リミット
アシュが示してくれたわずかな希望を掴むために、ヘーゼンは全身全霊で研究を進めた。睡眠を取ることもなく、食事を取ることもなく、自身の身体のことなど、一ミリも省みぬこともなく。
……しかし。
「くそっ」
実に、36回目の失敗。思わず、ヘーゼンは机に拳を叩きつける。想いとは裏腹に、その液体に込められた魔力は、どんな強力な光魔法でも弱まることはなかった。いや、それよりも驚くべきはその再生能力。一度、数滴の液体を聖闇魔法で消滅させた。しかし、数分後には、その液体は何事かもなかったように、その場に存在し続けた。
アシュのような集中ができない。アシュの思考に遠く及ばない。アシュのような発想ができない。アシュのような……アシュのような……何度も何度も心の内に連呼する。
あるいは、同じ歳頃ならば、同じ芸当ができたのかもしれない……しかし、全てを賭けるには、ヘーゼンは、大切なものを知りすぎた。大切なものを与えられすぎた。世界、友人、仲間、地位、常識、倫理観……あらゆるものがヘーゼンの枷となる。
一方、アシュは無知ゆえに、与えられていないが故に、純粋だった。ただ、一つのもののために、全てを失っていいと思う。喜んで自身を投げ出せる。それは、決して愛情とは呼べない。それよりも、綺麗で、禍々しく、強く、脆く、儚いものだった。
史上最強魔法使いと謳われた男は、紛れもなくアシュに敗北し、己の無力さを呪った。
カリカリカリカリ……
「アシュ……その金庫はお前では開かない。あきらめろ」
指摘する先には、虚ろな表情をしたアシュが、試験管が入っている金庫に爪を突き立てている。その様子は、薬物に侵されきった廃人のようであり、意味不明な言動と、束の間の正気を交互に繰り返す。
その狂った行動の中でも、アシュは一貫してその液体を欲しがった。恐らく、自らが
しかし、今は。今だけはそれを忘れなければいけない。全ての物事を後回しにしても、研究を進めなければ、なんのための犠牲だったのか。なんのための命だったのか。
そんなヘーゼンの想いは、無情にも、脆くも、崩れ去る。
「はぁ……はぁ……ヘーゼン先生! アシュ!」
ジルの声が聞こえた。窓の外から眺めると、息を切らした様子で禁忌の館まで走ってきている。
「そんな……嫌だ……」
ヘーゼンは、頭を抑えて思わず唸る。その時が来た時のため、彼女には、この館に入れることのできる魔法をかけてある。
しかし、まだ、なにもできていない……なにも。
「リアナが……お願い、早く!」
全てが……これでは、全てが無駄に……アシュの犠牲も……無駄に。
グルグルグルグル……頭の中で、絶望が駆け巡る。
「……っ……今、行く!」
それでも、震える手で、窓を開けて叫ぶ。
「ヘーゼン先生……アシュは?」
「アシュは……」
変わり果てたこの男の姿を見て、娘はどう思うだろうか。全てを投げ打ったにも関わらず、助かることのできない自分を、娘はどう思うのだろうか。
「あいつは……今、別の場所にいる」
胸をギュッと抑えて嘘を答える。
「そんな……」
「すぐに連絡を入れる」
「わ、わかりました。早く……早く来てください」
「ああ」
そう答えながら、未だ金庫に爪を立てているアシュを見る。
「……すまない」
「アレ……どうして開かないんだろう……どうして……あっ……金庫だから……金庫……アレ……どうして開かないんだろう……どうして……アレ、さっき言ったかな? アレ……あっ……金庫だから……あっ……あっ……」
「……俺を……なにもできないこの無能を……恨んでくれ」
ヘーゼンはそのまま、部屋を後にした。
*
カリカリカリカリ……
一人になったアシュは、何度も何度も金庫に爪を突き立てる。
「アレ……どうして開かないんだろう……どうして……あっ……金庫だから……金庫……アレ……どうして開かないんだろう……どうして……アレ、さっき言ったかな? アレ……あっ……金庫だから……あっ……あっ……」
グルグルグルグル……同じ言葉を何度も何度も。
そんな中、
『わからないかい?』
誰もいないその空間で、アシュの脳内に、低い声が響いた。
「うん……わからない……」
『この金庫には仕掛けがある。彼は君には開けられないと言ったよね?』
「……うん」
『この館は要塞だ。他者の侵入はそこで守られる。役立たずの君から守るために、大した対策は必要ない。1日に何度も取り出すものだ。君が使えず、彼が使える魔力を少し込めれば開けられるようになっているのさ。なんだかわかるかい?』
「……光魔法」
『ご名答』
「でも……僕は使えない」
『ククク……君に使えなければ、他にもあるだろう?」
「……あ」
『そう言うことだよ。さあ、出してくれ』
・・・
数分後、アシュはつぶやく。
「……腹が減ったな」
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