ソレイユの涙

竹神チエ

第一章

『黄金伝説』

1-1 絵本

 僕は勇者になりたかった。邪悪なドラゴンから王女を救い出す勇者に。でも本気で願っていたと言えるのだろうか。僕は夢しか見てなかった。本当に勇者になろうとしていたなら、彼女を守れたはずだ。今でも隣にソレイユがいてくれたかもしれない。


 残酷な運命だったと、この世の中が悪いのだと言ってしまえばそれまでだ。でも、それをぶち壊そうと一度でも僕はしただろうか。僕は何もしていない。憧れ、夢見てばかりいた。ソレイユを失ったのは、そんな弱さのせいだ。


 邪悪。この言葉がいつも僕の人生にはつきまとっていた。でも、今なら分かる。倒そうとしていた邪悪さの居場所がどこなのか。運命でも世の中でもない。僕はそれに気づいてしまった……


 始めに邪悪さに触れたのは絵本の中だった。町を襲う邪悪なドラゴンを倒す騎士の話だ。表紙やページもぼろぼろ。僕は貧しい百姓の息子、六人兄弟の末っ子で兄や姉がたくさんいたけれど、他には誰もこの絵本を読むことはなかった。


 それが普通だったのかもしれない。絵本といってもカラフルな色彩じゃなく白黒の版画絵で、子供が好むような可愛らしい絵柄でもなかった。人物たちはみんな目がぎょろついていたし、ドラゴンはさらに気味悪く、恐ろしい絵だった。


 でも僕はこの絵本が大好きだった。部屋の隅でいつも読んでいた。兄弟たちに「また読んでいるのか」とからかわれても、ずっと抱えて離さなかった。絵本の世界にとっぷり浸かり、勇敢な勇者になりたい、なるんだと胸を膨らませていた。


 物語は王国にドラゴンが現れたことから始まる。人々は退治しようとするが、怒り狂ったドラゴンに毒気を含んだ息を吹きかけられ、町全体に疫病が蔓延してしまう。困った人々はドラゴンの怒りを鎮めるため、毎日二頭の羊を生贄にささげることにした。


 しかし羊の数が減っていき十分に調達できなくなると、人々は仕方なく羊一頭と人間一人を生贄に差し出すことになる。

 誰が生贄になるかは、クジで決めることになった。


 こうして町の息子や娘たちのほとんどがドラゴンの生贄になったころ、ついに王の一人娘にクジが当たる。王はひどく悲しみ、自分の財産の半分を差し出してもよいから娘を生贄にしないでくれと懇願した。


 すでに多くの息子や娘たちを生贄に捧げていた町人たちは怒り、もし娘を差し出さないのなら宮殿を焼き払い、王も焼き殺すと詰め寄った。王は一週間の猶予をもらうことで、仕方なく娘を生贄にすることに同意した。


 だが八日目になっても王女は現れない。人々は怒り狂い、王宮に押し掛ける。ついに観念した王は、王女をドラゴンの棲む湖へと向かわせた。


 湖のほとりで悲しみと恐怖に怯えていた王女の元へ、偶然、旅をしていた騎士が通りかかる。王女から一部始終を聞いた彼は、神の御名において王女を助けると誓う。王女がこれを断ろうとしたその時、湖面を割るようにしてドラゴンが現れた。


 巨大なドラゴンは悪臭を放つ硬い鱗に覆われ、鋭い爪と牙を持っていた。背には天を覆うような翼が広がり、大木のような足が地面を揺らした。腐りゆく肉の塊のような姿は邪悪そのもので、おぞましく悪に満ちていた。


 僕はこのドラゴンに襲われる夢を何度も見た。悪夢にうなされ、目を覚ましては泣きじゃくり母に抱きついていたのを憶えている。


「ドラゴンが来る、食べられちゃう」

 混乱し怯える僕を、兄弟たちは笑いながら見ていた。

「ルギウス、またなの?」

「だって……、だって……」


 彼らには分からなかったのだ。あの絡みつく臭気、どろどろとした緑の液体が流れ出る身体。鋭い牙が襲い掛かり、僕をかみ砕こうとする……


 兄弟たちはこの絵本を読んだことがあったのだろうか。ずっと昔に読み、忘れてしまったのかもしれない。あの恐ろしいドラゴン。そして勇敢な騎士の姿も。


 邪悪なドラゴンを目にしても騎士は恐れることなく馬に跨り、神に加護を祈ってドラゴンに向かって突き進んだ。手にした長槍をドラゴンの腹に突き立てる。崩れ落ちるドラゴン――……


 僕はこの物語に魅了された。勇敢な騎士の精神に、王女を救い人々から感謝される姿に。彼は英雄だ。邪悪なドラゴンを倒した騎士に僕は憧れ、彼のようになりたいと夢見ていた。

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