終節【銀雲の魔人】

8 Ghost rule

 

 それは三十年近くも前の、春の終わり、夏の始まりのころのこと。


 国の北中部に位置する、クロワ伯爵治めるマリア領は、ミネルヴァ領と隣接した緑の山岳地帯が続く、穏やかな田舎町だった。

 社交シーズンの開幕となるズュギア六月の初日に、野生馬が多く生息するマリア領では恒例の競馬大会が行われる。

 その開催より一月早いメリクリウス五月のはじめ、学院の貴族学生は成績優秀者から順に、夏の社交界のため、約二か月と半年の長期休暇へと入るのだ。


 王子であるエドワルドとオズワルドは、二つ違いの兄弟だった。学院に所属する十七歳と十五歳であり、オズワルドも昨年社交界へデビューを果たし、準成年となっている。


「遅いぞ、オズ」

「待ってくれよ兄上」


 ぽっちゃりとしたオズワルド王子は息を切らせながら、待ちきれないというような笑顔の兄を追いかけた。

 初夏の丘は緑色の海原のように波打ち、爽やかな風が吹き、雲が遠く海原の端に落ちていくところも見える。

 いつしか景色に見入った二人は、ゆっくりと緑の丘を登りながら、肩を並べて放牧された羊や羊飼いらしき粒を眺めた。


 丘の上には牧場と、隣接した領主の別邸がある。領地の産業として、畜産業が根付いているあかしだった。


「ようこそおいでくださいました。お疲れではありませんか? 」

「風が気持ちよかった。景色も素晴らしかったよ」

「ああ。歩いて正解だった」


 領主と家令に出迎えを受け、一階の応接室に通される。丘に面した大きな窓があり、そのまま広い庭へと出られるようになっていた。遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえる。

 テーブルの用意ができるまで、領主に導かれて窓辺に立つと、葦毛の馬と、手綱を引く壮年の男と、引かれる馬にまたがる幼い少女の姿があった。


「伯爵家では、歩くより先に馬に乗れるようになるという話は、ほんとうのようですね」


 弟王子オズワルドが、驚いたように言う。

 伯爵は嬉しそうに口髭で縁どられた顔をほころばせた。


「ミリアムは馬が好きなようで、馬もそれが分かるのか、まだ五歳のあの子を大人しく乗せてくれるのです。まだ一人ではあぶみに足が届かないので乗せられませんが、ああしてゆっくり歩くだけなら、危なげなく乗っておられます」


「ともにいる方が? 」


「そうです。我が叔父のアーロン。クロワ子爵です。叔父夫婦は子を亡くしてからというもの、ずいぶん塞いでいたのですが、ミリアムを養女にいただいてからはあの通りで……。親族一同、あの子にはとても感謝しています」


