4-1 レイバーン・アトラス
ジーン・アトラスは、辺境フェルヴィン皇国の出身でありながら、死後に出版された伝記小説の人気により、近代でもっとも尊敬される英雄のひとりである。
双子の弟コネリウス・アトラスとともに、病で侵された母国救済のために世界を踏破し、晩年は優れた王としてフェルヴィン文化の近代化に尽力した。伝記として書き上げられたのは兄弟で旅した青年期のことで、天使のような容姿の賢い兄と、おおらかで勇気ある弟の凸凹コンビの使命を帯びた冒険活劇は、八十二の言語に翻訳されて多くの子供たちの心を魅了している。
生前の彼を知る人々は、彼のことを講義上手の教授のようだったと称した。
中性的な美貌は年をとっても衰えることはなく、顔に似合わず毒舌家であった。
フェルヴィン人は大柄なものが多い。壁のようにそびえる宮廷人たちに向かって、頭二つも小さな王は、誰よりも大きな口をきいたが、誰も王の理路整然とした意見に逆らえなかったという。
彼は、長命人種としては三分の一ほどしかない五十六年という人生を、生涯独身のまま幕を降ろした。
彼の研究命題は、いつだって人民のためにあった。
『先進国より五百年も遅れている』といわれた国は、ジーンの代で法律が一新され、夢ある若者が旅立てるほどには豊かになった。
そのジーン・アトラスの葬儀には、その功績をかえりみると驚くほど少ない人数の参列者が並んだ。
とはいっても、五百名はゆうに超えている。
フェルヴィンは最下層の辺境であるがゆえに、彼が旅した国々への訃報が届くのは、まだまだ先になるであろうと予想された。
しかし、隣国にあたる第十八海層『魔法使いの国』からは、二人の国王のうち、『影の王』から葬儀へ参列の申し入れがあった。それも、儀式を執り行う祭祀として。
『魔法使いの国』は、政務を司る『陽の王』と、魔術を司る『影の王』という、陰陽二人の王がたつ国である。
『陽の王』は、原初の魔女の子孫とされる一族から選出される一般的な『王族』であるが、『影の王』は、その魔女と旅をしたという
フェルヴィン皇国は魔女絶命の地。その関係上、フェルヴィン皇帝の戴冠式には必ず招かれる『影の王』ではあるが、しかし、祭祀として
葬儀はしめやかに執り行われた。
『影の王』は、みずからジーンの棺の脇に立ち、その手にまじないと冥界の船頭への渡し賃などが収められた青い袋を握らせ、冷たい額に口づける。
棺に火がくべられると、それが燃え尽きるまで祈りの言葉を絶やさず唱えた。
火葬ののちは、神聖な森へつくられた祭壇に遺灰をいれた皿を安置し、風逝くまま灰が消えるのに任せる。そのため、祭壇のある森は七十二日間封鎖されることになる。
―――――それは葬儀の後のことだった。
森を背に、影の王は言った。
「レイバーン・アトラス。ひとつ、あなたについての預言を授かっている」
レイバーンは、
―――――……ああ、彼女はわたしに、この預言を告げに来たのだ。
『影の王』は、神々の去ったこの地上において最も神々に近しい存在である。
しかし、ジーン・アトラスが天使だったならば、この女はまさしく魔女であった。声色に少女らしい果実のような甘さはなく、年を経た賢女の恐れ多いばかりの静謐さがある。
不老不死の魔術の祖は、血の雫のように真紅の瞳を老獪(ろうかい)に細め、当時ようやく三十路と
少しになったばかりの新皇帝に、不自然なほど赤く塗られた唇を開いた。
「おまえの子は健やかに育つ。苦難もあるだろうが、まっとうに育てればまっとうに育つだろう。そして、どうあっても、おまえは息子より先に死ぬ」
その二年前、レイバーンは最初の結婚をしたばかりだった。子供はまだ無い。
