3-4 Lost Boy


 娘が生まれたのは、空がいっそう赤い日だった。

 フレイヤ号は、難民たちの拠点として機能していた。

 エリカらが暮らしていた時代は、科学の魔術の黄金期だった。管理さえすれば五十年使えるエネルギー機関も、それを管理するための疑似的な魂の製造法すら確立されている。

 そして知識と知恵と感情を持つ人工知能は、エリカたちよりも人体について知り尽くしていた。

 重い身体をぎりぎりまで使って、頼もしい助手たちを得たエリカは、必要な準備を最低限整えることができた。


 もはやこの出産は、計画の中にいくつかある関門の一つにすぎない。

 ガラスの容器に入った液体。時空蛇の協力を得て、可能になった多くのものの一つがこれだった。

 エリカ・クロックフォードは、兵士である前に魔術師で、科学に触れた人間だ。奇跡の仕組みを解剖してその身に取り込むことに、ためらいや畏れはあっても、必要なら踏み出せる。


『混沌の泥』は、かつてこの世を創った素材で、この世界を流れる血そのものだ。すべての神々はそこから生まれ、すべての命の素材になった。

 アイリーン・クロックフォードは時空蛇が手ずから『泥』から製造した人間で、その娘であるエリカの肉体は、この『泥』と『適応』する可能性が高い。


 そしてそれは、エリカの腹にいる命にも当てはまる理論だ。

 この世界は、あまりにも赤ん坊の育成に厳しい。産まれてきてから『泥』を摂取するのと、母体を通して摂取するのでは、後者のほうが実行の価値がある。


 研究室内はひんやりとしている。

 緑色のライトがガラス容器を照らしていたが、中身の液体は光を通さない漆黒。

 鈍色のテーブルに両手をついて吐息を漏らす。

 睨み上げた薬は、見つめ続けても蒸発するわけではない。

 娘が人間として生まれて来ることを望んだ母は、この世界のどこにもいない。


(生涯最大の反抗ね)

 嚥下した52㏄の味は、よく覚えていない。



 ✡



 猫のように首を持って持ち上げようとした手から娘を取り上げたエリカが、「一年あなたは触らないで」と睨みつけた。それが一年前の話。

 たとえば、剣を握る力で人の手を握れば痛いだろうとわかるし、赤ん坊を抱くようにゴミ箱を抱えたりはしない。

 アイリーンはパン作りが下手だったが、赤ん坊を抱くことはできた。

 人という生き物は、そういう事を成長のあいだに学んでいくのだなと、エリカはしみじみ思う。

 それが今、おもむろにエリカに向かって両手を出す時空蛇は、「わたしの孫だろう」とふんぞり返っている。

 ずいぶん表情豊かになった神様に、エリカは「あなたの孫になるのは三千年後よ」と返した。


 ブリッジで未来の母娘が睨み合う。

 『まもなく目的地に到着します』と、フレイヤ号がアナウンスした。


 この一年で、フレイヤ号の乗組員の桁がひとつ変わっていた。

 なんらかの機械トラブルの修繕は時空蛇。日に日に増えていく難民たちを纏める仕事は、アリスが受け持っている。

 他人を使うことに特化している彼女に、心も体も弱っている人々を任せることは後々おそろしいことになる予感はあったが、彼女の能力なしにこの迷子の集団を纏め上げることは不可能でもあった。


 この棺桶のような艦が見下ろすのは海だ。

 波が消えた広い海原は、漆黒の平らな大地のようだった。水平線に雲と白波が立ち、今日もまた世界の一部が切り分けられる。

 凪いだ海に反し、大地は荒れていた。

 絶え間ない地震で、多くの山が砂でできたように崩れた。大地が何度も切り分けられ、大陸が島になったり、海から掘り返された土で大陸が生まれる。

 これが神話で知る『混沌の夜』での、海層編成である。


 神々の戦乱は勢いを増し、冥界は、人類を擁護した光の神々を閉じ込めるための監獄になったという。

 光を司る太陽と月と炎と星は、すべての地上の命の味方だった。星がそちらへ付けば、末裔たる竜も擁護側につく。精霊のたぐいも同じくだ。植物や酒、芸術などの神々もそちら側だった。愛の女神などは傍観者を気取っているという。海の神々は割れた。発端であるアトラス神は、海洋神であったからだ。


