諜報員と、香りの記憶――約束と忘れ形見――

やとう

プロローグ

南国特有の気象、スコールが通り過ぎた後の夜は涼しい。

 雲で見え隠れする、心もとない月の光に照らされた都市の至る所で響く怒号と悲鳴。

 北領の首都として栄えるこの街は、昼間の賑わいが嘘のように人気が失せていた。路上に座り込んだ米麺屋や、天秤棒を担いだ南国フルーツの売り子たちの姿はどこにも見当たらない。

 そんな状況を幾度となく見聞きして歩いてきた青年は、路地裏に入り込んで足を止めた。

「こんな場所を指定して、何のつもりだ。グエン」

 東方の大国、清華帝国の衣服を身に纏った青年。その白い手には、先ほどまでの雨を凌いだ傘が握られていた。

 歳の頃は二十代半ばか、特徴のないどこにでもいそうな顔立ちからは、何の表情も読み取れない。それほど頑丈そうに見えない細い身を包む衣装も――詰襟と紐ボタンで留められた上衣も、ゆったりとした裾の長い下衣も――闇に隠れそうな黒で統一され、影のような存在であった。

 その彼を待っていた南国の男、グエン。小柄な身を包む現地人らしい装い――両脇に深いスリットが入った長い裾から覗く白いズボンは、雨の跳ね返りをうけて泥で汚れていた。

「リュウ、早急に連絡すべき事態が起こった」

 いつもと落ち合う場所も、時間も異なる状況に、南国人らしい日焼けした浅黒い顔がやや緊張しているようにも思える。身体に密着した生地の長袖の腕には、白い腕章が巻かれ、「抵抗者」を意味する現地語が刻まれている。

 白い腕章をつけた人間は、この都市には少なくはない。それは西方の強国、ガリア王国からの侵略への抵抗者を意味していた。

 かつてはダイヴェトと呼ばれたこの南国も、数十年にわたる西方ガリアと東方清華からの侵略と支配を受けて数十年がたった。その中で、武器を取り幾度となく支配者と戦いを繰り広げたのが腕章をもつ人間たちだった。

 ついて来い、と促されるまま背中を追って奥の暗闇へと進んだ。

 月が雲に隠れ、路地裏は薄い暗闇に包まれる。

 途中で傘を持ち直したリュウと呼ばれた青年は、ちらりと背後を一瞥したが、そのまま何も言わなかった。

 大通りから路地裏まで聞こえた、殴打とうめき声。おそらくは、女性のものも含まれていた。

 最近この地域、北領の都では、腕章を持つ人間が夜な夜な都市を練り歩き、西方にかぶれた「怪しい」人間を次々に襲う。そんな輩も珍しくなくなった。たとえそれが、無関係な隣国の住人であっても、連中に区別はないらしい。

「手短に報告しろ」

 相手の顔も見づらい暗闇の中で青年は、流暢なガリアの言語で命令した。

「もう、限界だ」

 同じ言語で搾り出した男の言葉に、リュウは足を止め、周囲を見渡した。

「そうか」

 月が雲から姿を現すと、路地裏にも光が届く。

 リュウを囲む三人の大柄な男も、グエンと同じように腕章をつけ、ナイフをこれ見よがしに振りかざしていた。

 清華帝国が支配する北領は、ガリア支配地の南領に向けて腕章をもつ「抵抗者」を送り込んでいる。ガリアもまた、同様の手を使い、破壊工作や無差別な殺人による独立への「抗議」を両国が支援していることは公然の秘密であった。

「これが、アンタの選択か」

 武器の構えもろくにできない連中。訓練されているとは思えない。そんな三人の男たちの背後から青年を指差し、ダイヴェトの現地語で叫ぶ。

 それに応じて正面の一人が、ナイフを構え突進するも、半歩で身をかわしたリュウの横をすりぬける。

 さらにもう二人が両脇から飛び掛るが、リュウのほうが速い。

 自ら接近して左側の男の腕をつかみ、捻り上げた。そこへ、右側の男の刃が突き刺さる。

 盾にされた男の、動揺と苦痛の呻きを聞きながら、二人まとめて前蹴りで地面に押し飛ばす。

 加えて急所に蹴りを叩き込んだ。

 ――と、背後の気配を感じ、傘を振り向きざまに薙ぐ。

 ナイフを持った手首を打たれ、取り落とした男。その咽喉目掛け、鋭い突きが放たれた。

「さて、どうする?」

 三人の男が地に伏した様を呆然と見ていたグエンは、我に返った。

 喉元に突きつけられた、冷たい金属の感触。

 いつでも容易く貫通できる。酷薄な笑みからは、そんな意思を感じた。

「ま、待て……わかった」

 両手を挙げて降伏した姿を見たリュウは、小さく頷き、傘の先端を外した。

 ――瞬間、側頭部に激しい衝撃を受けた男は、壁に叩き付けられた。

 痛みと衝撃で視界が点滅する中、髪を掴み上げられ、男は目を開けた。

「いいか、俺は連絡役だ。たとえ殺したところで、状況は変わらない。次はアンタの番だ」

 片膝をついた、ガリアから送られた青年が、語りかける。

「だが、働きぶり次第で本国は対応を変えるつもりだ」

 リュウは懐から出したメモを、ゆっくりと読ませる。

「やれるな?」

「これ以上、仲間を売りたくは――」

「逆らうなら、そのときは……」震える男の耳元に、リュウは小さく囁く。「本国にいる、娘が死ぬだけだ」

 グエンの動きが止まった。

 手を離して立ち上がったリュウは、傘を持ち直すと、振り返った。

「精々、上手くやれ」

 倒れたままの男を一瞥すると、もう振り向くこともなく路地裏から出て行った。



 馬鹿な男だ。

 相変わらず暴行の気配が伺える街の闇を歩きながら、青年は思う。

 家族などという、取るに足りないものにとらわれるなど。

 そんなもの自分は、とうの昔に――いいや、過去のことだ。

 青年は再び暗闇に隠れそうな月を仰ぎ、脳裏をよぎった記憶を振り払った。

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