15-1 絶望の紅い花①
夢うつつの中で、アルヴィンは繰り返し「どうか逃げてくれ」と叫んでいた。
世界は真っ赤に
脳が暴れ馬に縛り付けられたように揺れ、分厚い無音の壁の向こうから、ピリピリとした音の波を触覚で認識している。
痛みなどの感覚も、ある時から焼き切れたように何もなくなって、それが堪らなく恐ろしい。
ヒューゴに見せてもらった映画というものに似ていると、アルヴィンは思った。
冒険家の男が遠い異国の娘と出会い、困難をともに乗り越えるうちに、恋に落ちる。—————そんな使い古された物語の映画に、ひどく感動したことを思い出す。
断崖絶壁に追い詰められた男が、足を滑らせた娘に必死で手を伸ばすときの、張り詰めた声、激しい吐息の音。
娘が涙を潤ませながらも、意志の強い瞳で男を睨み、迫る強敵に背を向けている男を叱咤する。
男は、強敵の打倒と、娘の救出、それぞれを完璧にやり遂げて生還してみせ、最後は、燃え盛るような暁に照らされながら、恋人たちが情熱的に抱擁する姿を映して終わる。
手に汗握る冒険活劇だが、男と娘の危機は、目の前にあってもアルヴィンの命を脅かすものではなかった。
これはその感覚に似ている。
痛みと共に、恐怖も焼き切れていくのが分かるから、それがさらに恐ろしい。
やがて何も分からなくなるときが近い。だから、叫ぶ。迸る恐怖を、まだ自分はここにいるという証明を、叫んで、叫んで、叫び―――――ふと、すべてが途切れた。
ぷつん、と。
黒い深い穴に落ちていくように。
と、同時に、自我が戻ってきた。
それは何よりも残酷な仕打ちだった。
闇は、ほとんど失っていた恐怖を何倍にも膨らませて、すべてアルヴィンに押し付けてきた。今まで自分がしてきたこと、どんな有り様で、どんなふうに、自らの生まれ育った国で暴れまわったか。
どんな原因があったとしても、現実の争いは嫌いだった。
暴力には、吐くほどの嫌悪感がある。
そんな自分が、今しがたまで何をしていたのか。
(こんなのは
――———自分は、いちばんなりたくなかった
アルヴィン・アトラスの心は崩れ落ちた。自分がなぜこの世に蘇ることを選んだのかも忘れて、身に潜む恐怖に屈服した。
アルヴィンは、闇を落ちていく。自ら望んで、意識を閉じていく。
この体には、もはや、涙を流す機能は残っていなかった。
ミケは、ジジが去った星の海で物思いに耽っていた。
静かで寂しい星の海は、あまりにたやすくミケの思考を奪うと、もう知っている。ミケは、いや語り部は、生まれたときから主に仕えているので、孤独というものには免疫が無かった。自分はおそらく歴代でもっとも一人ぼっちに耐えることになる語り部だろうと、ミケは少し微笑んだ。
ミケは、皇帝に「アルヴィンを救え」と命じられて牢屋を飛び出したとき、まず主であるアルヴィンのもとに帰ろうと考えた。
主であるアルヴィンのことは、語り部であるミケには離れていても把握している。しかしこの混乱した頭には、まずは二日ぶりに最愛の主人の顔を見て安心することが必要だと本能的に判断したのだ。
黒い霞のようになって暗がりを進みだしたミケに『待った』をかけたのは、同じ語り部の兄弟であるトゥルーズから頭の中に届けられた声だった。
『ミケ、どこに行くの? 』
こんな時でも、トゥルーズはのんびりとしたトーンだった。
ミケにとってトゥルーズは、彼の主であるヒューゴ皇子が弟のアルヴィンにそうであるように、親切で優しい兄貴分だった。トゥルーズは、今稼働している語り部の中ではダッチェスの次に年長なので、見た目や態度よりもずっと経験豊かなのである。
『ダッチェスが君に教えろって』
『何を? 』
『船への行き方。魔女がきっと助けてくれるからね』
『魔女?』
『これは秘密なんだよ? 本当は皇帝の語り部しか教わらないんだから。でも、ダッチェスはミケになら良いって言ったんだ。よかったね』
ミケには、トゥルーズの言っていることがさっぱりだった。
『トゥルーズ! わ、わたしを、これ以上混乱させないでください! 』
『? どうして混乱するんだい。……ああ、そうか。うん。ミケはちょっと
……ねえミケ、落ち着くんだよ。そうして思い出すんだ。キミは人じゃあないんだ。語り部なんだって。王様が死んだのは、きみのせいじゃあない。大丈夫。きみはまだ消えたりしないよ』
ミケは落ち着くどころか、訳もなく喚き散らしたくなった。
皇帝レイバーンが毒杯を飲み干したのは、ミケの軽率な行動のせいだ。ミケが邪魔をしてしまったから、皇帝はグラスを飲み干すことを選んだのだ。
『……落ち着くんだ』
トゥルーズが静かに言う。まるで知らない男のように、低く落ち着いた声で。
『ミケ。地下へ向かうんだ。『船』に行くんだよ。きっとなんとかなるさ。魔女が助けてくれるから』