親が子より先に逝く。それは喜ばしいことだ、と思ったが、魔女の舌はその先を紡ぐようだった。
「しかし、おまえは末の息子の死を見ることになる。おまえが死を見ることになるのは、末子が十五になる直前だと覚えていればいい」
「……末の息子」
レイバーンは青くなった。
もし子供が生まれたとしても、それがいつか、肝心なところが分からない。
「この預言は、ついでの
森から風が吹いた。
木々から乾いた木の葉がいくつも舞い上がり、渦を巻いて、
風を背に、魔女が言った。
―――――おまえはそのとき、もう死んでいるだろうけれど。
✡
それは確かに、『ジーン・アトラス』であった。
ジーン・アトラスは、青い冥府の炎に編まれるように再び現世の地を踏んだ。
葬儀の日、棺に納めた宝剣を手に、ジーンの痩躯がゆっくりと持ち上がっていく。
青銀の燐火を纏わせて、三十年前の皇帝はゆっくりと瞼を開き、青白い炎の混じる息を吐く。
その足元には、抜け殻のように、
「――――叔父上……! 」
皇帝の眼に涙が溢れる。足枷を引き摺りながらレイバーンは足を踏み出した。その青い炎が湧き出る足元に跪いて細い肩に触れ、小さな体を膝の上に抱き上げる。
「アルヴィン……! 」
「お前の息子か」
「そう……! そうです……! ああ……アルヴィン……どうして……」
グウィン。ヴェロニカ。ケヴィン。ヒューゴ。
あれから、毎年のように子宝に恵まれた。ヒューゴが生まれてすぐ、王妃は病に倒れ、それから長く妻はいなかった。二番目の妻を迎えたとき、レイバーンは子を成すつもりはなかった。まだ幼い子供たちに、とくに、母の顔を知らない下の息子たちに、母親が必要と思ってのことだった。実際、何年も子供はできず、預言のことなどすっかり忘れていた。
アルヴィンが産まれたのは、ヒューゴが十三歳のときだ。
アルヴィンはジーン・アトラスの生き写しだと、誰かが言った。
脳裏に浮かんだ不吉な預言に、半信半疑ではあったが、預言を回避するために何らかの行動が必要だと考えたレイバーンは、アルヴィンを自分から遠ざければと良いのではと思い至った。
『十五になる前に死ぬ』ことを、レイバーンが『見る』のならば、十五のそのときまで自分が傍にいなければ良い。
留学を切り出したとき、甘えん坊の末っ子が存外乗り気になり、ことは予想以上にうまく進んだが……それまでであった。
見えない力が働いたかのようだった。
穏やかで純粋な末の息子が、身も心も傷付いて帰ってきた姿を見たとき、レイバーンは運命(さだめ)の恐ろしさに直面した。
(預言は成就されるのが運命(さだめ)なのか……! なぜこの子が! )
アルヴィン・アトラスは、一週間後に十五歳になる
ジーンの伏せた瞳の奥で、青い燐光がこぼれて落ちていく。
「……そうか。そうだったんだな……」
「……叔父上」
「老けたな。
ジーンは少し笑って、レイバーンの白い頭を撫でる。その手はあの葬儀の日のまま、年相応の皺が寄っている。青い炎に巻かれても、冷たい死体の手だ。
ジーンは服の下に下げた青い袋を取り出し、死体の手で、まだ生温い少年の手へそれを握らせた。
「……すまない。レイ」
「叔父上ェ……! 」
瞳に青い炎が揺れている。
「―――――サア役者が揃った! 舞台は整った! 」
魔術師が歓声を上げながら、フェルヴィン皇帝一族の頭上を躍る。手には、語り部・ミケの成れの果てである銅板があった。
「……許さん……許さんぞ……! 私の息子をよくも……! 冥府の果てまで貴様を呪い尽くしても足らぬ……! 」
亡骸を腕に、レイバーンは裸足で立ち上がる。
「許さぬ……! 許さぬぞ! 」
「父上! そこにいては危険です! 」
グウィンが身を乗り出して叫んだ。
ドンッ!
