8 怒りをくれよ①
草原の景色がある。
峻厳な北の山脈は、夏でも万年雪をたたえて水色をしていた。青々しい匂いの強い風が吹き下ろすように丘を撫で、木々は軋みをあげながら、地面に垂れた枝葉をお辞儀するように揺らしている。
自分の荒い息が、どんどん大きくなっていく。
ぼんやりした意識の中で、振り返って顔を上げれば、母のいる館(やかた)の屋根がまだ見えるはずだと考えた。
(頭が重い)
風の音と自分の呼気だけが耳に響く。
(顔を上げろ)
ごうごうごう。
風の音がする。
熱い空気が顔を吹き付ける。瞼の薄い皮膚の向こうに、赤い炎が見えた。
燃えている。
ごうごうごうごう。
燃えている。
街が燃えている。
焦げ付いたにおいが、生々しく鼻から胸を汚染した。
眼下に広がる街の光。夜の灯りに紛れ込む火の手と黒煙。
ごうごうごうごう……―――――。
音の中に、自分のものではない高い響きの声がする。
「――――顔を上げろ! サリヴァン! 」
バンッ
背中をしたたかに叩かれた。
衝撃にのけぞった体が、驚きに目を開く。チカチカと光が点滅する暗闇がそこにはあった。
(あれは――――)
肺から絞り出した吐息は鉄の味に湿っている。ゼイゼイと咳交じりの呼吸をしながら、サリヴァンは素早く目の前にある光の粒たちに目を走らせた。
そして、まだ痺れの残る右手の感覚を確かめるように見下ろす。
「……よし。できてる」
「何がヨシ、だ! 血濡れの顔でサ! 」
ジジが呆れて叫び、斜め上からぐるりとサリヴァンの顔を覗き込んだ。
「今、意識飛んでただろ!? 人間が生身で無茶しやがってさ。あれって神の化身仕様になってる術式じゃないの? 調整なら、ボクに言ってくれたら――――」
「お前は後が控えてるだろ」
「それはキミもだろ! 」
「違うって。おれが仕事をやる。前哨戦だ」
サリヴァンが、にやっとすると、ジジの呆れ顔の中に悪戯っぽい呆れ顔が混ざった。
「……まだなんかする気ィ? 」
サリヴァンの手が再び重そうに浮き上がり、空を叩く。光の波紋が広がった。
喉の奥に流れてきた血を飲み下し、目でアルヴィンをかたわらに呼ぶ。
暗闇の中でも目が利くアルヴィンは、かたわらに立ってサリヴァンの顔の穴という穴から血が滲んだあとがあることに、わずかに身をすくませながらも、おっかなびっくり支えるように腕を回して彼の姿勢を助けてやった。
アルヴィンの鎧が触れても、彼を庇護する鍛冶神の炉から生み出された語り部の銅板由来の熱は、サリヴァンを焼かない。
肉体は血のめぐりのある温度で、鍛えられて分厚い。眼鏡の奥、眼球の白い部分を血で濁らせた視線には、まだ強い闘志が宿っている。
脳裏にすこしだけ兄たちの顔がよぎり、アルヴィンは腕の支えを強くした。
「……このままじゃ、首謀者が逃げちまうからな。そんなのはシャクだろ? 」
「ふん」
鼻を鳴らすジジは、腕を組んでサリヴァンのすることを見守ることに決めたようだった。
ほくそ笑みながら、サリヴァンの手は続けて新しい作業を始めている。
「ボクは何をすればいいの」
「これから、」
サリヴァンは、右手で操作を続けながら、肩越しに、軽く曲げた指を頭の上にかざした。
「――――この悪い魔法をかけたやつに、でっかい目印の旗を立てる」
「そこを叩くんだね」
「そう。やり方は任せる」
「わかった」
「よし。じゃ、出てけ。殿下も連れてってくれよ」
サリヴァンはため息とともに言った。
支えたままのアルヴィンの手を借り、サリヴァンは一仕事おえたとばかりに、冷たい井戸の底の石の上に腰を下ろす。うなだれた首の左右で、肩が大きく上下した。
「お前たちが外に出たら、すぐに撃ちあがるようにするから……」
「殿下が心配そうにキミを見てるんだけど、部屋まで送ろうか? 」
「いらねえよ。自分ちだぞ」
「倒れるなら部屋でやんなよ」
「いーっから、早く行けよ! 仕事が終わんねえんだよ」
サリヴァンは追い払うように手を振る。ジジは小言を投げながらも背を向けた。
