1-4 ヒース・エリカ・クロックフォード
声を上げるヒースは、ジジの眼にはどう映っているのだろう。
握りしめた小さな手と、前髪のかかる額をジジの指先が撫でる。視界に蓋をしていた体が離れていくと、その後ろにあるものがようやく見えた。
薄闇に包まれる部屋だった。
しかしフェルヴィンのあの部屋ではない。
洗練されていない無骨な大テーブル。放り出された木彫りのコップの数からして、小さなこの体が収まっているのは、食器棚かどこからしい。足元に敷かれた絨毯は擦り切れている。家具の少ない、がらんとした部屋だった。
「扉は締めないでおくよ。そうしたら誰かが見つけてくれる」
ジジもまた、先ほどとは明らかに違う。まるで昔の貴族の子息のような恰好だった。黒髪は乱れているものの、ほつれのない白い衣裳には清潔感がある。
どこからか、地鳴りのような音がする。それに重なって雄叫びのようなものも。
ジジは確かめるように耳を澄ませ、大きく深呼吸をする。その何かに耐えるように伏せた瞳から、ぽろりと涙が一粒こぼれた。
「……あんまり、見ないで」
ジジは、自分を抱きしめるようにしてうずくまる。
金の眼が闇に溶けて見えなくなる。月明かりに伸びた影が膨れ上がった。
肩が盛り上がり、関節が奇妙に捻じ曲がる。
脚もまたねじ曲がりながら長大に膨れ、踏みしめた下肢で絨毯とその下の石畳が、引き裂かれて砕かれた。裂け目のように顎が割れ、開いた口には舌がない。するどい銀の歯がガチガチと鳴らされる。
額にもまた切れ目ができる。血の糸を引いて現れたのは、巨大な黄金の瞳。
黒い肌にはぬめるような艶があり、体毛はない。月明かりに、渦巻くような文様が全身に浮かび上がって見えた。
振り切るように獣は走り出す。
(―――待って!)
ツンと目の奥が痛む。視界がにじんでドロリと溶ける。
次の瞬間には、ヒースはどことも知れない廊下を疾走していた。
額にある半球型の一つ眼は、視界としてはあまり機能性がいいとはいえない。ジジの感覚は分離した黒霧からの触覚や、微細な音の振動、匂いなどだった。
通路の向こうに武装した男らしき影が見える。失速する気はないようだった。黒霧の脚は音を立てずに闇から飛び出し、篝火をかかげた男の首をすれ違いざまに葡萄の粒のようにもぎ取った。
斥候の後ろには、次々と兵が控えていた。
そのひとつひとつを、丁寧に、しっかりと、ジジは狩り取っていく。
拡散した黒霧は毒になる。呼吸からその肉体に入り込み、血管を巡って破裂させていく。それにすらジジは指先で触れるのと同じ感触を持っているのだと、ヒースは知った。
血に触れるたび、ジジの中に疲労とは異なる、何か悪いものが溜まっていくのが分かる。
その感覚は、酩酊していくようすに似ている。それもとびきりの悪酔いだ。
このジジは、“守らなくては”と思っている。
一途に、頑なに。
そのためならば、自分の事はどうなってもいいのだと―――――。
前後不覚になって、獣のジジはついに倒れた。
雑兵が雄たけびを上げて群がる。たちまち手負いの虫に群がる蟻のように槍を持ち、こん棒を持ち、弓を捨て矢を手に山となった。
恐怖が憎悪に変わり、殺意が兵たちをけだものにする。もがく獣が薙ぎ払っても、仲間の屍を踏んで新しい兵が群がる。
黒髪が視界の端にちらついた。
いつしかヒースは、その惨劇を少し離れたところから見つめていた。
女だ。兵たちを率いる立場にいるらしく、将校だろうか。身分の高そうな髭面の男を従えている。
「――――もうよい」
威厳ある声は意外にも若い張りがあったが、ひどく冷たいものだった。
「厄災をもたらした獣は死に、領地は取り戻した。ひと刺しでも武器に血を吸わせたものには褒美を取らせよ。宴を開き、兵に慰安を与えるのだ」
