6-3 裏庭 936年9月
予科練の話は帰還兵のあの男以外に話したことはなかった。それでもいつの間にかソレイユの耳にまで届いたらしい。久しぶりに会うと開口一番「パイロットになる気?」とおっかない顔をして詰め寄られた。
たぶん帰還兵がハンナに話し、そこから彼女に伝わったのだと思う。パイロット志願なんて、まだなんの確約もない、自分でも夢物語なのだと分かっていただけにはっきりと問われると恥ずかしい思いがした。
僕の髪はやっと格好がつくほどには伸びていたが、それでもパリッとした高そうな服に身を包み、贅沢なほどたっぷりとした茶色の巻き毛が踊るソレイユの前に立つと、ハゲネズミと呼ばれても潔く返事しそうなほど自分がみすぼらしく思えてならなかった。委縮してしまい、視線を避けたくなる。
ソレイユは十五になる頃に一度都会にある寄宿学校に入ったが、周りと上手くやれなかったようで、数か月で戻って来ていた。それからは家で習い事や勉強をして過ごしていたのだが、さんざん旅行三昧の生活をしていた母親が、今度は娘の教育に目覚めたらしく家に過ごすようになっていた。
母親は何をするにも自分の目の届くところでやらせたがり、娘のそばに張り付いてあれこれ細かいことまで要求するようになった。おかげでソレイユはすっかり元気をなくしていた。歩き方ひとつで長い時間説教されるらしい。
外出も簡単には出来なくなった。出るときもバカみたいな幅広な帽子を被ったり、フリルたっぷりのパラソルを差して歩かなければならず、ちょっと庭に出ることもままならない。理由は日焼けするからダメだというもので、窓辺に長く立つことも禁止だとぼやいていた。
「ママにはうんざり」
ソレイユは涙ぐみながら話してくれたが、僕にはどうすることもできなかった。どの慰めも空虚で意味がないことが痛いほど分かり、適当な冗談で和ませようとしたが空振りに終わる。
なんとか時間を見つけて、こっそり彼女に会いにいくこともあったが、そんなときでも窓越しにちらっと顔を見るくらいで、長く話すのは難しかった。それでも手だけでも振って帰ることで、僕は何かをやり遂げた気になり満足していた。彼女のほうでどう受け止めていたのかは気にもしないで。
そんな風だったから、外で会えるのは貴重で、喜びで舞い上がってもよかったくらいなのに、顔を見るなり叱られた気がして、僕はがっかりしてしまった。
「違うさ、希望すれば予科練を受験させてもらえるかもっていう話だよ。目がいいんだ、これでも」
僕は話題を変えようとした。
「それより今日は珍しいね。外にいて平気? あとで怒られなきゃいいけど」
ソレイユは目を細めて見上げると、こちらを見たまま僕のうすっぺらい布靴の先を革靴の厚い踵で踏んづけた。僕は痛さに顔がゆがむ。
「ママはお出かけ中。たまに都会の悪い空気を吸わないと死ぬそうよ」
「それはまた、過激な体質だね」
ソレイユは軽く笑った。愛想笑いにも見えたし、笑うつもりがなかったのに反応してしまい、慌ててごまかしたようにも見えた。僕らは司祭館の裏庭、井戸のある場所にいた。この時間は太陽が建物の向こうに隠れるため、周囲は明るい日陰になっていて通り抜けていく風が心地よかった。
「パイロットになりたいの?」
ソレイユが再び言った。どうやらこの話題からは逃れられないらしい。
僕はあきらめて話した。
「なれないさ、きっと。もっと頭が良くて、親が立派な人しか選ばれないよ。そもそも受験すらさせてもらえないと思う。からかわれたんだよ」
「じゃあ、なれるんならなりたいってわけ、あなたは」
「なれるもんならね」
僕は井戸の端に腰掛けると、ため息をついた。話せば話すほど、自分が愚かで幼稚に思えた。パイロット? 僕が? ソレイユは少し迷ったあと、隣に軽く腰掛けた。洋服が汚れるのを気にしたのかもしれない。上着を脱いで敷いてあげると、すぐにその上へと移動した。
「こういう気づかいは出来るのね」
ソレイユは満足したようだ。穏やかに笑っている。よかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます