昼を過ぎると、突如空が暗くなり、突風と共に叩き付けるような大雨が降り注ぐ。

 現地に住む人々は慣れたもので、手近なところで雨宿りをする。

 せわしなく食堂切り盛りする店主も、スコールの時だけは客ではない人間が集まることを嫌がらない。むしろ、飲み物の一杯でもどうかと勧めてちゃっかりと稼ぐ。

「止んだか」

 傘も役に立たない横殴りの雨をしのいだリュウは、食堂の店主に礼として僅かな銭を渡すと、愛想よく送り出された。

 雨が止むと間もなく、上がりだした気温と共に蒸し暑い空気が漂う。少し歩き出すだけで、足元が所々ぬかるみ、靴を汚す。

 薄着とはいえ長袖のシャツと背広、革靴という格好で動くのに適しない気候に、流れる汗をハンカチでぬぐう。

 やがて、裕福な外国人があつまる、外国人街の前に出た。

 両脇にガリアの兵士が立った巨大な門を通り抜けると、景色が一変した。

 それまでの人々の活気あふれる喧噪が遠くなり、静かな街が広がっていた。

 門の外では人混みを威嚇するようにけたたましい音を響かせていた車も、行儀よく道路に並んで各々の目的地へ走り去る。

 馬が闊歩する馬車の音がよく響き、車の邪魔にならないように道の脇で止まった。

 街には白を基調とした西方の建築物――鉄筋コンクリート製の建物が立ち並ぶ。石畳で舗装された道は、汚れもなく、道の端には樹木や花が植えられていた。

 奥の中央広場では、おつきの者と共に犬を連れて歩くドレスの婦人や、オープンテラスでくつろぐ軍服の集団も見受けられる。

 世話係に連れられて歩く子どもは極東の国アシワラの民族衣装であるキモノ姿で、午後の散歩をしている様子だった。

 中央広場からほど近い場所にある、ホテル。リュウの目的地はそこであった。

 ホテル・ザーディン。

 外国人街でも屈指の高級ホテルのうちのひとつである。

 中でも、一階のオープンテラスも備えたカフェは、現地の豆を使った冷たい甘味も味わえるため東方清華系の移民やアシワラ人に良く好まれていた。

 昼食を過ぎた暑い時間帯の現在は、先ほどのスコールもあいまって、外の席をわざわざ選ぶ客はいないようであった。

 ドアマンに値踏みされるような眼差しを受け、愛想よく、流暢なガリア語で挨拶をする。

 開けられた扉を超え、フロントには向かわず隣のカフェに入る。

 外部の客が商談や午後の休憩で利用することも多く、リュウのような格好をした男たちがめいめいの席でくつろいでいた。

 中には、午後のティータイムを楽しむイングレス王国の婦人たちが歓談している様子も見られた。

 案内された席につくと、リュウは給仕係にコーヒーを頼んだ。

 待ち時間を持て余し、鞄からリーにもらった新聞を取り出す。写真は、既に『とある場所』に収めてある。

 クロスワードの穴埋めでもしようかと、つらつらと考えていると、小さな足音が聞こえた。

 こんな場所に子供が何の用だ。

 親に連れられて、菓子でも食べに来たのだろうか。

 そんなことを思いながら、ペンを走らせていると、まもなく給仕係が盆にコーヒーを載せて戻ってきた。

「お待たせいたしました」

「ああ、ありがとう」

 新聞をたたみ、顔を上げると、若い西方人の男と目が合った。

 わずかだが、表情が硬い。

 まだ『仕事』に慣れていないようだ。

 まったく、どいつもこいつも。

 その様子に少しだけ目を鋭くすると、すぐににこやかな笑みを形作る。

「ついでに清算もたのむ。じっくりとクロスワードをやりたくてね」

「かしこまりました」

 伝票を受け取り、財布から『札』――透明な特殊インクで書かれた――を取り出して給仕係に渡す。

 そして、釣銭として中に紙片が仕込まれた『硬貨』を受け取る。

 それだけの取引、のはずだった。だが――

「し、失礼いたしましたっ」

 リュウの手に触れたことにおののいた男が、びくりと身を震わせた。

 その動きで、手から硬貨がすり抜け、掴もうとしたリュウの手は届かず、テーブルを右から左へと転がり、床へ落ちた。

 後追いした目線の先に、小さな赤い靴があることに気づいたリュウは、身を強張らせた。

 ――見られていた、のか。

 そして、その小さな手が伸ばされようとする気配を察したリュウは、反射的に手を伸ばそうとして立ち上がり――左腕に熱くて硬い感触――気づいたときには遅かった。

 ――しまった!

 自分が犯してしまった失態に、頭を抱えたくなる。

 中途半端な立ち姿で硬直したまま、目線だけが床に落ちていくカップを追っていた。

 熱いコーヒーは、しゃがんで右手で硬貨を拾おうとしていた少女の、人形を持った左手に向かって、テーブルから姿を消した。

 直後、驚いたこどもの高い声がカフェに響いた。

「君! 怪我はしていないか?」

 テーブルの横でしゃがんでいる小さな背中に声をかけると、すぐにすくっと立ち上がった。

 幸い、腕にはかからなかったらしい。だが――

「……みぃちゃんが、火傷しちゃいました」

 掲げられた陶器製の人形の衣服には、下半身に茶色い染みがつき、白いワンピースのスカートがぐっしょりと濡れていた。

「すまないが、一度、別の席に移ろう。君の靴も拭かせてほしい」

 そう促し、呆然としていた給仕係に目をやると、慌てて席を案内してナプキンを渡してきた。

 椅子を引いて座らせると、リュウはその横で膝をつく。赤い靴を脱いでもらう。

 幸い、外側にしぶきがついた程度で、殆どはカフェの絨毯が吸い取ってしまったらしい。カップも割れず、衝撃と一緒に中身のコーヒーも吸収したようだった。

「服に汚れはないか?」

 少女は人形をひざに乗せて、こくんと頷いた。

 そこでようやくリュウは、椅子に座った少女をあらためて見た。

 年のころはおそらく、十歳もいっていない。

 肩で切りそろえられた人形のようなおかっぱの頭は、赤いリボンのヘアバンドで留められていた。

 紺のラインが二本入ったセーラーカラーの白いワンピースは、頭のものと同色のリボンが胸元で結ばれていた。

 裾から膝下の紺のソックスは濡れた様子もないため、安堵して靴を履かせた。

 半袖からのぞく健康的な肌色の腕には、傷ひとつ無いことを確認し、リュウは表情を和らげた。

「すまなかった。硬貨を拾おうとして慌てていた」

「拾ってあげようと思ったのに……」

「君がいることに気づかなくて、とっさに動いてしまった。本当に、申し訳ない」

 頭を下げるリュウの後頭部を、少女は頬を膨らませてにらみ付ける。

 その視線に気づいて、慌てて胸元のポケットからハンカチを取り出し、押し当てる。

 陶器でつくられた胴体は元の白い色を取り戻すが、スカートは薄茶色のまま水気だけを失った。

「おとうさまがくれたものなのに……!」

 真っ赤な顔で涙目になって俯く様子に、泣き出すか、これ以上人目を集めるのはまずい、と混乱する頭で考える。

 ひとまず人形はテーブルに置き、少女をなだめにかかるとするか。

 まずは、拾ってくれてありがとう、と礼を言いながら受け取ろうとしたリュウの手が、宙で止まった。

「べんしょう代、です!」

「――え?」

 キッっと睨むように見上げた少女は続ける。

「悪いことしたら、謝って、次はべんしょうです! おとう様がそういってました。だから、このお金は返しません!」

 顔を赤らめて興奮する少女の声に、興味深そうな周囲の客の視線を感じる。

 暇そうな婦人は、こちらをちらちらと見ながらヒソヒソと喋っている。

 このような場所で周囲の耳目を集めることは、「目立たないこと」を第一とする身としては痛いことだった。

「……いや、それは、困る。非常に、困る」

 冷や汗なのか、部屋の温度による汗なのかわからないが、対応に困ったリュウの額に汗が浮かぶ。ついついコーヒーを拭いたハンカチで拭おうとしたため、生ぬるい感触がした。

 第一、その程度の硬貨の額では、少女の靴下の片方も買えないだろう。

 いやいや、そうではなく、それは金ではない。

 ――何をしているんだ、『俺』は。

「と、取りあえず、話そう。話せば、わかる」

 何をだ。一体どうすればいい。

 混乱した頭を落ち着かせようと、ぎこちない笑みを貼り付けながら、少女の椅子を反対側に回し、向かい合うように席に座った。

 まずは、周囲の注目を集めないように声を抑えてもらわなければ。

「弁償は、勿論しよう。君の大事なものを汚してしまったのだからね」

 ゆったりと、落ち着いた声を作り、静かに語りかける。

 絹製と思しき素材のワンピースは、おそらく下手な服よりも高価なものだろう。

 この高級ホテルを利用する客なら、持っていてもおかしくない。

「そういえば、ご両親はどこかな? そちらにも伺って謝らなければ」

「今は会社です。お母様は、お茶会にお出かけです。わたしは、お留守番なの」

 はきはきとした声で答えるものの、表情に元気は無い。

 人形が台無しになっただけが理由ではないようだ。

「君一人でか? 部屋に誰かいなかったのかい?」

「お付のばあやは、お年なので、暑くて疲れちゃった」

 どうやら、世話人が休んでいる隙を見て抜け出してきたらしい。

 子どもひとりでふらふらと歩いているのは、ホテル内とはいえ無用心だ。裕福な外国人の子どもなど、隙があれば誘拐されるような話は尽きない。

「いいかい、今この街は危ないんだ。ここだって、安全とはいえない」

「知ってる。事件のことも、ばあやから聞きました。でも、今はおじさんがいてひとりじゃないからいいんです!」

「まあ、そうだが……」

 そうではないが、反論しても仕方が無いので一応あわせておく。

 子どもの扱いはよくわからないが、機嫌をとっておくにこしたことはない。

『それに、誰も心配していないから……』

 アシワラの言葉で呟かれた独り言を、聞き取れなかったふりをした。

 両親か世話係の元へ行き、人形の謝罪と弁償を申し出るか。だが、その際に硬貨を見られたらどうする。巧妙に作られているが、中に仕込みがあるため、実物よりもやや分厚い構造になっている。何かの拍子で不審に思われないか。

 ならば、先に子どもから回収しておくべきか。

 リュウは、テーブルの脇に置かれたメニュー表を手に取った。

「とりあえず、何か頼もう。コーヒーと、君には、そうだな……」

 子どもが好きそうなジュースが無いか、文字を目で追っていると、視線を感じて顔を上げた。

「どうした?」

「おじさん、東のひとなのに、お茶を飲まないの?」

 不思議そうに見つめる瞳には、好奇心が見え隠れしていた。

「さっきもずっとコーヒー飲んでた。清華の人も、アシワラの人も、みんなお茶が好きなのに、変なの」

 頬杖をついて小首を傾げる少女の様子に、リュウは内心安堵した。

 取引が見られていたわけではなく、コーヒーを飲む東方人が珍しくて注目していたらしい。

 確かに、イングレスの影響を受けた紅茶や、清華から運ばれる茶が多く流通している東方では、もともと茶の文化がある。コーヒーを好んで頼むのはたいてい西方人ぐらいだった。特に、ガリア人が好む。

「好きなんだ。この国はコーヒー豆の生産地だからね、よく頼む」

「ふーん、そうなの」

 ここって、お豆を作っているのね、と少女は興味深げに頷いた。

「それで、君には――」

「コーヒー! わたし、コーヒーが飲みたいの!」

 突如声を大きくして、少女が主張する。

 子どもにありがちな、背伸びをしたいのだろう。

「『大人の味』は、まだ早い。ジュースにしておきなさい」

 それを聞くと、よく言われているのか、少女が両手で耳をふさぎ、頬を膨らませた。

「大人の人ってみんなそう言うの。おとうさまだって、おんなじこと言っていたわ」

 不満げな様子だった少女は、何か思いついたのか、突如顔を輝かせた。

「だったら、子どもにも味わえるコーヒーを出してくれたら、許してあげる」

 どうだとばかりに見上げてくる小さな顔に、リュウは、ふむ、と考える。

「それなら、そうだな……」

 それで機嫌が直り、この場で硬貨が回収できるのならば乗っておくことにしよう。

 メニュー表を見ると、目当てのものを見つけた。

 先ほどの給仕係を呼ぶと、注文をする。

 何が出てくるのか、とそわそわする少女を横目に見ながら、いまだ緊張している給仕係に一瞬だけ冷たい眼差しを送った。

「ところで、どうして君はそんなにコーヒー飲みたいんだい?」

 落ち着かない様子の少女が不思議で、リュウは尋ねた。

 すると、楽しそうな顔を曇らせて少し間があった後、小さな声で答えた。

「……おとうさまと、約束していたの」

「約束?」

 少女はぽつぽつと語りだした。

 極東の島国、アシワラ国で貿易会社を営む少女の父は大のコーヒー好きで、毎食後に飲んでいたほどだった。

 そばでその香りだけを嗅いでいた少女は、いつしか興味をもって分けてほしいとねだった。

 どんなお願いも聞いてくれる甘い父も、そのときだけはにやにやと笑って首を横に振った。

 『大人の味は、大きくなってからだ』

 いつになったら良いのかと聞くと、仕事で一緒に外国に行くようになったら、と答えた。

 本物の味を飲ませてやる、と言う父に、少女は絶対の約束だと指切りをした。

「おじさん、おとうさまにそっくりだったから、つい、見ちゃったの」

「……おにいさんと、そんなに似ているのか?」

「うん。目がこんな感じなのが、そっくり」

 少し大げさに、狐のように目を吊り上げる顔がおかしくて、つい笑ってしまった。

 この少女も、どちらかといえば釣り目の部類だ。

 おそらく、父親に似たのだろう。

「あと、コーヒーが大好きなのも一緒」

 それと、お声もちょっと似てる気がするの。

 少女の何気ない言葉に、リュウは先ほどよりも穏やかそうな表情で尋ねた。

「そういえば、君の名前を聞いていなかったね」

「名前を聞くときには、まず、最初に名乗るのがマナーでしょう? おじさん」

 大人を相手に注意できるのが面白いのか、学校の先生のように腰に手を当ててにっこりと笑う。

「それはそうだ。……おにいさんは、リュウ。ジェイムズ・リュウというんだ」

 その少女のしぐさに笑みを浮かべながら、リュウは名乗った。

 応じるように、少女は姿勢を正してはきはきと語る。

「わたしは、キョウコ。キョウコ・コウダです」

「――江田、香子?」

 つい、口から出てしまった言葉に、香子は目を丸くする。

「そう、おじさん、アシワラの発音がお上手ね」

「……君のガリア語も、中々のものだよ」

 内心の動揺を隠そうと、手を組んで微笑む。

「でしょう? 先生にも褒められたの。そのかわり、アシワラの言葉は、ちょっと苦手なの」

 おしゃべりはできるけど、まだ文字が読めないの。

 困ったように頬に手を当てる香子の顔を凝視していたリュウは、不思議そうに見つめ返された。

「おじさん、どうしたの?」

「いや……かわいいリボンだと思ってね」

 まさか、『江田』の家の娘だったとは。

 ならば『兄さん』もここに―― ?

 動揺を隠すようにリュウは話題を変える。

「おとうさまがくれたの。わたし、これが好き」

 香子は赤いリボンに触れ、自慢するように見せる。

 胸元のリボンともおそろいのようで、黒髪や白い服によく映えている。

「その、おとうさまも、今は仕事中なんだね」

 何気なく問いかけたリュウの言葉で、突如香子は沈んだ表情になった。

「――いないの」

「え?」

「おとうさまは、もう、いないひとなの」

 おとうさまは、昔から肺の弱いひとだったらしい。

 仕事にこの国へ来てしばらくして、あまりの忙しさに体を壊して病気になってしまった。

 そして、アシワラに帰ってくることもなく、二年前に亡くなった。

 今の『義父』は、父の従兄弟にあたるひとで、母と再婚して家の事業を継いでいる。

 父とも仲が悪かったひとで、良く似た香子のことは嫌っているらしい。

 義理の親子としては数えるほどの会話しか、したこともない。

 スカートの裾を握りながら、そう語った香子の言葉に、リュウはしばし黙り込んだ。

「それは……つらい話を、聞いてしまったな」

 慎重に、言葉を選ぶ。

 ざわつく胸のうちを、押さえ込むように。

「ううん。タケルおじさまは嫌いだけど、みぃちゃんがいるから寂しくないの」

 『おとうさま』がくれた宝物だから、と微笑む香子。

「そんな大切なものを汚してしまって……申し訳なかった」

「いいの。また、きれいにしてあげるから。それに、コーヒーを飲ませてくれるのでしょう?」

「勿論だ。……ああ、来たみたいだ」

 給仕係のトレーに乗せられたものを、身を乗り出して香子は見上げた。

 そして、行儀の悪さに気づいたのか、慌てて椅子に座りなおす。

 しかし、わくわくする心は抑えきれないようで、ガラスの器が目の前に置かれる様子を、目を真ん丸にして凝視していた。

「これ、なあに?」

 細身で背の高いガラスの器には、なみなみと注がれた冷たいコーヒー。そして、その中に積まれた氷に支えられて、器のてっぺんには白い半球のアイスクリームが浮かんでいた。アイスクリームと器の間には、一本のシナモンスティックがさしこまれ、ほのかに甘い香りを漂わせていた。

「コーヒーフロートだ。イングレスの飲み物だが、これもなかなか良いと思うよ」

「すごい、とっても素敵!」

 細長いスプーンを手に取ると、どこから一口目をはじめようか彷徨わせる姿に、リュウは小さく笑みを浮かべた。

 ようやく一口目をすくって、香子はおそるおそる口に運ぶと、ひんやりとした触感に目を細めた。

 どうやら、お嬢様はお気に召したらしい。

「コーヒーの味はどうだい?」

 そう言われた香子は、ゆっくりとアイスクリームの隙間にストローを差込み、ゆっくりと黒い液体を吸い込む。ガラスの器の水位が下がり、アイスクリームがわずかに下がる。口の中に広がる香りと、予想以上の苦味を感じ、香子は渋い顔で、うーん、とうなる。

