中
その日は結局放課後まで、上の空のままだった。市内の土手をひたすら走るだけのランニングと筋トレなんてのは、だいたいの部員に嫌われている。だけどいいところもある、あまり考えなくてもとにかく時間がすぎることだ。基礎トレが終わってやってる種目別に人がわれていく間に、おれはこっそり合宿棟を抜け出した。別にこそこそするような話じゃない。そもそも市の体育大会ができないくらい学校数が少ないから、うちでまともに陸上に打ち込んでるやつなんてのは変人だし、そのせいもあってか全般でやる気は低い。基礎トレだけは全員やれっていうのも、たぶんみんな真面目に部活をやってます、こんなに苦しいことをやってます、というポーズみたいなものだ。だからそこでさぼると裏切り者あつかいだし、逆にそこさえやってれば、なかなか文句は言われない。当然というか、基礎トレ終わりで抜けるやつはおればかりじゃなかったけど、あまりやったことがなかったってだけで、きまずい感じには違いなかった。別に決まった用事があったわけでもないのに。
†
決まった用事はなかったし、誰とも約束してなかったが、いく場所は決めていた。うちの学校の化学室は、細長い校舎の端っこ、合宿棟とは反対側にある。化学の津川がとっとと職員室に引きこもってしまうもんだから、放課後になると生徒しかいない。化学室にいるやつとなると、もちろん化学部だ。
馬鹿馬鹿しいと笑ってくれていい。つまりおれは、あの真っ黒い錠剤が、そういうものじゃないっていうのを確かめたかったのだ。それが、たかが学校の化学部なんてもので間に合うかどうかは別にして。
化学室は、いつもの特別教室のにおいがした。古い木とニスのにおい。化学らしいにおいってのは、まったくない。がらんとしただだっぴろい部屋に、実験台っていうんだろうか、流しがついてて下に引き出しと棚があるテーブルが八台並んでいる。後ろ半分にだけ電気をつけて、学生が一人だけ居残っていた。いや、椅子並べて、足投げ出して、堂々と本読んでるのを居残りって言っていいもんか。本っていってもマンガだ。週刊の漫画雑誌。女子が読んでるのを見るのは、まあ、ある意味新鮮だった。
制服の上に白衣を羽織って、今どき真っ黒い髪がぺたんとしてて、まるっきり色気がない。眼鏡でもかけてればそれらしかったんだろうけど、それもない。入ってきたおれを、白衣女は上目遣いに見た。見て、にょうとかにゃあとか、何かはっきりしない早口で言って、すぐ漫画に目を落とした。
「なんだって?」
白衣女はもう一度目線をあげて、なんとも嫌そうな顔をした。またなにか言いかけて、口元をもぐもぐさせて、それから、ほとんど怒鳴るような声で答えた。
「入部届は職員室でもらってくれよ」
「いや、入部希望者じゃないんだ」
おれはとりあえず、白衣女と同じ実験台の向かいに腰を下ろした。白衣女はなんとも迷惑そうに俺を見て、とりあえず普通に座る程度には姿勢をただす。両肘はついたまま。
「入部希望者じゃなければ何なんだい。津川先生なら職員室だ」
ひとことひとこと区切るように、はっきりとした大声だった。こいつじつは演劇部で、この白衣は衣装なんじゃないか。それにしちゃ演技がまずすぎるけど。
「先生に用事ってわけでもないよ。調べたいことがあるんだ」
「調べものなら図書館に行きたまえよ」
おれは十何年生きてきて、たまえよなんて口走るおんなをはじめて見た。
「そうじゃないんだよ。つまり、くすりを調べたいんだ」
白衣女は顔をくしゃくしゃにして考え込んだ。返事まではたっぷり十秒あった。
「成分分析をしたいってことかい?」
「たぶんそうだ」
白衣女は笑うでもなく、また、ものすごく嫌そうな顔をした。
「あのさあ。君、常識ってものがないのかい。どんな薬を調べて同定してほしいのか知らないけどさ、それがどれくらい大変なことかわかってるのか? だいたい、化学部だからって何でもかんでも闇雲に調べられるってもんじゃないよ。そういうのは専用の分析キットがあって、それをつかってようやく成分の有無がわかるくらいのもんだし、混ざっているものによっては使えなかったりもする。いや、別にぼくがしょぼいとかそういう話じゃないんだ。専門のさ、警察の鑑識課とか、そういうところだって成分の同定には専用キットを使うもんなんだ。それくらい大変なことなんだぜ。きみがぼくに頼もうとしてることは。だから普通は無理だよ。だってわざわざ同定たのむってことは、いや、同定ですらないよね。分析だね? それが何だっていうのかもわからないのを調べてくれってことだろ? そりゃぼくには無理だよ。たまたま、運良く、ここに使えるそういうのがあったり、ぼくがそういうのを知ってたりとかしたら話は別だけどさ。無理だ」
聞きにくい早口でまくしたてられて、正直、おれはボクとドウテイしか印象に残らなかった。何いってんだくらいなもので、文化系の連中はこんなのばっかだ。
「見てくれるだけでもいいんだよ。無理なら無理で」
