10-1 語り部ダッチェス
第三皇子・ヒューゴは、ざらついた硬い床の上で目を覚ました。埃とカビの臭気に包まれながら、視界には群青に墨を溶かし込んだような闇が敷かれ、自分の指先も見られない。
しかし辺りを見渡してすぐに、遠くにポツンと、置き去りにされたオレンジの実のような灯りを見つけることができた。
ヒューゴはまとわりつく闇を踏み固めるようにして、ゆっくりと明かりの方向へと歩き出した。
あちこちに人の頭ほどもある石が転がっていて、よくぞ生きていたものだと思う。ほんの五十歩ほどの距離を、こんなにも長く感じたのはいつぶりだろう。
乾いた唇を舐め、咥内が張り付く感触に喉の渇きを覚えた。
明かりが闇に慣れた瞳を刺す。白濁した視界の向こうで、女の声がした。
「あら。お目覚めかしら。一番乗りね」
聞き覚えのある声だった。涙の覆いを拭い、ヒューゴは萎えた喉に息を吹き込む。咳が出た。
「無理はしないで。大変だったわね」
「ああ、散々だ。親父は死んだ。弟も……兄貴は……くそ」
やがて晴れた目の前に広がった光景に、ヒューゴは息をのむ。
「ここはどこだ」
「……王城の最下層。アタシたちは『本の墓場』と呼んでいる場所。『星の
レースが重なった黒いスカートの裾をつまみ、白い膝を交差して、その黒髪の少女は優雅に腰を曲げる。
その背景には、薄闇に浮かび上がる途方もなく広い本の森が迫っていた。少女の頭の左右で動物の耳のように結わえられた髪を見下ろして、ようやくヒューゴは少女の名前に思い当たる。
「お前……まさか、ダッチェス? 」
見下ろしたつむじが震えた。上目遣いに見上げてきた黄金の瞳に、ヒューゴの思考は一瞬過去へと飛び、すぐに現実に舞い戻る。
「ご指摘の通り。ダッチェスですわ。レイバーン帝がお亡くなりになったいま、ここに語り部のあたしがいるのは、何にもおかしいことではないでしょう? 」
ダッチェスは揃えた五指で、部屋の隅に備え付けられた机を指した。その腕にある作業用のアームバンド、壁に下げられたランプ、ペンが浸されたインク瓶と散乱した紙束、付箋付きの辞書が、彼女が何をしていたかを如実に表している。
「……おまえと最後に顔を合わせたのは、七歳のときが最期だった」
「ふふふ。あたしはずっと見ていたわ。語り部ですもの」
少女のかんばせに浮かぶ笑みは、『
物心ついた頃には母が亡かったヒューゴはもちろん、アトラスの五人の兄弟がまだ幼き頃、多忙な父に代わって寝物語をしてくれたのは、決まってこのダッチェスだった。
語り部は、主によって姿が変わる。ダッチェスは、これでも今代の語り部の中での最年長であった。語り部は九人の主に仕えるが、彼女が仕えた主はとっくに片手では足りないという。しかし、そんな彼女がレイバーン帝の時代で幼女の姿をしているというのは、皇帝の身内にしか知られていないことである。
レイバーンの語り部ダッチェスは、『姿なき語り部』として知られる。皇帝の威光を保つために自ら姿を隠したダッチェスは、皇子たちに対してもそれを貫いた。
「……父上は、やはり亡くなってたんだな」
ヒューゴは、ダッチェスのつむじに問いかける。
「はい。ダッチェスは今、語り部として、最期の職務に取り掛かっております」
フェルヴィンの王族は、死後その人生を語り部に記録に残させる。それこそが語り部の仕事の集大成、存在意義である。ダッチェスの態度に、主を亡くした悲しみは無い。語り部はそういうものだと分かっていても―――――分かっているからこそ――――――もの悲しさが、より膨れ上がる。
ごしごしとヒューゴは拭うように顔を擦った。
「俺は……そう……兄さんたちを探さないと」
「おそれながら、ヒューゴ殿下。それならあなたには必要なものがあるはず」
ヒューゴが顔を上げた先には、ダッチェスの大きな金色の瞳があった。語り部がこうして物言いたげに見つめてくることは、こうした窮地には良くあること。
語り部には大きく制限がかけられている。『何人の運命にも介入してはならない』という誓約は最たるもので、彼らは自分の『してほしいこと』をはっきりと言えない。
「わかってる……分かってるよ」ため息を吐いて、ヒューゴは軽く踵を踏み鳴らした。
