『コウダ・ヨシツグ。お前に他の選択肢はない。こちらで生きるか、死ぬかだ』

 見捨てられた祖国に、今さら戻れるものか。

 陸軍の上層部からすれば、もう俺は、捨て石に過ぎない。

 カフェで幼い頃に聞いた言葉が、脳裏に浮かぶ。

 ごめん、兄さん。あなたとの約束は、もう守れそうにない。

『いいだろう』

 答を聞いた悪魔のような男が、満足げに、嗤った。

 ――祖国を捨てたあのとき、『俺』は死んだ。 




 

 沈みかけの夕日に照らされたホテルの一室で、男はひとり、ベッドに座っていた。

 ポケットからコインを取り出すと、親指と人差し指に力を入れ、スライドさせる。

 小さな隙間から顔を出した、白い用紙。

 紙片を広げると、およそ一桁か二桁で区切られた細かい数字が一列に並ぶ。

 クロスワード上の座標である。

 リーから受け取っていた、写真が仕込まれていた新聞の紙面を取り出す。クロスワードは既に、カフェで解き終えていた。

 文字を一字ずつ追いかけ、言葉を読み上げる。

「ア、シ、ワ、ラ……ブ、ヨ、ウ――武陽、帝都か」

 かつての故国の言葉が、つい口を出た。

 リーともしばらくお別れだろう。まさか、奴より先に、自分が『帰郷』することとなるとは。

 次の任地ではおそらく、清華帝国と密通している勢力のあぶり出しが仕事だろう。

 久々に潜入任務となりそうな予感に、不安は感じていない。

 むしろ、腕が鳴るとばかりに、満足そうな笑みすら口元に浮かぶ。だが――

 ――おじさん。

 ――ヨシ坊。

 忘れたはずだった、心地よい穏やかな響き。

 突如胸にこみ上げてきたすべてを振り払うように、目を閉じた。

 

 ――もう、二度と会うことは無いだろう。

 心の中で、良く似た面影をもつあどけない笑顔に、別れを告げる。


 そうして、目を開けたときには、再びすべてを捨て去った男――『リュウ』の穏やかな作り物の笑みだけが残っていた。

 次の仕事への準備――リーへの引継ぎをすべく、連絡を取りに部屋の外へと出る。

 夜の賑わいの中をひとり、歩く。

 これまでも、この先も、ひとりで、影のような存在としてどこかを歩き続けていくのであろう。

 そして、その先はおそらく――

 月が明るい空を見上げた男は、静かに、頭に浮かんだ考えを忘れるように、首を横に振った。

 どこからか、コーヒーの香りが漂い、通り抜けていったような気がした。


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諜報員と、香りの記憶――約束と忘れ形見―― やとう @yatou

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