『ヨシ坊、ヨシ坊――ヨシツグ』

 懐かしい、兄さんの声が聞こえる。

『ただいま。なんだ、そんな顔して。またいじめられたのか?』

 そんなわけ、ないだろう。

 俺は「あんなこと」で、いちいち傷付く程弱くない。

『それなら、いつものカフェに行くぞ。話はそこで聞いてやる』

 兄さんが行くなら、ついて行っても良いかな。

『ほら、お前の好きなアレを食わせてやるから来い』

 別に好きってわけじゃない。

 他に食べられそうなものがないから、仕方なく――

『おいで、香次』

 わかったよ、兄さん。



 ガリア王国が支配する南領の都、ザーディンの昼は雨が降らなければ意外と快適に過ごせる。

 雨による蒸し暑さがないため、日陰に入れば涼しさすら感じる。

 それでも、日中はさすがに汗をかかないわけにもいかない。

 街の中心部にほど近いホテルで、リュウは目を覚ました。

 寝汗の気持ち悪さに眉をひそめると、寝間着を脱いでバスルームに向かう。 

 ひんやりとした冷たい水を、流れるまま浴びていたが、しばらくして目を開けて栓を閉じた。

 タオル生地のローブを羽織り、乾いたタオルで短い髪を拭きながら、カーテンを開けると、出入り口のドアに近いバスルームから出て、そのまま奥のベッドに腰掛ける。

 狭い部屋には、彼の座るベッドが一台。そのサイドにテーブル。そして反対側にクローゼットがあるのみであった。

 唯一、大通りに面した小さな窓が枕元にあり、そこから届く微風から僅かに土埃が混じっていることに顔を顰め、閉めた。

 クローゼットの扉を片方を開けるとトランクに収められていた包みを取り出した。広げると、西方の洋服が姿を現した。

 全開にしたクローゼットの扉に付けられた姿見に、男の姿が映った。

 一重の釣り目で、おそらくは二十代半ばの青年。それほど日焼けはしていない、南国人とは異なった肌。長身ではく、一見細く見える。しかし、その身にはしなやかな筋肉がつき、引き締まっていた。

 髪の水気を取ると、ローブを脱いで薄い肌着と麻のシャツを身につける。

 やわらかい黒髪は短く、櫛で整えられ、南国の暑さでじきに乾く。

 鏡を見ながら、手馴れた様子で蝶ネクタイの形を整える。

 そして、グレーの麻の布地のベスト、ジャケット、パンツのボタンを留めると鏡を見ながら皺が無いか確認をした。

 この街では珍しくはない西の装いをした、仕事に赴く東方人に見えるであろう。

 衣服の確認を終えて再びベッドに座ると、革靴の紐を結び、立ち上がる。

 髪に触れて乾き具合を確認すると、櫛と整髪剤で整えて、鏡で見る。

 鏡の向こうで、青年が表情を和らげた。

 軽い植物の素材で織られ、折りたたまれていた軽い帽子を鞄から取り出すと、被る。胸元のポケットには、ハンカチが少しだけ顔を出す。

 最後に鞄を抱えて部屋の様子を確認すると、髪を一本引き抜き、ドアに挟んで閉めた。 






 大通りを行きかう人々の大半は、ダイヴェトの民族衣装を身にまとった現地人であった。段々気温も上昇してきていることもあり、日よけの帽子のように笠をかぶった者もいる。

 天秤棒の売り子たちは海産物や乾いた米麺、野菜など様々な品物をのせて人混みの中を器用に歩いている。

「パパイヤー、パパイヤー、おいしいよ!」

 売り物の南国フルーツをのせ、威勢の良い声で客を捕まえながら練り歩く若い女性とすれ違う。美しい黒髪をなびかせ、民俗衣装である長袖の青いドレスを身にまとい、両脇に深いスリットが入った長い裾をさばいて速足で歩いている。腹部までのスリットから僅かに覗く、地肌が良いなどという外国人もいるらしい。ゆったりとした白い長ズボンとサンダルという動きやすく、男女ともに好まれる服装だ。

 その傍では小さな七輪で炭火をおこし、クレープのような現地のパンケーキ、バイン・セオを焼く老女が座る姿もある。もやしや香草を包んだ生地に塗られた魚醤の独特な香りが漂う。食事前でつい目が行ってしまう。

「おにいさん、ひとつどうかね」

「いや」

 ガリア語で短く返事をして、なにもなかったかのように通り過ぎる。少しでも興味があるそぶりをみせると、片言のガリア語ですぐに捕まえにくる商魂の逞しさはなかなかのものであると、織物商としてこの地に滞在して経験したことであった。

 地方から来たのか、大荷物を荷車に載せた馬を引く者や、牛に背負わせた米を運ぶ者など、牛馬を動力とした流通も盛んであり、土埃の舞う中に鳴き声も混じる。その間を縫って昼食を買いに行きかう労働者と思しき人々。

 溢れる人や物の波を押しのけるように、けたたましいクラクションの音を響かせ、通り過ぎる車。たいていはここを支配するガリアの要人か商人である。その音に驚いた馬をなだめながら進む馬車には、午後の茶会にでも行く途中と思しき金髪の婦人がドレス姿で乗っていた。

 ガリア王国の支配する南領最大の街であるザーディンの街は、商人の街とも呼ばれている。

 西方の列強国と東を結ぶ交通の要所でもあるため、外交、政治、軍事、商売などの目的をもった様々な人種が集まる。

 その中に一人、洋服姿の東方人が歩いていても何の違和感もない場所だった。

 ジェイムズ・リュウ。

 隣国ガリア王国と鎬を削り、世界に支配の手を伸ばす大海洋国家、イングレス王国から来た東方系移民である織物商人。

 それが「今」の彼であった。

 西方の国々は、軍事、交易、外交、あらゆる方面から東方に支配の手をのばしつつある。

 歴史学者からすれば、遠い過去にも同じようなことが繰り返されているのだという。

 かつては世界を繋ぎ、異なる言語を統一した文明があったらしい。

 天に届くほどの塔をつくり、やがては空を超えて外の世界をも目指す程の技術。

 西も東も人が行き交い、人種も民族も越えて情報や文化を共有した時代。

 だが、それも遠い昔に崩れ去ってしまった。

 神話によれば、神の怒りに触れて滅ぼされたのだそうだ。

 猛火の神が、すべてを焼き尽くしたと唱える者もいる。

 歴史学者によると、大戦争により荒廃したことで文明が後退したとのことだ。

 リュウという男からすれば、過去のことなどどうでも良い。

 だが、その過去の文明の遺産が、今の世界を形作っていることは事実であり、争いの種でもある。

 世界各地に残る過去の文明の遺産――書物、建造物、兵器、時には、何で出来ているかも分からない構造体――かつての文明の痕跡を示す、あらゆるものが収集、研究されて復古する。世界の技術はその繰り返しで進歩してきた。

 自動車にいたっては、遠い極東の島国、アシワラ国がかつての一大生産地であったことから、真っ先に復古して利用されている。

 それらを収集するため、強国はより広い範囲で、かつて繁栄した文明の痕跡をかき集めようとしている。その過程で、海を渡り遠い地域を支配下に収めながら。

 歴史は繰り返す、という言葉が太古からある。

 結局時代を経ても、人間というものは変わらないらしい。

 ガリア王国から派遣され、現地支配のために必要な情報をかき集めて動いてきて数年。「リュウ」という名に、何年もかけて馴染んできた青年は皮肉な笑みを微かに浮かべ、とある一角で足を止めた。

「聞いた? 二日ぐらい前のことだけど……」

「例の『腕章』の連中だってねぇ」

 焼け跡が残る、かつては美しいホテルのエントランスであった空間が、無残にもむき出しになっている。それを興味深げに野次馬は集まり、がやがやと騒ぎ声が響く。

 その周りではガリア王国の青い軍服を纏い、銃剣を携えた屈強な男たちが監視として道行く人々へ鋭い眼差しを送っていた。

「なんでも、早朝に突然ホテルに入ってきて人質を取って立てこもったんですって。最後は見境なく爆弾で殺したとか」

「結構死んだらしいわね。とはいっても殆どガリア人でしょう。ならいいわ。働いてた人は気の毒だけど」

「まあね。『腕章』の方は、そのあと囲んでいた軍が全員片付けたって」

「何はともあれ、うちでなくてよかったわ」

 人混みから少し離れた場所で噂話をするふたりのダイヴェト人の女性たちはおそらく、近隣の外国人専用ホテルで働いているのだろう。制服と思しき給仕服は、道を歩く人々よりも良い生地で仕立てられている。

「最近多いのよね。なんか危ない武器でドカン! って」

「そうそう。噂じゃ、北から危ないモノが回ってきてるって話よ」

「いやね。巻き込まれたら怖いわ。――それより……」

 お喋りに興じる二人から離れると、リュウはそのまま歩みを進める。

 地元の老若男女が集まるものは異なり、観光客向けの高級食材で提供される、食事がおいしいと評判の清潔な地元料理があるレストランの入口で、ひとりの男が待っていた。

「ハロー、リュウさん。今日も相変わらず、いい男だね」

「それはどうか知らないが……今日も豆の仕入か? 精が出るな、リー」

 清華帝国訛りのイングレス語で話しかけてきたのは、四十代近い恰幅の良い男。リュウと同じように三つ揃えの背広姿で、熱いのか、しきりに扇であおいでいる。

「それもひと段落ついてね、約束よりちょっと早めに終わったのさ。まあまあ、入ろう」

 リーに促されて門を潜ると、中にはコの字型に囲まれた厨房と、中心にオープンテラスが広がる空間が現れる。仕事の合間に食事をとりに来たと思しき、背広姿の男性客が目立つテーブルの中から、予約してある席に案内されると、ふたりは座り料理を注文する。