「トゥルーズ! ―――――来い! 」
「は、はいっ! ここに! 」
たたらを踏んで、線の細い黒髪の青年がヒューゴの陰から現れた。
そばかすの浮かぶ頬の上に、金色の瞳がきらきらと輝いている。ヒューゴはため息を吐いた。
あいかわらず、子犬のような『語り部』である。なぜ自分の語り部は
ヒューゴは鼻が当たるほど近くに現れた語り部の頭を押し退けるようにして小突き、二つ目のため息を飲み込む。
「久しぶりね。トゥルーズ」
主であるヒューゴよりも先に、ダッチェスが朗らかに声をかけた。
「わ、ダッチェス様! ええっとそうですねぇ。十日ぶりになりますかねぇ……」
「おいこら。このノンキ。世間話してる馬鹿があるか。兄上たちはどこにいる? 」
「あ、はっ、はい! 」
トゥルーズは大きく返事をすると、口をへの字に曲げ、頭を両手で抱えて「ムムム」と唸り声を上げた。
ヒューゴは腕を組む。
「それ、必要か? 」
「……はい! 分かりました! あのっ、あのですね」
「落ち着け落ち着け。急かした俺が悪かったよ」
「うう……す、すみません……えっと、ダイアナさんとヴェロニカ姫は生きてます。ミケは……よくわかりません。ボンヤリしてて、寝てるのかなぁ? とっても微かです。あ、……でも! マリアとベルリオズはけっこう近くに……つまり皇子殿下たちも、すぐそのへんにいらっしゃいますかと。呼ばれれば、そのへんからヒョッコリ出て来るんじゃあないですか? 」
トゥルーズの口が閉じるより先に、ヒューゴは文机の上のランプを掴んでその場を飛び出していた。
自らの影の足を蹴り上げながら、皇子は導かれるように、今しがた歩んでいきた闇の回廊へと進む。ランプに照らされて、先ほどは見えなかった色鮮やかな壁絵が浮かんでは飛び去っていった。
「グウィン! ケヴィン! アルヴィン! 」
そこには瓦礫の山があった。
白石のタイルは、確かにあの神殿の床材だろう。それらがうず高い山になって、ヒューゴの目の前に聳えていた。
一本道だ。自分が倒れていたのも、ここに違いない。
まさか。
「……嘘だろ。兄さんたちまで? 」
自分が口にした言葉を否定するように、身体は動く。
「危ないですよぅヒューゴ様……」背後から語り部の声がする。
「そんなことをしたら、上から崩れてきちゃいます!」
瓦礫の山に向かい、ひとつひとつ崩していく様は、蟻が砂糖の粒をひとつひとつ攫うようなものだろう。
「俺の兄弟がこの中にいるんだぞ! 」
語り部がべそをかきながら「でも」「だって……」と言う声がする。
「でももだってもあるか! 血を分けた兄弟に替えはきかねえんだよ!!! 」
「でもでもでも! お兄様ならそこにいらっしゃるじゃあないですかぁ! 」
「……………………はっ? 」
ヒューゴは瓦礫を掴んでいた手を放し、勢いよく振り返った。
体重を支えていた瓦礫が割れて、ヒューゴの右半身ごと滑り落ちていく。
「あっ」世界が一周する。
「ヒューッ! 」「あのばかッ! 」
瓦礫の山の表面を削り取りながら回転落下する中で、聴き慣れたいくつもの声がヒューゴの名を叫んだ。
「いってぇ……」
「大丈夫か? 」
「ばかっ! お前は何をやっとるんだ! 」
砂煙に曇った眼を擦って、見上げたそこには、反転した兄たちの顔が二つ心配げに並んでいた。
「思えばお前は、子供のころからいつも無茶をする。慎重さが足らないんだ」
「行動力と言ってくれ。兄さん」
「その無駄な行動力で、命を危険に晒してどうするんだ。もういい年なんだぞ。グウィン兄さんを見習って落ち着いてくれ。僕の心臓まで止まるところだった」
「弟を心配するのに説教は必要か? 数学者だろ。問題には感情より状況を重視しろよ」
「論点を誤魔化すな。僕はお前のそういうところが一番駄目だと思う」
「俺はあんたのそういう偉そうなところがガキのころからムカつくね」
「お前たちもういい加減にしなさい。今は喧嘩をする時か? 」
「ダッチェス様。いつもこうなんですよ」
「子供のころから喧嘩の進歩がないわね」
「お姉さまと弟君がいらっしゃると五倍はマシです」
「まあ、そうでしょうね。男の子は格好つけだから」