『わ、わたし……わたし……』
『こんな冒険は語り部らしくないけど、もともとミケは語り部らしくないものね。仕方ないのかもしれないね。おれにはきみの気持ちは分からないけれど、ねえ、ミケ。おれの前の主のオーガスタスは、幸せだったと思う? 』
『な、なぜ、いまそんな話を』
『どうだろうか。おれは、彼は幸せに死んでいったと信じてるし、そういうふうに書き上げたつもりだ。きみは、どう思う? 』
『それは……』
ミケは、黙った。
黙って、考えた。
『……無能王オーガスタスは、悲劇の皇帝でした。姉ユリアに執着され、幼少のころから洗脳といっていい愛情を向けられ、ついには飾りの皇帝として城の地下に監禁された。その最期は、最愛のユリア姫がすでにこの世にいないことも知らされず、処刑台に立つことに。……どうしてそんな人が幸せだったと言えるのでしょうか』
『オーガスタスは、ユリアがいたときは紛れもなく幸せだったよ』
静かな声のまま、トゥルーズは言った。
『オーガスタスが不幸だったのは、ユリアが傍にいないときだけだった。泣くのも怒るのも、ユリアがいたら笑顔に変わった。ユリアがいるときのオーガスタスは、ふつうの人の何倍も幸せを感じていたんだ。
ユリアは頭がおかしかったけれど、とても賢かった。彼はそれを分かってた。
ユリアはオーガスタス以外は要らなかったんだ。オーガスタスには、自分だけを知ってほしかった。
オーガスタスも、そんなユリアを愛していたから彼女が望むままに『ユリアだけのオーガスタス』になった。そうすると、ユリアはオーガスタスのために、『偽りの女帝』として国を平穏に保つように働いた。
オーガスタスは、頭がおかしくなりかけていたけど、最後までユリアのためになることを考えてた。
ユリアは、オーガスタスを王にしないために目に油をかけたんだ。自分が嫁ぎたくなくて、弟の目を潰した頭のおかしい女になりたかったんだ。
オーガスタスは、皇帝になりたくなくて地下に逃げたんだ。でも同時に、ユリアがそれを望んだから、自分から一人ぼっちになったんだ。
どっちも本当の気持ちだよ。あの二人は本当に愛し合っていたんだ。それをどうして悲劇だって言える? 大好きな人を独り占めできた人生を、どうして?
おれは、オーガスタスが幸せだったと思うよ。彼は後悔のない人生を送ったと信じるよ。
ミケ、これが語り部の仕事だよ。
ミケ、きみだけは、アルヴィン皇子がどんな結末に至っても、皇子の選択を『間違っていた』なんて言っちゃあいけない。その勇気を讃えることはしても、否定しちゃあいけないんだ。
皇子を愛しているのなら、その選択を受け止めて、きみが納得しないと良い物語にはならない。
主の物語を書き手の涙で汚すことは、語り部としての仕事に泥を塗ることだよ』
『トゥルーズ……わたし』
『人は死んでしまうよ。でも、死は悲しいだけじゃあないんだよ。別れは次の出会いのための準備だ。死は、生者にとっては始まりにすぎないよ』
ミケは立ち竦んで涙をこぼした。
『おれたち語り部は、主の死のあとに生きる人たちのために書くんだ。主が生きた世界のために書くんだよ。それを忘れちゃあいけないよ』
『わかっている……つもりだったのに……』
『わかってても、悲しくっても、書くしかない。おれたちしか書けないんだ。だって、ずっと主と傍にいたのは、世界じゅうの誰でもなく、自分だけなんだから。きみだけが、アルヴィン皇子の語り部なんだから』
ミケは顔を覆って頷いた。
『皇子をほんとうに愛してるんだね』
トゥルーズは、断定的に呟いた。
『主を愛した語り部は、とってもつらい。どんな語り部もみんなおかしくなってしまう恐ろしい病だ。でも、そんな語り部が書いたものは、決まって傑作になるんだ。苦しみで流れた涙が、命を吹き込むんだって。ミケ、きみは良い語り部になれるよ』
そう言ったトゥルーズの語尾は、途方に暮れたふうに少し掠れている。
ミケは、トゥルーズに自分の中の決意を嗅ぎ取られたことを感じていた。
『わたし……』
『消えないでね。きみが消えたら寂しいよ。きょうだいなんだから』
―――――……ごめんなさい。優しいトゥルーズ。
兄の擦れた声に、ミケは握ったこぶしを両目に押し付けた。
✡
アルヴィンは黒いところを堕ちていく。
真っ逆さまに、隙間の無い闇のなかを、わけもわからないままに
✡
『 ようこそ。ミケ。あなたを長くお待ちしておりました 』
ミケを招き入れた『フレイアの黄金船』は、軽やかな女の声で歓迎した。
「なぜ、わたしを……? 」
『 創造主たる魔女は、あなたの来訪を預言しておりました 』
ブゥン、と、腹の底が痺れるような低い音が響く。