レイバーンの裸足の足が、床を踏み抜かんばかりに叩いた。レイバーンの体のまわりを、ジーンの青と反転したかのような黄金の燐火が踊るように渦巻く。
「―――――ダッチェス! 」
黄金の燐火から、一枚の銅板が顕現した。
「―――――ベルリオズ! マリア! ダイアナ! トゥルーズ! 」
五枚になった銅板は、燐火とともにレイバーンの周囲を守るように回る。「――――トーマ! ――――ギデオン! ―――――オリヴィア! ―――――シャイアム!――――フィリック!――――フィガロ―――――」
矢継ぎ早に告げられたのは、二十四の『語り部』から、ミケとルナ他二名の名を抜いた二十名の名であった。
「―――――我は先祖より継承されし選ばれし者。『皇帝(エンペラー)』のさだめ持つ魔女の墓守! レイバーン・アトラス皇帝である! 」
輝く二十枚の銅板が回る。
「『皇帝特権施行(スート)』! 『剣の王』! 」
広間に響く地響きに、皇子たちの押し殺した悲鳴があがる。石畳を割り、皇帝の背を守るように大地から生まれたのは――――石の巨人。ガラス質の白い岩石でできた精密な王の立像は、すらりと腰の剣を抜き去り、『魔術師』に切っ先を向けた。
「打ち滅ぼせェェエエエエ――――――――ッッ! 」
魔術師は天に掲げた屍の腕を大きく広げ、声高に歯を鳴らしてみせた。
「開戦だ! 鬨の声を上げろ! ――――そう、お前だ! 」
「息子の仇! 」
「―――――我が奴隷、レイバーン・アトラス! 」
「貴ッ様ぁ――――――! 」
「父上ェエエ! 」
青い燐火がレイバーンに灯る。巨人の切っ先が魔術師の胴に迫ったままの姿勢で、床にむかって斃れていく。瓦解していく。銅板は光の粒となって、いずこかへと消えていく。
―――――最後の銅板が消えるとき、身を裂かれるような女の悲鳴が響いた。
ひと塊の青白い火玉となった
質量を伴わない滂沱(ぼうだ)の涙が、老木に突き出た瘤のような頬を伝い、燐火の欠片のひとつとなった。
広間中に敷き詰められたように立ち尽くす青い霊魂たちが、天を仰いで口を開ける。声なき声が重なり、吹き荒れる木枯らしのような叫び声が、広間に木霊(こだま)す。
『――――我は先祖より継承されし選ばれし者。『皇帝(エンペラー)』のさだめ持つ魔女の墓守……』
息子たちに絶望が手を伸ばす。
「父上……! 」
『……時は来たれり……知恵の果実はここに熟した……。魔女が交わした神との誓約により、我が名と宿世(さだめ)を以(も)て、ここに、『
魔術師の指が向けられると、ためらうレイバーンの手が溺れるように泳ぎ、身を捩(よじ)らせ、顎骨を軋ませながら、皇帝の口が開く。
『……宣言、する、ァ………ァァァアアァァアああああ――――ッ』
しじまのように平らだった墳墓の床が、水面に石を投げ込んだように罅割れ、崩れていく。身を切り裂かれたような父の悲鳴が響くなか、息子たちは、揺れる地面と崩れゆく大地に縋りつくように蹲(うずくま)った。
『逃げろ! お前たち! 逃げるのだ! 父の二の舞になってはならん――――! 』
魔術師が狂声を上げる。
「啓示を得たり! 我が名を得たり! 我が名は今この時より選ばれしもの! 世界を変える資格あるもの! 我が名は真に『魔術師(マジシャン)』となった!」
アハハハ……――――。
ジーン・アトラスは、足元に転がる子供の躯を見下ろしていた。
「………」
陽炎に揺れる背中が片足を持ち上げ、甥の息子であったその躯の背に乗せる。ジーンのほんの三歩先、墳墓であったそこにはぽっかりと、真っ暗な奈落が口を開けている。
「……すまないな。俺はしょせん、
ジーンはそう呟いて、剣を振り上げた。切っ先がその子供の手枷を砕き、肩に添えられた足が、真っ白な躯を奈落へと蹴り落とす。
青い炎が吹き上がるその穴の奥に、小さな躯は、すぐに見えなくなった。
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