1-1 サリヴァン・ライト

 まどろみから浮上する。世界がゆらゆら揺れて滲んでいる。

 波紋状に光が歪んで、サリヴァンの瞳を覗き込んでくる。

 背中が痛い。


「うう……」

 うめき、息を吸った瞬間、舞い上がった砂埃が鼻孔に入った。

 ギュシュンッ


 自分が出したクシャミの衝撃で、サリヴァンの意識はようやく地上に舞い戻った。

 薄暗い視界。冷たい地面を、身体の下に感じている。

 口から零れた唾液が顔の下を濡らし、ひどく不快である。

 冷え切った体を縮めてみて、腕が背中で縛られていることに気が付き――――サリヴァンは、ため息をかみ殺した。

 積もった砂埃の上、片耳を敷くように頭を転がして、目を閉じる。

 サリヴァンの足元、コンクリートの地面に、西日らしき黄色の光が差していた。そこから人ひとりぶん開けたところに、飼い葉のブロックが積み木のように重ねてある。

 視界は遮られていたが、尖らせた聴覚と第六感が、その向こうにさざめく波のような人の気配を感じていた。


 次に、自分の調子を探る。

 頭ははっきりとしていて、吐き気も無い。薬の類は使われていないと見ていい。節々の痛みは、固い地面に転がされていたためだ。


 誘拐犯たちは歩き回っておらず、汎用品はんようひんのパイプ椅子の軋む音がしていた。

 話す言葉は潜められて聞き取れないが、人数はそれほど多くないだろう。少なくとも倉庫内にいるのは五人ほど。


 ……とまで理解をして、サリヴァンは横たわったまま、カッと目を見開いた。


 猛烈に、嫌な予感がする……。


 記憶を探った。

 最後は、そう、自分の寝床に潜り込んで目を閉じたところで途切れている。

(……いや、ほんとうに、そうか? )

 自問する。


 そういえば、誰かの声を聴いた気がする。そのときは、確かにまだ自分の部屋にいた。シーツの感触が、記憶の中の肌に残っている。


 自慢じゃあないが、サリヴァンは常人よりも気配に敏い。

 師にそうなるよう仕込まれたのだから、枕もとでゴソゴソやられたら、確実に飛び起きる。

 体に触れられたら、まどろみの中でも反射的に武器を握るだろうとも確信できる。

 だから、そのときは夢だと思っていた。


 前髪をかきわけて、優しく、宝物のように額を撫ぜられるなんて恥ずかしいことは、この年になってしまっては何年もご無沙汰であった。

 今のサリヴァンに、そんなことをする人はもういなかった。されたとしても、(前述のとおり)勝手に意識が浮上する体になって久しいのだから、確かなことだった。


 ……と、いうことは。

 十中八九、師の計らいの誘拐であるのだろう。


 合格基準は不明。攻略方法は無限大。

 それが彼の仕える師が、きまぐれに与える『試練』の概要である。


 ……そこまで考えて、サリヴァンは今度こそため息を吐いた。吐息で砂埃が舞い上がり、顔を地面に押し付けてクシャミを殺す。


 憂鬱。

 今のサリヴァンの心を表す単語は、これにつきる。


(なあ~んだってあのヒトは、俺にこういう嫌がらせをするかなぁ。いやいや、わかってんだよな。あのヒトのすることに『無意味』なことは一つもないって。ああ、でも、今回のミッションの成功条件は難しそうだなぁ……初ッ端からとっ捕まってンだからなぁ……)


 しかし、このままジッと助けを待つわけにもいかないのだろう。経験からサリヴァンは知っていた。

 合格基準については不明だが、個人的な好みというものはある。

 