 少女は「おとうさまもいっしょに乗って! 」と、体を揺らしてねだっている。ゆっくり歩くだけでは物足りなくなったらしい。

 振り向いたクロワ子爵と視線が合い、エドワルド王子が頷いてうながした。



「ようし、じゃあミイ。庭をぐるっとしよう」

「やったわよホリー! 」


 子爵が娘と相乗りして、軽く走り出す。

 姿をよく見せるためだろう。窓の近くを何度も通り、「手を振って」と子爵にうながされたミリアムは、無邪気な笑顔でこちらに小さな腕を振った。


 まだ五つになったばかりの彼女は、伯爵とともにいる少年たちを、王子だなんて、ましてや父親違いの兄だなんて、認識してはいないだろう。


 兄と名乗り出ることはできない。それは、母と名乗り出ることができない王と同じだった。

 しかしこの時期ならば、シーズン前に馬を見にやってきたという言い訳ができる。

 王宮に残る母は、王子たちのその目で、娘の幸福を確認することを望んだ。今日は、そのための会だった。


 王子たちには、このシーズンが終わればすぐ、また王族として、学生として、役割をこなす日々がやってくる。

 エドワルドは来年の成年の準備もあり、オズワルドは秋に留学を控えていた。

 準成人となった王子たちは、すでにそれぞれ離宮を与えられ、会食以外で食卓をともにすることも少ない。帰り道に乗る馬車も別だ。



 王子は、きょうだい二人きり、子供部屋で遊んでいたころが甘く遠く過ぎたことを、耳に残る少女の声とともに噛みしめていた。


 ―――――もう、三十年近くも昔の話である。



 ◇



 それは二十二年前の春。陽王の代替わりが近いとされたときのこと。



「――――兄上が他国のものと通じてるって? 」


 オズワルドが「ばかばかしい」と吐き捨てたことで、忠言してきた側近の顔が強張った。


「しかし殿下――――」

「母上が長くないから、そんなに兄上と私で王位を争わせたいのか? 私は兄上の臣下として働くことを心から願っているのだ。戴冠を控える王太子として、国外に目を向けるのは当然ではないか」


 オズワルドは「まったく、このような忙しいときに」と側近を追い返す。

 ただひとりの母親に迫る死を悲しむ暇もなく、葬儀と戴冠式の打ち合わせに追われる息子に対し、あまりにも配慮に欠けていると憤った。



 ◇




 それは二十一年前の夏の終わり。霧とともに冷たい風が吹くころのこと。


 母である陽王は一度持ち直し、一年、ベッドと執務室を往復するような体調を続け、ついに倒れた。


 そんな中、オズワルドは、次期陽王である王太子エドワルドの立てた政策方針に異を唱えるため、対抗する貴族とともに旗を立てる選択をした。


 ――――のちにラブリュス防衛線と呼ばれる内戦である。



 オズワルドにとってのこの一年間は、十年ほどにも感じる長い一年であった。

 いつしかエドワルドの心は変わっていた。上層世界の豊かな文化への憧れと、貪欲なまでに利益を飲み込もうと干渉してくるやり方に、憎愛を募らせ、過去の陽王が拒んだ方法で、この国を変えようとしていた。

 ――――他国への侵略である。


 下層世界の情勢は不安定だ。鎖国することで参戦をまぬがれたこの国と違い、半世紀近く前の第三次世界大戦に巻き込まれた中層部の諸外国は、上層国の干渉を受けたままの国も多く、文化的な発展も遅れている。