ミケが通されたのは、一面が真っ白な四角い場所だった。立つにも座るにも収まりが悪く、ミケは壁際に寄って立ち竦んでいた。
『 さあ、行きましょう 』
「ど、どこへ? 」
『 魔法使いの国へ。始祖の蛇の
ハチの羽ばたきのような音が、あちこちから響く。ミケが怯えて座り込んだ瞬間、全身を押さえつけるような圧迫感が、ミケを襲った。
✡
アイリーン・クロックフォードは、深夜の訪問者を眉一つ動かさずに招き入れた。
魔法使いの国の首都で、いくつもの煉瓦造りの商店街が立ち並ぶ中、ひっそりと埋もれるようにしてある『銀蛇』には、表通りに面した小さな入口のある店舗と、真ん中の空き地を挟んである三階建ての工房兼住居が存在する。
うっそうと杖の材料にする木々が生い茂る、猫の額のような空き地に、とつじょ巨大な棺桶のような『船』が現れても、『影の王』は何も言わずにミケを招き入れた。
「お茶を淹れてくれないか? 私のは、客に出せる味じゃあないんだ。道具は好きなように使ってくれていいから」
戸惑いながら、湯気の立つカップを散らかったリビングに持っていくと、ソファに深く腰掛けていたアイリーンは、「さて……」と上半身を持ち上げた。
「どうしたものかね」
「あの……」
「なんだい? 」
「……助けてくださる『魔女』とは、あなた様のことでしょうか」
「いいや。私はその『魔女』から依頼されたに過ぎない。友としてね」
アイリーンは、紅茶を口に含ませた。「良い腕だ。さすがだな」
「その……『友』とは」
「アリス……きみたちの言うところの、『始祖の魔女』さ」
アイリーンはまた一口、紅茶を楽しんだ。
「アリスの預言は、非常に正確無比だった。彼女には、ここに来てきみが言うであろう一語一句が見えていたし、聞こえていた。だからこれからどうなるかのかも、彼女は承知だった、というわけさ」
ミケは目を白黒させた。
「茶菓子がいるな。夜も深いが、まあいいだろう」アイリーンは指を一振りして、どこかの戸棚から焼き菓子をテーブルの上に出す。
「ふん。やはりいい腕だな……。ああそう、『審判』が始まる。そのために、わたしたちは何年も前から準備をしてきた」
「……それは確かなことなのですか」
「そうだ。これもアリスが預言した。予兆もある。時空蛇が感じている予兆だ、信頼できるだろう? ふむ。それで、きみにはやってほしい役割がある」
「そうすれば、お助けくださるので? 」
「いいや、違う。きみが
わたしはやり方を教えるだけだ。『審判』には抗えない。どうあっても起こるだろう。きみの主人、アルヴィン・アトラスに訪れる死のように」
顔を歪めたミケを一瞥して、アイリーンはもう一度指を振る。
「アリスの形見だ。おまえが持っておけ。手帳のほうには、アリスの肉筆で預言が書いてある」
言葉と共にミケの膝の上に落下したのは、埃にまみれた革表紙の手帳と、真鍮の万年筆だった。
ミケは万年筆を拾い上げ、彫金された蔓バラの模様を指でなぞり、胸に温かなものを感じていた。
「これは……いいのですか? 」
「いいも何も、おまえに渡せと言われて預っていたものだ」
ミケはアイリーンの紅茶色の瞳をまじまじと見返した。
「やり方は、そこに書いてある」
アイリーンはついに紅茶を飲み干すと、名残惜し気にカップを置いて、ソファの背もたれに身を預け、細いため息をこぼす。ミケは、待ちきれずに、開き癖のついた手帳のページを、一枚ずつ慎重に目を通していった。
「なぜわたしがやらないのかって? 『審判』に選ばれるのは人間だけだ。わたしは『女教皇』として参戦することに決めている。
しかしだな……そうすると、時空蛇の権能は制限がかかるんだ。わたしは髪の毛ほどしか、時空蛇の一部としての力を使えなくなる。
おまえのような小さなものに、そういった大きな役割を任せるのは、わたしも気が引ける。……いや、けして見下しているという意味では無くね。
しかし、きみには叶えたい望みがある。その願いの強さに、年齢や立場は関係がない。そうだろう? 」
「……ええ。そのとおりです」
「ならばわたしは、安心しておまえにその手帳を託そう。あとから手助けになる者をフェルヴィンに向かわせる。うまくやってくれ」
「ありがとうございます」
戸口で見送りに立つアイリーンに、ミケは深々と頭を下げた。アイリーンはひらひらと手を振り、薄い微笑を薄い唇に浮かべる。
「……愛するものを救うのは、こちらのほうも痛みを伴う。おまえには覚悟がある。わたしは、その覚悟を信頼するよ」
✡
アルヴィンは墜ちていく。
満たされた闇の中を、自分を失くしながら―――――堕ちていく。
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