ダメ元だから、とまで言わなくても、白衣女はさらに不機嫌そうになった。ダ、とかディ、とか何か口走って、聞き取れなかったおれの様子に気付いたのか、また大きく息を吸い込む。おれは覚悟した。
「だいたい、なんでそんなことしなきゃいけないんだい!」
「誰にも言えないからだよ!」
思ったよりずっとでかい声が出た。白衣女は驚いたような表情で固まって、誰かに助けでももとめるみたいに目を泳がせた。当たり前だけど、化学室には誰もいない。ラッキーなことに、校舎内も似たようなかんじだったらしい。声を聞きつけても誰もとんでこない。もしくは、ここを溜まり場にしてる連中、要するに化学部がぎゃあぎゃあわめくのに慣れてるだけかもしれないけど。
白衣女は、なぜか口元だけ愛想笑いを浮かべて、上目遣いにおれを見た。何も言わない。気味が悪かった。
「なんだよ」
「あの。あのさ、見るだけでいいかい」
続けて、でもわからないかもしれないよ、と言われたような気がする。早口なうえにもごもごした発音だったんで、よくわからなかったけど、たぶんそうだ。大丈夫かよとも思ったけど、どうせ、何かわかるとは思ってない。ダメならダメでそれでいい。おれは、チャック袋を実験台に置いた。白衣女は目を剥いて袋を見た。
「これ?」
うわずりすぎてひっくり返っている。おれは頷いた。白衣女はじっとチャック袋を睨んで、横の緑の箱から化学ティッシュを抜いて、そのうえに中身を出した。半分に割れた真っ黒い錠剤が転がり出た。
「グラディウスだ」
「知ってるのか」
こんなやつでも噂を知ってるんだな、というのはちょっと意外だったが、そんなものなのかもしれない。だいたいグラディウスなんて名前は、いかにも文化系のやつらが好きそうだ。
「ああ。知ってるよこうだ。スペシャルなドラッグで、二つ割にして半分ずつのむと相手と決闘する夢を見る。夢の中で負けた方はほんとうに死んでしまう。そうだろ」
「ああ」
少し違う気もしたけど、噂なんてそんなもんだろう。
「なあ。これ、本物なのか」
「本物だよ本物。まちがいなく本物」
いらいらするような物言いだった。さっきの大演説はなんだったんだ。
「成分だってわかるぜ」
「わからないんじゃないのかよ」
「わかるよ。いいかい」
バニラエキストラクト。バンブーチャコールパウダー。ソディウムハイドロジェンカルボネート。グルコース。クエン酸。
「グルコース? クエン酸? なんだよそれ」
「決まってるじゃないか。ちょっと待ってろよ」
実験台の引き出しをあけると、ペットボトルより小さいくらいのビンが出てきた。化学の実習で使うようなやつだ。ただ、ラベルは綺麗に剥がされていた。白衣女はそれを開けてみせた。おれは覗きこんだ。黒い錠剤が、ぎっしりと入っていた。
白衣女は聞き取りにくい早口で、たぶん、ぼくがつくったんだ、と言った。
†
まさに文化系の連中がしでかしたことだったらしい。企画は新聞部、プロデュース文芸部、実行犯が化学部のあの白衣女。ようするに、それっぽい噂を流して記事にしたかったらしい。噂の広がり方を調べたかったとか。で、あのあの真っ黒い錠剤みたいなものをやまほど作って、噂といっしょにばらまいた。はなしはまずまずうまくいっていたんだろう。なにしろおれも知ってるくらいだ。ただ間抜けなことに、調べる手段のほうがうまくいかなくて、噂をつくるだけつくっておじゃんになったらしい。
おれは、チャック袋を夕日に透かした。ダガーマークの横に、半分に割れた錠剤の影が透けていた。
何をやってたんだかな。おれはためいきをつきたい気分だった。先生には言えないとか、警察にも言えないとか、気にしてたのが馬鹿みたいだった。とはいえ、それで一発で答え合わせが終わったと思えば、それほど悪い話じゃなかったのかもしれないけれど。
自転車置き場はすっかり夕方だった。もうすぐ日が暮れる。ポケットの鍵を探し回っていると、いきなり、すっとながい影がさした。
「棚田」
「白野。どうしたんだよ」
いや、わかっていた。白野は影になってもわかる例の妙な無表情で、おれをじっと見つめていた。笑い出したい気分だった。笑えなかった。
「飲まないのか。受けないのか。棚田」
「なあ白野、おまえ知らないのか。この薬は」
実際は薬なんてもんじゃない。これは、ただのまずそうなラムネ菓子だ。
「飲まないのかよ。棚田」
「飲めばいいのかよ」
頑として動こうとしない白野にうんざりして、おれはチャック袋を出し、半割れのグラディウスとかいうラムネを口に放り込んだ。どうでもいい。それで気がすむなら御の字だ。噛み砕くと、ばかばかしいことにコーラ味がしゅわしゅわ弾けた。白野は妙な薄笑いを浮かべた。
「これで満足か」
「ああ。それでいいんだ」
じゃあ、また後でな。と言って、白野はさっさと言ってしまった。
あいつ、病院にでも行った方がいいよな。そのときは、それくらいのものだった。
ものだったんだ。
†
その夜、おれは夢を見た。
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