「…………苦い、とっても。焦げてるような感じ」

 どう表現すればよいのか、言葉をさがしながら、もう一度ストローに口をつける。

「それにちょっと酸っぱいような、不思議だわ」

 実験中の科学者のように、眉間にしわを寄せて観察と味見を繰り返す香子だったが、目の前の男がこっそりとうつむいていたことに気づく。

「おじさん、笑っているの?」

「いや、ごめん、つい……」

 笑われるのは不服なようで、香子が風船のように頬を膨らませる。それが遠い昔に図鑑で見た魚の顔を連想させてしまい、余計にこみ上げる笑いをあわてて抑える。

「何がそんなにおもしろいの?」

「昔の自分を思いだして、ね」

 肩を震わせながら弁明したリュウは、すまない、といいながらも頬は引きつっている。

「おじさんの昔って、いつのこと?」 

「そうだな……君よりも少し大きいが、子どものときの話だ」 



『卑しい妾の子がっ! よくも、うちの子を!』

 大の大人の手のひらが、少年に容赦なく振り下ろされた。

 腫れていた頬をさらに激しく打ち据えられ、痛みも悔しさも飲み込んで耐えた。

『やめてくれ、叔母上。弟はやり返しただけだ。はじめは、タケルの方が……』

 間に入った青年が、再び振り上げた女性の腕を掴んで留めた。

『薫! お前は、コレを身内などと呼ぶのですか!? こんな、汚らしい娼婦の子など……』

『あなたの子よりもよっぽどまともだ! それ以上の侮辱は、許さない。帰ってくれ!』

 部屋から無理やり押し出して、乱暴に扉をしめる。

 扉の向こうでは使用人がなだめながら、親子を外に連れ出す気配が感じられた。

 俯いたまま、静かになるまでずっと固まっていた。

 ふと、頭の上にあたたかい手のひらが置かれた。

『ヨシ坊、出かけるぞ』

 見上げた先の兄だけは、いつもやさしい笑みを浮かべていた。



「年の離れた兄とは仲が良くてね、よくカフェに連れて行ってもらったんだ」

 ふーん、と言いながらアイスクリームをぱくぱくと口に運ぶ香子。

 どうやら、白いミルクでできた氷菓子の味は気に入ったらしい。

「そうなんだ。カフェに通うなんて、わたしと一緒ね――あっ」

 頬張ったアイスクリームが口の中で冷たすぎたのか、慌ててストローで一気にコーヒーを啜る。

 急に黒の水位が下がり、氷菓を支える氷の塔が顔を出した。

「つめたい。でも……これ、なんだかいい味」

 口の中でミルクとコーヒーが混ざり合ったのが、程よく感じたらしい。

 満足げな顔で、再びアイスクリームを口にして、ストローをくわえた。

「それで、おじさんが初めてコーヒーを飲んだときは、どうだったの?」

 一通りコーヒーフロートの味を堪能した香子が、再びリュウに質問を続ける。

 どうにも話は最後まで聞きたいらしい。

「君と違って、最初の一口で嫌になってしまったよ」 

「おじさん、わたしよりお子様ね」

 しっかり飲んでる私はどうだ、とどこか誇らしげにストローを齧る。だが一口のアイスがないと、まだまだコーヒーだけでは飲めないようだ。

「そうだった、かもしれない」

 あのときは、無力な子どもだった。

 母を亡くし、引き取られた家には居場所などなかった。

 妾の子など家族として扱われず、親族にも疎まれた。

 ただひとりの兄を除いて。

「わたしなんて、お母様にいつも言われてるの。『立派な淑女におなりなさい』っですってよ」

 日ごろから言われているのだろう、うんざりした顔で母の口調を真似る。

「いまでも十分、立派なお嬢様じゃないか」

「おじさんだけよ、そう言ってくれたの」

 香子との会話に興じていると、先ほどの給仕係が、注文したコーヒーを運んできた。

「なにこれ?」

「この地域の、ちょっと特別なコーヒーだよ。見ていてごらん」

 コーヒーカップの上に乗せられた、金属の小さなカップのような器。その中にはコーヒーの黒い粉が入れられている。上から器一杯に湯が注がれると、ぽたぽたとフィルターの役割をもつ器の底に空いた細かい穴から、カップへ濃い抽出液が滴り落ちてゆく。

