奇跡


 蝕まれるアシュの心とは裏腹に、その魔法使いとしての能力は飛躍的に向上していた。ヘーゼンが及ばぬのは、彼の壊れた精神だけではなかった。アシュの研究成果、魔法理論、発想、全てにおいて遥かに凌駕していた。アシュの才能が、己のすべてを賭けて費やした魔法。へ―ゼンのそれすら、遥かに凌駕した魔法。一生を費やしてもなお到達しない領域に、この時のアシュは辿りついた。


 それが完成したのは、彼が研究を始めて11ヶ月だった。


「……素晴らしい」


 ヘーゼンは気がつけば口にしていた。それは、善悪を超えた賞賛。アシュが完成させたものは、その価値があると認めた瞬間だった。


「二度……同じモノは作れません」


 アシュが並べたモノは試験管に二つ。己自身の全てを込めたその魔法は、その中の液体を禍々しく光らせていた。その中に内包する魔力は、ヘーゼンが今まで感じたことがないほどのモノを放つ。


「神導病の因子の形状は、中途半端な力では変えることができない。すでに、人間の根源とも言える神の領域だ。だから、力がなければいけない」


「……人間そのものを……変える」


「どう変わるかは確かめて見る必要がある。一つは、試験用。もう一つがリアナの分です」


 失敗した場合、改良を施すために一つの液体を二つに分けた。震えるような手で、淡々と説明するアシュに、ヘーゼンはふと異変を感じ取る。


「お前……魔力が」


「……ああ、残念ながら、今は魔法が使えません。いずれ使えるようになるかもしれませんが……まあ、どちらでも」


「……」


 その試験管の放つ魔力の反面、アシュからは魔力……いや、生気自体を感じられない。髪は全て白く染まり、全ての感情すらも欠如したようなその表情に、言い知れぬほどの哀しみが巻き起こる。


「よくやった……あとは、任せろ。早く、リアナに会ってこい」


 抜け殻になったアシュを、ヘーゼンは深く深く抱きしめた。ここまで娘のことを想ってくれた男に。自分では決してなし得なかった偉業を達成した男に。


「いえ……彼女と会うのはを果たしてから。そう決めています」


「アシュ……」


「だから、早くテストして、この力をーー「駄目だ、まだこの薬は使えない」


 ヘーゼンは厳しい口調で答える。


「……なぜですか?」


「この薬はあまりにも強すぎる。これを飲めば、対象にどんな効果をもたらすかがわからない」


「ヘーゼン先生、なにをおっしゃっているんですか? わからないから試すんでしょう?」


 そのあまりにも真っ直ぐな瞳に、ヘーゼンは、思わず表情が歪む。


「……そうだな。ハッキリ言おう。この薬を飲めば、まず間違いなく人が人ではなくなる。魔力を失っているお前には感じられないかもしれないが、それほどの魔力を秘めている」


 仮に他人に飲ませれば、想像を絶する化け物になる可能性が高い。人智の及ばぬ化け物になれば、下手をすればこの街……いや、この国を巻き込む自体となり、それこそリアナの治療どころではない。


「ヘーゼン先生……他人など……どうでもいいではありませんか?」


 言い放ったそれは、淡々として無感情であった。


「それは違う。幾多の犠牲の上に、リアナが仮に治ったとしても、それを娘が喜ぶか? アシュ、そんな娘ではないだろう?」


「ヘーゼン先生、彼女に言わなければいいんですよ。彼女が知らなければ、彼女は罪悪感を持つこともない」


「アシュ……」


「ヘーゼン先生、なにをおっしゃっているんですか? わからないから試すんでしょう?」


「……お前は」


「ヘーゼン先生……他人など……どうでもいいではありませんか?」


「……」


「ヘーゼン先生、彼女に言わなければいいんですよ。彼女が知らなければ、彼女は罪悪感を持つこともない……アレ、先ほど言いましたか? おかしいな……ヘーゼン先生、なにをおっしゃってるんですか? ヘーゼン先生……他人などはどうでもいいんです。リアナが治りさえすればいいんです。それで万事解決する。僕らはそのためにやってきたんでしょう? ヘーゼン先生……あれ、やっぱり言ったかな。まあ、いいや。ヘーゼン先生、彼女に言わなければいいんですよ。彼女が知らなければ、彼女は罪悪感を持つこともない……アレ、先ほど言いましたか? おかしいな……ヘーゼン先生、なにをおっしゃってるんですか? ヘーゼン先生……他人などはどうでもいいんです。リアナが治りさえすればいいんです。それで万事解決する。僕らはそのためにやってきたんでしょう……うん、やっぱり言っている。ヘーゼン先生、彼女に言わなければいいんですよ。彼女が知らなければ、彼女は罪悪感を持つこともない……アレ、先ほど言いましたか? おかしいな……ヘーゼン先生、なにをおっしゃってるんですか? ヘーゼン先生……あれ、さっきも言いましたよね、僕。とにかく、ヘーゼン先生、彼女に言わなければいいんですよ。彼女が知らなければ、彼女は罪悪感を持つこともない……アレ、先ほど言いましたか? おかしいな……ヘーゼン先生、なにをおっしゃってるんですか? ヘーゼン先生……他人などはどうでもいいんです。リアナが治りさえすればいいんです。それで万事解決する。僕らはそのためにやってきたんでしょう?」


 まるで、高齢の老人のように何度も何度もつぶやく。まるで時を巻き戻したように……そして、一瞬正気に戻り、また狂う。まるで壊れた人形のように、不気味な表情を浮かべながら。


「アシュ、俺を信じて待っていろ。この薬はもらっておく。お前は、もう休むんだ。いいな……俺を信じて、待っていてくれ」


「ヘーゼン先生、彼女に言わなければいいんですよ。彼女が知らなければ、彼女は罪悪感を持つこともない……アレ、先ほど言いましたか? おかしいな……ヘーゼン先生、なにをおっしゃってるんですか? ヘーゼン先生……他人などはどうでもいいんです。リアナが治りさえすればいいんです。それで万事解決する。僕らはそのためにやってきたんーー」


 これ以上、その言葉を聞くことはヘーゼンには、耐えられなかった。その試験管液体を持ち出し、アシュの部屋を後にする。


 残されたアシュは、茫然自失し、何度も同じ言葉を連呼しながら、いつまでもその場で立ち尽くしていた。


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