「二日前の事件、聞いたかい?」

 そう言うと、リーは鞄から新聞を取り出すと、リュウに渡す。

「結構大きい騒ぎだったな。おかげで予定が狂った」

 受け取ったリュウは、現地に滞在するガリア人向けに書かれた新聞をめくった。

「リュウさんは、つい一週間前まで『北』にいたらしいね。最近物騒だって噂だ。あなたは大丈夫だったみたいだけど」

「この通りな。まあ、『仕事』の方は上手くいかなかったが……」

「お気の毒に。その代り、頼まれたものは持ってきたよ」

 新聞の中に挟まれた一枚の白黒の写真を、瞬時に目を通す。画像は荒いが、目的のモノはしっかりと写っていた。それを確認した男は、僅かに唇の端を釣り上げた。

「それは、助かる」

  御代は、いつもの通りに……と、言いかけたリーは、注文した料理を運んでくる給仕係の姿を見ると、口を閉じた。

「いつも通り、用意するよ。リー」

 新聞を鞄に収めると、何事もなかったかのように料理を受け取った。

 二つの湯気を立てる深い器には、鳥の出汁で作られた透明なスープに浸かった米麺が詰まっている。一緒に添えられた皿には、調味料と生野菜がのせられていた。

「生春巻きもどうだい」

「いや、揚げた方が好きなんだ。チリソースはいいか?」

 リュウは小瓶に入った赤い液体をすすめるが、リーは首を横に振って断る。

「折角だから食べなって。美味しいよ。魚醤の匂いも慣れればイケるもんだ」

「この街に来たばかりのとき、食ったんだ。そうしたら、ライスペーパーに小さい蠅がいくつも挟まってた」

 あれから食べていない、と顔を顰めると、リーは声を上げて笑った。

「それはそれは、残念な店にあたったね。まあ、いつか試してみな。ここはなかなかいいよ」

 もやしや香草を好みの量だけ麺の上に載せると、調味料をかける。最後に柑橘系の実を絞ると、爽やかな風味が加わった。

 リュウは濃い味を好み、チリソースを加えてほんのりと赤いスープとなった。

「うん、いい感じだ」

 リーは麺をすすりながら、納得の味に頷く。

「まあ、な」


 ――醤油が欲しい。

 世界を転々とする仕事に就いてもなお、時折現れる衝動を抑え箸を進める。

 もう、何年口にしていないだろうか。

 そういえば、仕事で国に帰ってきた兄さんも、同じことを言っていた。

 『俺』も、同じぐらいの年になった――


「リュウさん?」

「――あ、いや、なんだ」

 過去に沈んでいた思考を慌てて働かせ、リュウは応じる。

「その、二日前の事件で死んだ『腕章』うちのひとり」リーは清華の言葉でささやく「リュウさんの『ツテ』のひとつだったんだろう?」

 眉一つ動かさず、リュウは麺を呑みこんだ。

「情報が早いな。『上』から聞いたのか」

「写真を回収するついでに、こっちの『ツテ』からの話さ。最近、連絡取ったばかりだったらしいって」

 相変わらずな『同僚』の情報網には舌を巻く。リュウは、小さく息を吐いた。

「尻拭いをさせたな」

 鞄の写真は本来、あの協力者から回収する手筈だった。

 だが、あろうことか潜入先の集団の活動に巻き込まれて、爆破と銃撃の中で「身元不明」の遺体となって、現場の隅に転がっていた。

 想定外の失態だった。

 潜入先で鉄砲玉として扱われるようであったとは。

 その立ち回りの悪さに舌打ちしたい。

 こうならないように、送り込む前にある程度の訓練は積ませていたはずだった。

「まあいいよ。リュウさんには何年も世話になっているしね。……『同郷』のよしみ、ってことで」

 食事を終えると、勘定はリュウが払った。

 店の出口まで歩くと、リーは片手をあげて礼を言った。

「いつもすまないね。そのうち、絹織物の良い話も持ってくるよ」

「その時は頼む。そっちの仕事も忙しいんだ」

 リーは頷くと、背を向けて去っていった。

 その姿が見えなくなるまで見送ったリュウは、一息つくと、逆方向に歩き出した。

 先程受け取った写真の内容を思いだす。

 隠し撮りされたため、画像は荒いものであったが、欲しい情報はあった。

 極東の島国、アシワラ国から輸送される物資が積まれた船。その中には、北領アンナムからアシワラをを経由して密かに運ばれている物資がある。その受け取り主が南領コーチンで活動している『腕章』の組織であることは、協力者を送る前から掴んでいた情報だ。

 問題は、アシワラ国の「誰」が絡んでいるか、であった。

 武器や物資等の供給源を経つため、ガリア王国からリュウ達が送り込まれた。

 そしてようやく掴んだのが、リュウではなく、『同僚』だった。

 写真に写っていた物資のやり取りの瞬間。その中には、背広姿の男に混じり、アシワラ国の軍服――階級章は隠していたが、おそらく陸軍の、上層部――がひとり。


 ――まさか、『俺』が知っている男だったとは。

 故国での、かつての『上官』の姿を確認したときは、思わず吹き出しそうになった。

 あいつに、貸しがひとつできたな。


 本国への連絡を受け、現地の束ね役となって数年。それ以前はリーのように行き交う人々に紛れた影として、様々な情報を掴んでは上に報告していた。

 今は各地の『ツテ』を頼りに動くのみで、自分から現場に赴くことはない。主な仕事は、情報の回収と、『ツテ』である協力者との関係を強固に――あらゆる手段を、用いて――築き、維持し、必要に応じて広げていくことだった。

 以前のような仕事に戻りたい。

 そんなことをつらつらと考えながらホテルの自室に戻ると、リュウは本国への報告をまとめるべく、道具を取り出した。


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