「いい匂いね」

 向かい側に座る香子の元まで、芳香は届いたらしい。

「でも、なんだかすごく苦そう」

 香子のコーヒーフロートと異なる濃厚な香りが、テーブルに漂う。

「そうだよ。でも、そのまま飲むものではないんだ」

 器の中の湯がなくなると、給仕が取り上げて戻っていく。

 香子が首を伸ばしてテーブルの向こうをのぞくと、カップの中身が見えた。

「何が入っているの?」

 カップの中身は淡い茶色、まるでミルクティーのような色をしていた。

 それをスプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、練乳だよ、と答える。

「この国のコーヒーはとても濃くて苦いからね。こうやってあらかじめ練乳を入れておいて、混ぜて飲むんだ」

「お砂糖やミルクじゃないのね」

「ミルクが保存できなかった頃の、昔の飲み方だそうだよ」

 スプーンを置いて、一口飲むと、満足げに頷いた。

 それをじっと見ていた香子の目に気づき、何を欲しているかはすぐにわかった。

「試してみる?」

「飲む!」

 熱いカップの向きを変えて、反対側の香子の前に差し出す。うきうきした様子で目の前に来たカップを見下ろした香子は、ちらりと向かい側の「おじさん」を見てる。

 どうぞ、と促されると両手で持ったカップをゆっくりと口元に運んだ。

 ううん、と首をかしげながらもう一口。

 やはり反対側に首をかしげて考えることしばらくして、香子は口を開いた。

「――やっぱりにがい。けれど、ちょっと甘くておいしい」

 冷たいのとはちょっと違う香りがするの、という香子は比べるように、コーヒーフロートのストローをくわえた。

「君のほうが、味覚は大人だったみたいだな」



『ヨシ坊はアイスクリームが好きだな』

 兄の言葉に、スプーンの動きをとめて、少年は首を横に振った。

『他に頼むものがないから』

 ひんやりとした半球の氷菓には、チョコレートのソースがかけられている。

 そこをスプーンですくって舐めると、ほんのりとした甘みが口に広がるのだ。

『ジュースだってあるだろう』

『あんなの、ガキが欲しがるヤツだ』

 アイスクリームを頼む子どもは少ない。

 それが、当時の物価では高価すぎるが故ということをまだ知らなかった。 

 すべて兄が支払っていた。

 まだ学生だった青年のもつ財布で賄えるほど、江田家が裕福だったのだと、今ならわかる。

『コーヒーはどうだ? こいつもなかなかだぞ』

 兄が指差した手元のカップには、なみなみと注がれた黒い飲み物がある。

 真っ黒な泥水みたいな液の、どこがいいんだ、と常々思っていたが、香りだけは悪くない。

『薫兄さんが言うなら、少し試してみても良いかな』

 そういって受け取ったときに兄が、どこかにやついていたことは、今でも覚えている。

 うげぇ、と思い切り顰めた顔を指差して、いたずらが成功した子どものように喜んだことも。

『大人の味は、まだ早かったみたいだな』



「なんでこんなにおいしいもの、おとうさまは独り占めしてたのかしら?」

「子どものうちは、まだまだ早いと思ったんだろうね。きみのお父さんは」

 君は、どうやら兄の予想以上大人らしい。俺と違って。

「今はまだ、子どもらしい楽しみを味わって欲しいってことじゃないかな」

 きっとあのとき、拗ねた俺をなだめるのが大変だったから。

 かわいい娘には、そうなってほしくなかったのだろう。

「でもね、子どもって大変なのよ。大人がうるさいから」

 疲れちゃう、とため息をついた香子の横顔を見つめる。

「みんなそう。ばあやも、お母様も……おじさまも、『コウダ家にふさわしい人間になりなさい』ってしか言わない。そうじゃない私なんて、いなくても一緒なの」