 思い直したサリヴァンは、押し込められた舌をどうにか動かして、小さく「それ」を呼んだ。


「……うぅっ。ううぅー……ううぅ………」

 うつ伏せになった腹の下で、黒い影が、無数の虫のように蠢く。


 それは粘的に地面へと体積を伸ばし、やがてそう経たないうちに、人影の姿を取った。

 黒影は立ち上がり、伏せるサリヴァンに語り掛けながら、冷たい床へ横たわる背中に腰掛けて足を組む。

 きれいに粒のそろった歯列の中で、ちいさな犬歯だけがやけに尖っていた。


「ヒヒヒッ……」

「うぅうー」

「ずいぶん無様な恰好じゃないか。ねえ? 坊ちゃん」

「ううぅーっ! 」


 継ぎの入った灰色の帽子、擦り切れた裾の黒い上着から、枝のように細いふくらはぎから続く、生白い裸足がのぞいている。

 浮浪児そのものの姿をして、『それ』は帽子の隙間から、わずかな肌と三日月形に歪んだ瞳と唇を覗かせ、芝居がかった仕草で細い顎を撫でた。


「お困りのようだねェ。ボクをお望み? 」



 ✡



 さて、現状把握だぜ。サリヴァン。

 キミはサリヴァン。ライト家の長男坊として生まれ、六歳から杖職人に奉公中。

 今年で一七歳になる童貞野郎。

 ……ってことは憶えてる? ふっふっふ。そんなに吠えるなよ。今の自分の間抜けな姿、わかってる?


 ここは『魔法使いの国』。

 これは正式に一国家を示す名前として、世界各地の首脳施設に記録されている由緒ある国名だ。

 第18海の中心、エルバーンの島国。天気はいつも、くもりのち雨。ときおり晴れ。洗濯物には注意しましょう……ってところかな?

 夏はぼんやり涼しく、冬にはぼんやり寒い。日暮れが早く、夜が長いのがお国柄。

 暦が始まる以前、ここに魔女が降り立った。その時から『魔法使いの国』は現在まで存在する。

 魔女は人々に魔術を与え、海の果てに去っていった。

 以来、ここは『魔法使い人種』が生まれてくる唯一の土地であるとされている。


 例にもれず、キミも魔法使い種。『魔法の杖』の老舗工房、『銀蛇』の奉公人の身分だ。

 そして『ボク』は、そんなキミの陰に潜むもの。


 『魔人』と人はうけれど、魔法のランプに潜むわけでもない。

 契約内容を復唱して? そう、それを忘れられちゃア、ボクもキミも困るからね。

 ボクの望みはただひとつ。『キミがボクを裏切らないこと』。

 魔法使いと契約した魔人は、契約者の所有する大いなる魔法。魔人の名前は呪文と同じ。ボクの助けを借りたいっていうのなら、それを口にするのがセオリー。

 ボクは魔人。自由と享楽と平穏を望む、質量なき昼行燈。


 さあ、ご主人様! ご唱和あれ!


 ――――ボクの名は?




「―――ジジ! 」


 猿轡から自力で抜け出したサリヴァンは、青筋を立てて、ボクの瞳をまっすぐ睨んだ。声に気が付いた飼い葉の向こうが、とたんに騒がしくなる。


 舌打ちをしたサリヴァンは、身体をよじって陸に上がった魚のように跳ねてボクを振り落すと、鮮やかに縄を解いて立ち上がって見せた。

 うなじで束ねられた長い赤銅色の毛束が、尻尾のように跳ねて背中の上をうねる。

 刻まれた縄は、ばらばらと長虫じみた物体となり、拘束の用をなさなくなった。


「ボク、いらないんじゃなァい? 」

「いるなら使うに決まってんだろ。ほら! もう来るぞ! 」


 飼い葉の影から顔を出したのは、どれもこれも屈強な体格の男たちだ。とくに特徴のない旅装を纏っていたが、やけに身綺麗で旅疲れしている様子がない。口にする罵倒の言葉は、唄うような発声と力強い濁音の語尾をした『上層』のもの。