「レイバーン様もそうでした? 」
「そうね。あの子はいくつになっても、頭の中に十歳児がいたわ。だからあたしはこの通り、とっても愛らしい姿なの」
「……それくらいにしてくれないか」
グウィンが手首をさすりながら言った。がっちりと真新しい包帯が巻かれた手を確かめるように曲げ、拳を握ると、グウィンは試合前のボクサーのように息を吐いて兄弟たちに向き直る。
「現実逃避はそこまでだ。父と弟が死んでいる。今は、私たちがやるべきことを模索しよう」
「……ちょっと待てよ、グウィン兄さん。アルヴィンが死んだって? 」
「ヒューゴ」
「証拠はあるのか? 死体は? トゥルーズ! ミケはどうしてる! ここにいないってことは、生きてんだろ! 」
「そ、それが、さっきも言ったけどミケのことはよくわからなくって……」
「まぁまぁ」ダッチェスは手を叩いた。
「冷静になるんだ」
グウィンが、弟たちの肩に分厚い手を置いて言った。
「今はそんな時じゃない」
「じゃあいつが、その時になるんだよ! 」「じゃあ、こんな時にしか言えないことを言うぞ。私たちは、過去に二人の母を亡くしている。それでも兄弟五人、なんとかやってきた。私たちは不幸だったか? 違うだろう? ヒューゴ。おまえは父上に色々思うところもあるだろうが、」
ヒューゴは唇を結んだ。
「父う、いや……僕らの父さんも、大きく傷ついていても、皇帝の責務は忘れなかった。それは何のためだ? ぜんぶ国のためだ。僕らのためだろう。それが分からないほど子供ではないはずだ。個人の迷いや悲しみで、民の歩みを滞らせてはいけない。忘れちゃいけない。僕らは生まれた時から、様々なものの上に生かされている。死ぬその時まで、気を抜いてはいけないと知っている。こんなときだからこそ。私は……、僕は、皇太子だ。いずれ皇帝になる。目の前にいるお前たちではなく、この『国』を生かすために判断する。それが責務だ。そのために、お前たちに『死ね』と言う時も来るかもしれない。でも僕は……。
ああ! うまく言えない! やっぱり演説は苦手だ! 」
「兄さん……」
グウィンは鍋敷きのように大きな手のひらで額をぬぐった。髪が乱れ、無精ひげが生え、眼鏡の無い今の兄の姿を、弟たちは見たことが無い。グウィンは並外れて大柄な体と強面を気にして、ふちの太い円眼鏡を愛用している。よれよれの汚れたシャツを着て、乱れた髪の下で険しい目をした今の
「……そうだ。『私』たちは、王族という生き物だ。常に秤と剣を持ち、より重きほうを選び取る。右手の剣は、ひとつの正義ではなく大義のためにある剣でしかない。自らの首も落とすかもしれない凶器を常に僕らは持っている。真実がいかなるものでも、まだ僕らにはやるべきことが目の前に積み上がっている。そこから逃げることは受け継がれた誇りに誓って、僕にはぜったいに出来ないよ」
(兄さんには、かなわないな)
次男は苦くも甘い感情を胸中で転がして苦笑した。臆面も無く『誇り』などと言えるのは、皇太子に必要な才能だ。
ヒューゴも同じ気持ちだろう。
「僕についてきてくれるかい? 」
もちろん。と弟たちは口を揃えた。
グウィンは厳つい顔に優しい微笑みを取り戻し、今度はダッチェスに向き直った。
「ダッチェス。貴女の主人はもういない。縛るものは何もないはず。私たちが知りたいことを教えてくれますね? 」
「ええ、もちろんそのつもりですとも。我々はこの日を三千五百年待っていたわ」
ダッチェスは本棚の森に向き直り、腕を振り上げると指揮者のように指を振った。四角く塗りつぶされた闇の奥から、風を切って一冊の古書が飛来する。
ダッチェスの胴より厚い本は、見えないテーブルに置かれたように停止して閲覧者にページを晒した。
「今こそ、秘められしアトラス王家のお役目をお教えしましょう。預言の時は来たれり。困難はすでにはじまってしまっている。
あなたたちが滞りなくお役目をまっとうすることが、我が主レイバーン皇帝と、我らが語り部の創造主たる始祖の魔女の望み。
さあ、
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