 スプーンでアイスクリームをいじりながら、やれやれと首を横に振る。

 お母様は、この国にくるといつも社交界につれていく。西側の言葉や作法を勉強して、いいお嫁さんになるためだという。 

 義理の父であるタケルおじ様もできれば、『家』のために外国の人と結婚してほしいそうだ。

「だから、お勉強も、お稽古も、みんなキライ。わたしのためにやってるんじゃないの。ぜんぶ、『おいえ』のために、やらされるの」

 そんなの、もうイヤ。

 香子の言葉に、思いに、覚えがあった。

「すべては『お家』のために、か」

 自分も、兄もそれを何度、聞かされてきただろう。

 かつて聞き飽きた言葉を、反すうする。




『いつか江田の家なんて、飛び出してやる』

 兄はよく、そう口にしていた。

『今のうちに勉学と仕事は学ぶ。そうしたら、海外に出て帰ってくるつもりはない』

 帝都でも有数の大学をもうすぐ卒業する兄は、家の仕事に就き、支社のある海外を転々とすることなるだろう。

 そして、自分は――

『ヨシ坊が陸軍だなんて。俺は今でも親が許せない』

 軍の幼年学校に入れば、やがては士官学校に進み、将校を目指す。軍の御用商人としての繋がりもほしい江田の家からすれば、自分は都合の良い存在だった。

 たとえ、途中で情勢が悪化して戦争で失っても良い、妾腹の次男であるのだから。

『いいか、ヨシツグ。学校や軍なんて適当でいい。俺が海外で働くアテをつくったら、すぐに呼んでやる。その時はお前もすぐに来い』

 あんな家に、ひとりになんてさせない。

 兄は、薫兄さんはそう言ってじっと俺を見つめた。 

『だから、お前は何があっても死ぬな』

 そんな彼にあの時は、大丈夫だよ、と軽く言ったものだった。

『約束だからな』

 だが、表情は真剣だった。

 その剣幕に気圧されるように頷くと、兄は表情を和らげ、また、頭を撫でた。

『その時には、海外で美味いコーヒーを飲ませてやる。大人の味、ちゃんと飲めるようにしておけよ』

 これも、約束だからな。

 兄はそう言ってあの、苦くて不味いコーヒーを美味しそうにすすっていた。

 あんなものが美味しくなる日が来るんだろうか。

 大人になった自分が想像できず、俺は、ただ「わかった」とだけ言った。

 兄の言うとおり、きっといつか、あれが好きになる日が来るんだろう。

 薫兄さんが勧める、大好きなものだから、きっといいものに違いない。



 ――あれから、十年以上の時間が経った。

 コーヒーの苦味も、酸味も味わえるようになったのは、いつごろからだっただろうか。



「辛い学問も、稽古も我慢するのは、いつか新しい居場所に飛び出せるようにするためだ」

 そのために、今はよく勉強しておきなさい。

「昔兄がよく、そう言っていたよ」

 空になったコーヒーカップを置いた男を、香子はまっすぐに見つめた。

「語学を学んでおけば、君が行ける世界も広がるだろうしね」

 もしも結婚相手が嫌だったら、いっそのこと海外に逃げたっていい。

 そのために色々なことを学んで、どんな仕事でもできるようにしておくんだ。

「わたしも、おんなじことをおとうさまに言われたの」

 ずっと前に死んじゃった、おとうさまの弟。わたしのおじさんにそういってお話してたって。

 香子の言葉は続く。

「おじさんのお兄様、まるで、わたしのおとうさまみたいね」

 冷や水を浴びせられたような感覚に、男は慌てて我にかえった。

 ――話しすぎた。

 迂闊だった。子ども相手ならば何もわからないだろう、そう油断していた。

 つい、思い出に浸りすぎた。

「……そうだろうか」

「うん。コーヒーが好きなのも似てるからきっと、仲良くなれたわ」