 サリヴァンが視線だけで、ボクに意味を問いかける。


「『ざるくぶぁふぇんどん』の『くしゃぇにゃ』を『ざりばん』しようって言ってる」

「……どういう意味だ? 」

「ざるくぶぁふぇんどんは『肥溜めで足を折ったロバ』。くしゃぇにゃは『ケツの穴』。ざりばんは『脳天からまっすぐ串刺し』」

「意訳すると? 」

「『もう用済みだから、コイツらバラしてすっきりしようぜ』」

「『くにぃゃんすなばー』は? 」

「ボク、スラングしか覚えてないんだよね」

「役立たず! 」

「知っての通り育ちが悪いもので」

「おい。あいつら『ざりばん、ざりばん』って同意したぞ」

「サリー。こんなおじさんたちに攫われる心当たりは? 」

「黒幕は確定。心当たりは三通りくらいあるかな? 」

「三つもあるの? ばかじゃない? 」

「……そういうお前は? 」

「二十四通りそれぞれに、きみが想定した以外の黒幕を三パターン予想できるかな? 」

「ばっかじゃねえの? ちっとは日頃の行いを改めろ」



 男たちは声を上げ、ボクらを囲むように素早く動いた。全部で五人。ナイフを取り出し構える仕草にも淀みはなく、『組織』としての熟練度を感じさせる。服装に統一感はないが、明らかに訓練された兵士。しかし銃器のたぐいを取り出さないということは、サリヴァンの予想通り、あちらはボクたちに対して、最低限の怪我しかさせたくないらしい。


 サリヴァンはニヤリと笑う。


 サリヴァン……サリーの脚が、積まれた飼い葉を強く蹴った。

 ボクは一拍遅れて床を蹴り、サリー二人分の高さにある飼い葉の上に足を付ける。とうぜん倒れつつある飼い葉は落下する。

 飼い葉の壁が崩れたと同時、ボクは壁の向こうにいた『立派な身なりの紳士』の羽がついた帽子を蹴り飛ばし、現れた禿げ頭を踏みにじってより高く跳んだ。ずっこけた紳士の姿に、兵士たちが動揺する。


「アハハ! サリー! きっとこいつが飼い主だよ! 」

 ボクが纏う擦り切れたコートが大きくはためく。兵士たちが空中でコマのように踊るボクを指差して、「クスヴァーラ! 」と叫んでいた。『不吉な魔物! 』もしくは『地獄からの使者! 』という意味だ。こいつらにとっては間違いじゃアない。


「―――どうせ魔法なんて大した事ねえ、相手は杖職人のガキだって思ってたんだろうけど……」

 兵士の視線をボクから奪うように、サリヴァンが口を開いた。

 左足を前に一歩、地面を擦りながら、軽く踏み出す。



「……ザァンネンだったなあ」


 振り上げた左手には、一振りの銀色の刃。刃渡りは男の上腕ほど、濡れたように輝く銀色の、惚れ惚れするほど美しい片刃のダガー。


「我が国の最高の『魔法使い』ってのはな……」


 ばかだねえ。

 あの女になんて言われてこんなことをしたのかは分からないけれど、こいつらは魔法使いというものを舐めている。

 こんなやつらに、サリーがどうこうできるわけがないのに。


「杖職人なんだよォ――――ッ! 」


 敵は、「バカな!? 武器なんて持っていなかったはずだぞ!? 」というような感じで動揺している。そんな可哀想な誘拐犯たちを一笑して、ボクは蝙蝠のように天井にぶら下がって目と耳を塞ぐ。

 『魔法の杖』を、その輝く刀身を、サリーは一閃――――。


「『銀蛇』! 今だ! ――――ブッぱなせ! 」


 閃光。爆音。そして暴風。

 きっと彼らは、気を失う寸前に思ったはずだ。

『とんでもないものを誘拐してしまった』。

 まず誘拐できたことを褒めてあげたいもんだ。


 このご時世。この誘拐犯たちも、火薬を扱うことがあるだろう。だとすれば、おそらく彼らはサリーを爆弾魔だと思ったろうから、眼が覚めて破壊のあとが無いことに驚くに違いない。

 ただの目潰しの魔法も、鼓膜が破れるほどの爆音と風があれば、『爆弾』を知っている頭は『爆発』だと誤認する。

 ちょっと起源は古いけれど、世界大戦時、火の粉が降りかかった当時の魔法使いが外国人向けにブレンドした、安全性ぴかいちの魔法なのだ。


 サリーは、着々と白目を向いて折り重なる男たちの身ぐるみを剥がしにかかっていた。

 追剥ではなく、敵の身分や目的を探るためと、彼らに傷を負わせていないかの確認だ。肌に傷があれば簡単な治癒の呪いをかけ、豚をさばく肉屋みたいに、サリーは男たちの裸をコンクリートの上に量産していった。



 極悪非道で知られるこの魔人の眼から見ても、おそろしくトラブル慣れしている行動力だ。



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