決闘剤ニ冠スル剣
里村 邦彦
前
ダガーマーク、というのを知っているだろうか。こういうやつだ。
†
机の上に投げ出された、てのひらサイズの小さなチャック袋の中には、そのダガーマークが入った紙切れが一枚。たぶんコピー用紙。端のところはビニル越しに見てもじぐざぐしていて、安いハサミで雑に切ったんだろう。少なくともカッターナイフを使ったら、こんなふうになるもんじゃない。形じたいもなんだかいびつで、それどころか袋の幅より広いのを、端を折って無理矢理つっこんであるような有様だった。
「何だよこれ」
「グラディウスだよ」
おれはチャック袋越しに、ダガーマークの紙を軽く押してみた。たしかに何か硬いものが挟まっている。見たことはないけど、たぶん錠剤だ。噂のとおりなら。
グラディウス。
その名前だけはおれも聞いたことがあった。もっとも、グランドなんとかとかグラフィックスとか、噂に出てくる呼び方は、まちまちでブレブレだったけど。
それは真っ黒い錠剤で、出処がどこなのか、誰も知らない。
「
「どうだっていいだろ。そんなこと。なあ
どうだっていい。と、白野はもう一度繰り返した。
おれは、ダガーマークの紙をじっと睨んだ。おれと白野しか残ってない教室に、放送委員が今年選びなおしたっていうやたらノリのいいクラシックが、下校時間を告げていた。
壁の時計は、もうすぐ六時半を回ろうとしている。
†
そもそも昨日の放課後、カラオケボックスであいつと出くわしたのが問題だ。
あいつ。
昨日カラオケに行ったときも、おれのほうは野郎ばっかり五人で、そのなかには当然、白野も混ざっていた。うちの高校は、毎週木曜が部活の休みに割り当てられている。で、たまたま木曜と、カラオケ屋の割引券の使用期限が重なった。誰が持ち出したんだか、もう覚えてない。確か学食でカネを払おうとしたとき、財布からぼろっと見つかった。五人まで一時間無料。ドリンクバー代入れても相当安い。別にやることもないし、行こうぜという話になるのは自然だった。電車通学のやつはいなかったけど、駅前なら
で、じゃんけんで負けて、俺と白野が飲み物を取りに行くことになって、ドリンクバーコーナーで、彼女と出くわした。一川はひとりで、トレイに紅茶だか烏龍茶だかを並べていた。こっちから話しかけたりしたわけじゃない。別にそういうのじゃない。ただ、ドリンクバーの機械の順番待ちのつもりでいたら、いきなり向こうから話しかけられただけだ。
「ごめん。どいてくれる?」
狭っ苦しい通路に無理矢理入れてあるドリンクバーだから、そりゃ出る方向が同じなら、立ってるだけでじゃまになる。例のいいにおいがちょっとして、おれは正直ちょっと焦ってたとは思う。ああ、とか、おう、とか、ごめん、は言ったかわからない。道を開けた。白野はとっくに壁際によって、つまらなそうにしていた。
ほんとにそれだけだったんだ。
コーラをいつつ注いで、ついでにハズレつくって持ってこうぜ、とか言ったのはいつもどおりだ。なのに白野はなんでか上の空の様子だった。
「どうしたんだ?」
聞いても生返事で、おれはなんとなく拍子抜けして、コーナーに積んである乾きかけのレモンだけグラスに浮かせて、部屋に戻ろうとした。
「なあ。棚田」
「なんだよ」
白野はなんて切り出すか迷っているような様子だった。部屋から漏れる、一昨年くらいによく流れてた曲の前奏が聞こえた。
「お前さ。一川のこと好きなのか?」
「は?」
何を言われてるのか、おれにはほんとにわからなかった。いや、そりゃあいつはかわいいと思ってたさ。嫌いだってところはそんなにない。でも、それにしたって唐突すぎるだろ?