 内乱も多く、直接する第17海層では、王家がクーデターで廃されて十年以上が経っているというのに、旧王家の復興を望む一派とで、いまだに争っている。


 エドワルドはそんな国々に魔術具と魔術師を派遣し、国内平定の助力という名分で、武器商人を始めようとしていた。

 その果てに目指すものは、下層世界の統一である。


 たしかに、上層国は脅威である。下層世界の統一を果たせば、その力は強固となるだろう。

 現状ならば、まだ魔術の衰退は諸外国には分からない。おそらく明確に目に見える形で困るのは、これから百年後あたりだ。

 それまでに……具体的にはエドワルド王治世の時代に統一を果たすことができるのならば、不可能ではない。

 これは愛国心からの慢心ではなく、魔術を使えない人間というのは、それほどまでに弱弱しいのだ。



 ――――しかしそれは、現状維持を望むオズワルドの思想では、けっして受け入れられるものではない。


 オズワルドは、エドワルドの心の内に気づかなかった自分を恥じた。

 側近たちは、王位が揺るぎないものになったらこそ、胸に秘めていた計画を明かし、エドワルドは動き出したのだと言う。


 エドワルドには求心力がある。美貌、教養、頭脳、自信。そのすべてを持つものにしかない力があった。


 オズワルドもまた、エドワルドのカリスマに心酔していた一人だ。


 止める母はもういない。兄を諌めるべき側近たちは、半数が残り、半数は離反した。

 止めるには、それだけの権力がある派閥を作らねばならない。もはやオズワルドは、中立などという立場ではいられなかった。



 旗を立てる場所にラブリュスを選んだのは、城塞都市として建設されているということ。

 中立という立場のミネルヴァ領を取り込むことができれば、大きな力となるということ。

 季節は夏の社交界の終わりと農繁期のはじまりで、学院内に学生は少ないことからだった。


 オズワルドをはじめ、配下たちに戦争の経験はない。この国はずっと平和だったからだ。

 城に残った学生たちは、予想外に、反乱軍とされたオズワルドたちを拒み、応戦した。

 学院は中立であり、学内では政治的な立場も関係ないという学生たちの聖域としての役割を、オズワルドが軽く見すぎていた結果だった。


 学内にはミリアムもいた。その婚約者であるサマンサ領主もいた。学生たちは籠城しながらよく戦い、彼らにしかできない方法で、子供たちの聖域を守り抜いた。


 失意の中で撤退を余儀なくされたオズワルド率いる反乱軍は、やってきたエドワルド率いる王都騎士団に、あっけなく鎮圧された。

 誰もかれもが、戦い方を知らなかったのだ。いくらでも悪辣な手は思い浮かんでも、それをする一歩がオズワルドには踏み出せなかった。


 甘かったのだ。




 似合わぬ鎧を着てうなだれる弟を、馬上から見下ろすエドワルドには、勝者である以上の輝きがあった。

 彼こそが王だという、畏怖すべきオーラ。

 なびく黄金の髪、知恵を宿した青紫の瞳、精悍な顔立ち、日に焼けた逞しい体。

 どれも太った小男であるオズワルドには無いもの。

 反乱軍は、変化におびえる子ネズミの群れでしかない。


 ――――僕らでは止められない。


 そんな惨めさが、あの一矢を放ったのだろうか。


 魔術で放たれた一本のその矢が、すべてを変えた。

 馬がいななく。棹立ちになった馬上から、滑り落ちた兄の上に振り下ろされた蹄は、二度、三度とその体を嬲った。


 オズワルドは兄に向って走り出した。


「オズッ! だめだ! 逃げろ! 」


 そのとき確かに、二人は敵対者ではなく兄弟だった。



 ◇




「居眠りかい? 疲れているようだ」

「……ああ。しばらく眠れていなくてね」


 目を開けた陽王は、温室の長椅子から立ち上がった。

 王宮関係者からは『ジュエリーボックス』の異名で知られる薔薇園は、つねに初夏の気温に保たれている。

 ため息とともに、王弟オズワルドは兄を見上げる。


「今日はどんなことがあったんだい? 」

「代り映えしないさ」

「そんなことはないだろう。まったく同じ日は存在しない」


 エドワルドは皮肉気に笑って、鋏とじょうろを手に取ったオズワルドと入れ替わるようにして長椅子に座った。



「『リトル・ヴァイオレット』はどうだい? よく育っているのかな」


 オズワルドは手を止め、背を向けたまま首を振る。


「まだ手を入れたいところだね。未熟なつぼみさ。どう育つかは、われわれの手に掛かっているといえる」

「あなたの力になるだろうか」

「わたしの力ではなく、この国の力になってもらわねば」

「あなたの力になる者も必要ではないかな? 」


 陽王は、自分と同じ色をした目を見つめ返した。髪と瞳の色以外の共通点を持たない兄弟は、いつもどおり、美貌と自信で輝きに満ちた兄から、まぶしそうに眼をそらした弟のほうが項垂れることで視線を途切れさせた。

 兄はにっこりと弟を見つめている。


「きみがいる」

「……わたしは死者だよ」

「分かっている。でも、もうしばらく私のもとにいておくれ。……もうしばらくだけでいいから」

「よくない事なんだ」

「わかっているんだ。けれど……王というものは、一度飛び立てば、最後まで飛び続けなければならない。陽王わたしには、おまえが必要だよ」

「私は二十年前に死んでいるはずだろう? ここにいたらいけないんだ」

「二十一年前だよ」

「そう、もうずいぶん経った。もういいだろう」



「オズワルドは死んだんだ。頼むよ、兄上」と、オズワルドは困ったように微笑んだ。

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