 コーヒーを飲みながらおじさんと、おとうさまも、きっと。

 そういう香子の顔は、『薫兄さん』に、良く似ていた。

「ねえ、おじさん。わたしね、一緒にお話してるとあなたがまるで――」

 香子が何を言いかけたのかは分からない。だが、最後まで言わせるつもりはなかった。

「お嬢様っ!」

 少女の言葉を遮ろうとした男よりも早く、背後から老女の悲鳴に近いアシワラ語が響いた。

「香子お嬢様っ、なぜこのようなところで!? お探ししましたよ!」

 振り向くと、アシワラの民族衣装、キモノを身にまとった老女――おそらく、還暦に近い――が、青ざめた顔で走り寄ってきた。

「ばあや……」

 香子の向かい側に座る青年の姿を見ると、香子の御付きの「ばあや」が、驚いたように足を止めた。

「どちら様でしょうか?」

 片言のイングレス語は詰問するようで、警戒するように厳しい視線を送る。

 裕福な外国人の子どもがひとりで出歩いていたのだ。見ず知らずの男と一緒の姿を見れば、まずは誘拐を疑うだろう。

 おちついて自己紹介をしていると、給仕係が慌てて飛び出してきて、事情を説明し始める。一応、彼なりにこの状況を引き起こした負い目があったのだろう。

 だが、ガリア語が理解できないのか、余計に慌てる老女を見かねた香子が通訳をする。

 コーヒーの染みついた人形のスカートを見て、次に、テーブルのガラスの器を見つけた老女は、ようやく状況を理解したようであった。

「誠に、申し訳ございません!」

 恐縮して何度も頭を下げ始める。

 香子の冒険は、慣れない異国の生活に疲れが溜り、御付きの気が緩んだ瞬間の出来事であったようだ。

 彼女の身に何かあれば、責任を問われるのはこの老女だ。

 出会いは偶然であったが、こどもの相手をして、見守っていた「恩人」に、何度も礼を繰り返した。

「いえ、こちらも御嬢さんにご迷惑をおかけして、申し訳ない」

 人形の衣服の弁償代として、少なくない額の紙幣を渡す。

 受け取れないと何度も首を振る老女に、無理やり握らせるようにして押し付ける。

 これ以上、江田の家と関わるのは、危険だ。

 彼女が、古くから家に仕えている人間ならばなおさら。

「さあ、お嬢様、参りましょう」 

 椅子に座っていた香子を立たせると、肩を抱いて促す。

 観念したように、諦めた顔の香子は立ち上がった。だが、引っ張られ連れて行かれる前に、慌てて立ちどまる。

「ありがとう。約束、ちゃんと返すわ」

 小さな手を広げると、両手を挙げて硬貨を差し出した。

 ずっと握りしめていたのだろう。受け取った硬貨は温かい。

 名残惜しむように見上げてくる、少女の頭に手を置くと、かつての兄のように優しい手つきでなでる。

「おじさん、また、会える?」

 どうだろうね、と肩をすくめる。

「世界を回る仕事だからな。そのうち、アシワラにも行くかもしれない」

 それを聞くと香子は、ぱっと顔を明るくして笑顔になった。

「アシワラにきたら、おとうさまが大好きだったお店を教えてあげる。きっと気に入るわ」

 ――そうだな。あそこは、大好きだった。

「それは、楽しみだな」

 胸のうちはすべて奥に押し込み、偽りの言葉を述べる。そんなこと、もう、既に慣れきっている。

「絶対よ。約束だからね!」

 お付の老女に腕を引かれながらも、香子は何度も振り返りながら手を振った。

 男は、それに答えるように左手をあげ、小さな背中が見えなくなるまで見送っていた。

 テーブルに残されたガラスの器の中で溶けた氷の塔が、からん、と小さな音を立てて落ちた。

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