「なに言ってんだよ。お前」
「いや、なんだ。どうなんだ棚田。好きなのか?」
なんて言ったらいいのかわからずに、おれは答えをひたすら迷った。いや、迷ったって話ですらない。何いってんだこいつ、くらいのものだ。コーラの気が抜けるな、とか、どうでもいいことを考えていたと思う。でも、白野があんまり動かないもんだから、とうとうおれも根負けした。
「好きだったら、何だよ」
「ああ。ええと、俺も好きだ。一川のことが」
ほんとに何いってんだ以外、何をいったらいい? そうじゃなきゃ黙り込むかだ。おれは答えなかった。白野はお構いなしに続けた。
「おまえには渡さないぞ、ああ、渡さない。いいか棚田」
「さっぱり話がわからねえよ。だったら告白でもなんでもしたらいいじゃねえか」
白野は、そのときはじめて笑った。そういやこいつ、今日はずっとつまらなそうな顔してたな、と、おれはようやくそのとき気付いた。
「そりゃ卑怯だ。だっておれは、棚田の気持ちを知っちまったんだから」
「いや、だから俺は――」
「だからな。棚田」
遮るようにして、白野は続けた。
「おまえに、決闘を申し込む」
†
まあ、そんなことがあった。
おれは、テーブルの上のチャック袋を見た。黒一色の、十字架みたいなダガーマークは、なんだかひどく芝居がかっていた。いや、これがって話じゃない。白野のやってることが、全部そうだ。
「お前さ。いろいろ、なんだ。本気かよ。白野」
「本気だよ」
白野は真顔だった。こいつとは小学校からの付き合いだけど、こんな顔をするやつだったかどうか、どうしても思い出せなかった。
本気だ、と繰り返して、白野はチャック袋をひらいて振った。軽い音をたてて、机の上に錠剤が転がった。真っ黒の。愛想のないデザインの。噂通りだった。
白野はポケットから、変なものを取り出した。小さな、青い、丸い、プラスチックのタッパみたいなやつだ。開けた中は何かでっぱりだらけで、白野は黒い錠剤をその真ん中の、ちょうど錠剤が入る大きさのくぼみに入れて、タッパーを閉じた。ぱきんとかすかな音がした。
「何だよそれ」
「錠剤カッター。知らないか?」
真っ二つに割れた黒い錠剤は、中身も完全に真っ黒だった。白野はひとつを自分で取って、もうひとつをおれにおしつけた。おれが押し付けられたまま困り果てていると、白野はカバンから緑茶のボトルを出して、残る半分を口に入れ、そのまま一気に飲み下してみせた。
「勝ったほうが、一川に告白していい。そういうことにしよう」
白野はおれを見た。やっぱり、見たことがないような真顔のままで。
「棚田。決心がつかないか?」
おれが答えずにいると、白野は半分の錠剤をチャック袋に入れ直して、おれの手に押し付けた。それで、そのままさっさと教室を出ていってしまった。
おれだけが教室に取り残された。アップテンポなクラシックは、いつの間にか鳴り止んでいた。
†
グラディウス。
噂だけは聞いたことがあった。つまり、こんな具合だ。
グラディウスは黒い錠剤だ。これは特別なドラッグで、滅多なことじゃ手に入らない。だいたいここからして話がおかしい。うちの町はものすごい片田舎で、すくなくともおれの知るかぎり、どんな危ない不良連中だって、そういうものを使ってるなんて話はない。たぶん採算が取れないんだろう、とおれは勝手に思っている。なにしろ日本一のコンビニエンスストアが、駅前から一年で撤退するような土地柄だ。それと日本一のファストフードチェーンも。駅のキヨスクはもうずいぶん前に廃止された。商店街のシャッターが上がるところなんて、おれは生まれてこの方見たことがない。そんな町に出回る、それも特別製のドラッグとか、どんなバカが作ってるのか、おれにはとても見当がつかなかった。
で、その効果というのがまたすごい。グラディウスは、別に幻覚を見たりとかハイになったりとか、そういうことはまったくない。ただ、飲むと特別な夢を見るんだそうだ。それも、一人じゃだめだ。真っ二つに割って、そう、ちょうど白野がやったみたいにして、二人で飲む。そうすると、飲んだ二人は同じ夢を見る。どんな冗談だ。いまさらこんな話、小学生だって信じやしないだろう。
しかもまだ続きがある。さらに荒唐無稽なやつが。
ふたりで見る同じ夢の中では、相手を殺すことができる。
そして、夢の中で死んだ相手は、ほんとうに死んでしまう。
おれは、この噂は大嘘だと思っている。そんな薬があるわけないし、何より、うちの学校では今年、生徒の葬式は一回もやっていない。
†
おれはダガーマークのチャック袋を、部屋の蛍光灯に透かしてみた。コピー用紙ごしに、半分に割れた錠剤の影が見える。すくなくともこれは、現におれの手元にあるわけだ。別にそれが、魔法みたいな効果のある薬であっても、そうでなくても。
部屋の時計の針は、十二時をさそうとしていた。そろそろ寝ないと、明日の朝練がつらい。別に何の競技で選手やってるわけでもないが、とにかく朝と夕方のランニングだけは顔を出さないと、あとあとひどく怒られる。一年の頃は理不尽だと思ったが、もうとっくに慣れてしまった。陸上部だからにはとにかく走りまくらないと、誰かが納得しないんだろう。誰かが。まあ、そんなものでいいと思っている。全員競技想定で走りこみをやらされるよりは、ずっと楽だ。
おれはチャック袋を光に透かして、もう一度半月型のシルエットを見た。
そのままかばんに放り込んで、蓋をした。
一川のことなんかは、正直、どうでもよかった。嘘くさいグラディウスのことも。先輩だの顧問だのにどやしつけられるほうが、よっぽどリアルで恐ろしい。
翌朝、白野は素知らぬ顔だった。ただ、話しかけては来なかった。
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