序文【Pageant】

 暗闇の中で目が開いた。

 冥界ではつねの、水のように隙間の無い闇ではない。土と草の青臭さ、かすかに陽の香りがする。生命の気配がする、薄青い闇だった。

 驚いて身を起こす。跳ねる鼓動とまとわりつくような重さに、肉体があることを知る。

 手足の感触は滑らかで、生まれたばかりの赤子のように柔らかだ。外気に当たったこともない肌は、かつての自分の有り様を思い起こさせる。


 風を感じた。闇が引いた場所がある。うす緑の光の帯が、黄色い粒を降らせながら差し込んでいる。

 憑りつかれたように、その光から目を離せない。なんとかそこへ向かおうと、冷たい土の上で、慣れない手足を動かした。長いばかりで振り回しの悪い腕脚は、思っていたよりも力強く、壁の力を借りて立ち上がると、十歩も歩けば支えもいらなくなった。


 虫の音がする。

 鳥の声が聴こえる。

 白い光が、生まれたばかりの眼球を刺す。


 そこは森だった。

 振り返れば、いましがた這い出てきたのは、山肌に食い込んだ夜のような場所だった。

 木漏れ日の奥に、青い空がある。水が滲んだように薄い雲がかかり、太陽は中天にあった。

 むせかえるような土の薫りで肺が満たされる。

 温かい日差しに照らされると、這い出て来た洞穴の闇は、緑と光に紛れて見えなくなってしまった。

 太陽の強さに、頬を濡らすものが止まらない。

 信じられない想いで、彼は―――――あるいは彼女は、裸のまま、森の土を一歩、また一歩と踏んだ。

 足の裏で草花が潰れる。柔らかな足裏に、草の薄い葉が小さな傷をつけた。

 血が滲むことすら初めてだというのに、身体が止まらない。


 ―――――どうして……。


 気が付けば駆けていた。


 水の音がする。

 小川があった。

 泉があった。

 澄み切った水。陽光がその流れを滑り、大粒の真珠のような輝きをもって白く揺らめいている。

 その揺らめきに誘われるようにして、鳥獣が水辺に佇んでいた。つがいがいる。親子がいる。

 いくつもの花が咲いている。艶やかな実を付けた果樹がある。鮮やかな蝶が頭の横を横切った。

 総身が震え、立っていられなかった。水を求め、臓腑が疼いた。膝をついたその先に、小さな玉虫が草の上を這っている。草との延長線上にある肌の上を渡る玉虫を横目で見た。


 ―――――なんだこれは。

 ―――――なんだこれは……!


 震えが止まらない。


 吐き気が止まらない。


 湧き上がる怒りが止まらない!




 ボッ、と音を立てて、手の甲に止まっていた玉虫が燃え上がる。

 肌に触れていた草木がもがくように蠢きながら、黒く縮れて灰になっていく。

 彼―――――あるいは彼女の呼気もまた、青い燐光をまとう焔となって、その世界を染め上げる。

 ――――――鼓動が痛いほど打っている。


 青い劫火に照らされて、不気味な黒い影がみどりの森にさした。

 かつて彼―――――あるいは彼女その人を終わらせた青い炎。


 かつてこの世に、神話があった。

 神々はしもべとして人間を創造した。その最初のひとりは『黄金きんの人』と呼ばれ、その最期は悲劇で彩られ、教訓として語り継がれる。

 いわく。無知は罪である。

 その原罪によって『黄金きんの人』は三日三晩、総身と世界を焼いたから、後世の『人間』は、牙も爪ももたないかわり、神々に準じる知恵を得ることができた。

 その悲劇は、そういう神話。

 今、人々が踏みしめる大地の奥深く、礎として埋まっている原初の犠牲。最初の原罪を成した永劫の罪人。


 無垢なる犠牲の子は、炎に巻かれる中で何を思ったか?


 ―――――その者は願った。


 ―――――その者は望んだ。


 苦痛から逃れること。つまり、神々に与えられた不死を捨ててでも取り戻したい安寧あんねい。―――――けして死などではない。

 この世すべてが、この怒りを、苦痛を知ってくれること。―――――けして憐憫りんびんなどではない。


 嗚呼ああ―――――! どうして蘇ってしまったのか!


 冥界はひたすらに冷徹であった。静寂と孤独と絶望から生まれる諦観が、彼―――――あるいは彼女の怒りを凍らせていた。

 現世の太陽は凍らせた怒りを溶かし、まざまざと彼の犠牲の結果をつきつけた。

 この世が美しいほど、その人の心は憎悪と嫉妬に狂う。赤子同然であった自分に与えられた三日三晩の苦痛の記憶が、神々の作り上げた世界を赦さない。


 産声のように泣き叫ぶ。


 それは傲慢な感情だ。

 自らが苦痛を強いられたから、この世界も苦痛に彩られるべきであるという、赤子にも劣る傲慢だ。

 狂った怒りを向けられるべきは、この世界に繁栄するすべての命。

 彼は―――――あるいは彼女は、そう信じて疑わない。

 なぜなら彼の人は、この世でもっとも無垢なる人であるからだ。


 皮肉にも、神々はかの人を見出した。

 資格となるのは『世界を変えるもの』であること。

 与えられた宿禍しゅくがは『吊るされた男』。

 意味は『誇りある犠牲』。

 彼の人は確かに、その犠牲によって、世界を変えた一人であった。


 預言の時は迫っている。

 一晩にしてこの美しい森が焦土へと変わったのは、ことが起こる、ほんの少し前のこと。

 これこそが、彼―――――あるいは彼女にとっての、悲劇の再演の幕開けであった。


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