「喜多さん、硫酸ピッチの排出量はどう」
「一か月に四十本くらいです」
「さっきの工場長の話だとタンクローリー一台につきドラム缶一本の硫酸ピッチが排出されるはずだから、一か月の排出量はドラム缶七十本くらいになるはずだよね」
「そうですね」喜多が言った。
「だけどマニフェスト上は半分しか確認できない」
「どういうことでしょうか」的場が言った。
「工場長、硫酸ピッチの保管場を見せてください」伊刈は的場の疑問には答えずに奥菜に言った。
「どうぞこちらです」奥菜は不安そうな顔で合同検査チームを工場裏の倉庫に案内した。そこには約百本の中古ドラム缶が並んでいた。喜多と夏川が厳密に数えると九十八本だった。
「一番最近の硫酸ピッチの処分委託は二か月前です。そこから今日までタンクローリーが百二十三台入ってますね。単純にタンクローリー一台についてドラム缶一本の比率とすると百二十三本のドラム缶があるはずです。二十五台合わないですが誤差の範囲ですか」
「そうですね、まあそうぴったり一台一本というわけじゃないので」奥菜は伊刈の追求に冷や汗をぬぐった。
「実は私どもは扇面ヶ浦の硫酸ピッチ不法投棄事件を調べてるんです」伊刈が言った。
「存じています。ひどい事件だそうですね。でも当社は断じて無関係ですよ」
「あの現場に投機されていた硫酸ピッチはドラム缶五十本でした」
「そうなんですか」
「ご安心ください。今日の検査ではこの施設から五十本のドラム缶が流出したという証拠はありませんからね」
「なるほどそういう検査でしたか」奥菜は不法投棄と関係ないと言われてちょっと安心したように額の汗を拭った。
「でもね奥菜さん、直接の関係はなくても間接的ということはありますよ。一年間では三百本以上計算が合いません。マニフェストに記載された処分先以外にもピッチを出したところがあるんじゃないですか」
「それは断じてございません」
「マニフェストの記載では以前にマツダエンジニアリングに出されていたピッチがありますね」
「はい」
「どうしてやめましたか」
「入荷を断られたからです。工場が満杯になったからと」
「そうじゃないでしょう。社長が逮捕されたんですよ」
「ほんとですか。私は存じません。本社の指示で処分先を変えただけですから」
「その後どこへ出していましたか」
「実はいろいろです。マツダのようにまとまって受けてくれるところがないものですから」
「その中にマニフェストがない処分先がありませんか」
「ありません」
「よく思い出してください。マニフェストがなくても受けてくれる業者ほんとにないですか」伊刈は確信があるように繰り返した。
「そう言えば実は買ってくれる業者があるんです。輸出するって聞いてます。そこならマニフェストが要らないと」
「どこですか」
「ソウル交易ですよ」
「連絡先を教えてもらえますか」
「わかりました」奥菜は腫れ物にでも触るようにソウル交易の社長の名刺を探し出してきた。
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