「後は任せた」
背中越しにかけられた言葉に、ジジがひらりと手を上げた。
(気づかれなかったか)
壁に背を預け、サリヴァンはふたたび目を閉じた。
サリヴァンは知っている。アイリーンがこの井戸を使う時、どんな姿になるのか。何が起こるのか。
(二度はやりたくねえな……)
瞼の裏に、街を見下ろす景色が映る。
それはこの建物の最上階、サリヴァンの自室がある塔の屋根裏の、ちょうど屋根のあたりからの視界だ。
その気になれば、あらゆる物理法則を無視して壁の中や土の下、もっと高い天にあるものすら見ることができる。
それは目で見るのとは違う、万能感のある視界だった。
ジジが暗闇に融け込んでしまうかわりに、アルヴィンの炎がサリヴァンの導(しる)べとなっていた。
天地の縛りが無い二人が、地を蹴って中庭のニワトコの樹の梢に立つと、ちょうど塔の屋根とは直線状の位置になったが、あちらはサリヴァンの存在に気付くそぶりもない。
街を見渡すように首を巡らせている二人をそのままに、サリヴァンは次の場所に意識を飛ばした。
その人の杖は、つくりが他のものとは違うので追いやすい。
アズマシオンは、大通りに多くの城の兵士たちを送り込んだところだった。首をかしげるように顔を上げ、近くにいた兵士の静止も振り切って走り出す。そして灯りの落ちた無人の酒場の扉に飛び込んで、そのまま別のどこかへと消える。
ニワトコの梢ではジジがいらいらと、サリヴァンの『合図』を待っているのがわかる。
(まだだ……あと少し)
サリヴァンの生身のほうの手には、すでにその居場所に繋がる光が握り締められている。
冷たく青い、暗い静かな光だ。
それは路地裏をとろとろと進んでいる。まるで、気ままな散策のように。あるいは、行くあてもなく徘徊するように。
ゆらゆらと細道を、ときには敷地の境を跨ぎながら。
このままふっと消えてしまいそうな光の粒を握り締めながら、サリヴァンはその時を待った。
シオンが、ジジが、アルヴィンの目が、矢のように放たれた光のすじの軌道をとらえる。
◇
「目的を忘れてはなりませんぞ」
「わかっていますとも。……これで程度は知れました」
『魔術師』はほくそ笑む。そのときだった。
「――――イシス! 」
『魔術師』は、おもむろに顔を照らした白い光に、石畳を強く蹴り上げて後ずさった。
獣のように四肢をつけて飛びずさった頭からは、フードが脱げて、その刺青に覆われた肌が露出する。
空から降り注いだ青い炎の帯に分断されるかたちで、隘路の先に『羽帽子の男』がある。
「おやおやおや……これは存外なゲストまでいるじゃアない」
「『愚者』の……! 」
路地にひきつるような笑い声が響く。その主は姿を現さないかわりに、天から流星のように赤い魔人が熱風をまとって飛来した。
隘路を昼間のように照らしながら、その魔人は駆け出した魔術師の行く手に炎を投げて追い込んでいく。
瞳に怒りを湛える少女の肌の上。そこを覆いつくす刺青が、無数の小虫のように蠢いた。
羽帽子の男は何をするでもなく立ち尽くし、じっと地面に走る青い炎を見つめていた。
いびつに歪曲した路の先で、どこかの扉の蝶番が、ギィ、と錆びついた音を立てる。
はじめて男はおもむろに顔を上げ、白濁した目で、闇の先を見つめた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
よっつ、いつつ、むっつ――――。
「やあやあ! これは皆さん、おそろいで―――――」
『愚者』の楽し気な声が響く。
『愚者(ジジ)』『星(アルヴィン)』『隠者(シオン)』。
『教皇(グウィン)』『女帝(ヴェロニカ)』。
――――『
その目にあるのは、憤怒、憎悪、嫌悪、疑問、忠義、好奇心。
羽帽子の男は、「ほう」と短く口にすると、鬱蒼と茂った髭の下で裂けるように笑った。
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