「はい。仰せの通りに」
「獣の屍はわたくしの元へ運べ」
黒髪の女戦士は具足を鳴らしながら踵を返す。
広大な平原が目の前に広がっていた。荒野にはまばらに、這うような低木が枝を広げている。房になった小さな紫や黄色の花が、彼女のなめし皮のブーツを撫でた。
空には黒々とした雲が厚くかかっている。
湿った冷たい風が、女の唇にできた割れた傷を広げる無数の針のように吹きつけた。
女は陣地の自分の天幕に入ると、じっと闇を睨みつけるようにして待った。
やがて、幾重もの布に包まれた屍が運ばれてくると、ようやく立ち上がって人払いをした。
一人きり、女戦士は手袋を外して血のにじむ包みに触れる。一度の瞬きののち顔を上げた女は、その袖口から杖を取り出し、頭上に銀色の光を投げた。
血臭のこもる天幕から、見覚えのある場所へ。
遠くから宴の歓声が聞こえる。
開けはなたれたままの扉からするりと踏み込んだ女は、使用人の食堂にでも使われていたのであろうその場所を見渡した。
暖炉のかわりに竈にとろ火がかかり、湯を張った鍋がかかっている。湯気が部屋を暖めていた。
テーブルに散らばったコップ。作り付けの無骨な食器棚に、すやすやと眠る黒髪の赤ん坊を見つける。
女は、肩にかけていたマントを脱ぎ捨てると、それで赤ん坊を包んで抱えた。
再び杖を取り出して、天幕へと跳ぶ。
血の臭気はよりいっそうと強く漂っていた。泣き出す赤ん坊を抱え、こんどは屍も共に女は移動をする。
こんどは荒野の只中だった。冷たい風にさらされ、赤子はよりいっそう泣き叫んでいる。遠くに陣営の明かりと煙が見えていた。
濡れた土にかまわず女は屍の前に跪いて、その冷たいものへ手のひらを当て、呪文を呟いた。
「……ジジ」
それはもはや肉塊である。
あらゆる手をもって
赤子の鳴き声がきんきんと響いている。
風が女の体を無情に舐める。血は乾く端からにじみ、新しい地面を汚しつつある。
ずいぶん時間がかかった。這い出るようにしてジジが布の下から起き上がると、女は赤子を抱いたまま片手でてきぱきと纏わりつく血濡れの布を剥がし、その身体を拭い、張り付いた髪をよけて顔を覗き込む。その腕に縋りついて、ジジは深く細い息を吐きだした。
「ジジ……ジジ……ッよく、よくやりました……!」
「母さん……あの子は無事に」
「ええ、声が聞こえるでしょう。元気にしています。さあ、服を」
ジジを粗末な服に着替させ、女は立ち上がった。
杖を振る。こんどはまったく知らない、どこかの宿のような場所だった。粗末だけれど清潔なベッドの上に、旅の道具が揃っている。
その身体にもたれて運ばれたジジは、ベッドの上の道具を掻き集めながら問う。
「……その子はどうするの? 」
「死んだことにします。いまの時代では、この子は争いの種になるだけ。養育するのは先の世に任せ、眠らせましょう」
「ボクのこと、覚えちゃいないだろうね」
「あなたもわたしも長く生きるわ。そうではないのはこの子だけ。準備はできた? ここもしばらくすれば追手がつくわ」
「……また会える? 」
いつしか、ヒースはまた赤ん坊の中へと戻っていた。微笑む女の顔を下から見つめている。
微睡みはじめた赤ん坊の耳に、別れを惜しむ母子のやり取りが聴こえる。
夢うつつに、冷たい悲しみがヒースの胸を満たしていた。
――――ああ、どうしてああなってしまったんだろう。
「さあ行って。あなたはもう――――――」
女の言葉の語尾がぐにゃりと歪む。
それに被さるようにして、別の声が言った。
「あんまり過去を見すぎると、元の場所へ帰れなくなるわよ」
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