 生き残りの人類を庇護する魔女の箱舟の話は、大地にしがみつくようにして生きる命たちの口で広まり、神々も知るところになっていた。

 しぜん、一行のもとにも光の神々に準じる存在の使いが顕れ、協力を得ることができた。時には同行する時空蛇の存在が、膝を折らせたこともある。状況の悪化に、神のほうから逆に庇護を求められたこともあった。


「戦うべきです」

 風の神が言う。

 神々の王は天空神であるが、旅の神の助力を得られたことで、風の女神とその夫が仲間に加わっていた。

 風の女神は、穀物の豊穣と死病を運び込む女神で、夫の間に死病の権能を受け継いだ息子を持つ。

 旅の神もまた、冥界の淵で魂を導く道祖神である。光の神々を冥界の監獄から救い出す手は、すでに揃っていた。


 フレイヤ号の船首に設けられた会合の場だった。空がのぞく半球の窓からは、黒く渦巻く空がのぞく。

 魔術で拡張された空間に誂えられたその会議室には、巨大な輪になった円卓が置かれ、外周にそれぞれの代表が座して満員であった。

 アリスは人類の代表として。エリカはこの船の責任者として同席し、輪の中心には時空蛇だけが、始祖としての特別な席を与えられていた。


「いいえ、武力は最低限です。我々が行いたいのは、戦争ではなく政治なのです。『誰が強いか』ではなく『何に価値があるか』を示したい。人類の代表として申し上げます。そうなれば遅かれ早かれ、人類は血を流しきるでしょう」

「対話をもって事態を解決させると? 夢物語をいう」

 風の女神の夫は、暴風の男神である。

「いいえ。状況を変えるのです。そのためには今血を流すわけにはいきません。勇猛(ゆうもう)たる秩序の北風の御方様、時を待つのです。光の神々は秘密裏にお救いするべきなのです」

「しかし、ここにいるもの共(ども)の伝手を手繰っても、冥界においてはやつらの庭。冥界には入れようが、深く光の神々がいる監獄までは扉をくぐることすら叶うまい」

「手はすでに打ってありますわ、いと尊(とうと)き導(みちびき)き手(て)様。……おいで」


 アリスが手で示し、エリカは立ち上がって、懐から取り出したものに呪文を唱えた。


「……冥界ならば、死人を送り込みましょう」

 眼が開いた。

 灯る色は冥界の炎の青ではなく、混沌の泥が放つ黄金が二対。

 瞬きの下から顕れた黄金の瞳が、母親の顔を見返す。アリスは薄い微笑みでそれに応え、前へ出るようにその童子に示した。

 血の気のない肌をした子供は、膝を折って礼の姿勢を保つ。

「息子です。我が胎(はら)から正しく産まれ死した嬰児の遺骸を材料に、再びこうして姿を得ました」

「魔術で作った人形か! 」

「いいえ。そこのエリカが、時空蛇様の御協力のもと得た『混沌の泥』に浸し謹製(きんせい)した、人工的な半神もどきであり、同時に正しく命なき存在。我々は『意志ある魔法』と呼んでおります。冥界へ堕ちても再び死することはなく、魔法であるがために姿を変え、影と闇に潜み、冥界の神々を欺くことができる」


 会議の場は静まり返っていたが、反論の声がないことが、可決の意味を持っていた。

 アリスは朗々と締めくくる。


「息子の名は『ジジ』。どうかこの子に、誉(ほま)れ高いお役目をお与えくださいませ」


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