第二話:黒い
満月が照らす不気味な森の中を、私はメイドさんに連れられて歩いていた。
正確には山の中なのだけど、傾が緩やかすぎてそうであるということを忘れてしまう。
「あの、フレシアさん、どこに向かってるんですか?結構歩いてますけど」
メイドのフレシアさんはいつもの無機質な調子で答えた
「沼地です。じきに着きます」
「そこにならカエルがいるんですか?」
「います」
フレシアさんとの会話はそれきりで、その後は2人でただ黙って歩いていた。真夜中なのにもかかわらず、森は満月の光に照らされていてとても明るかった。木のほとんどは冬みたいに寒々しい枯れ木で、その枝に点々と止まっているカラスがじっと私たちの事を見ていた。
時々、遠くから獣の鳴き声のような、遠吠えのような、そんな恐ろしい何かが聞こえてきた。狼の遠吠えなら村にいたころもよく聞こえてきたけれど、聞こえてきた何かはそれよりも乱暴で、狼なんかよりもずっと大きい生物のようだった。
代り映えのしない枯れ木のパレードが終わると、ようやく開けた視界に赤い沼が広がった。沼の水面を覗くと月に照らされた自分の顔が映りこんでいた。そのあと周りを見渡す。フレシアさんはここにカエルがいるというけれど、鳴き声もしないし姿も見えない。カエルどころか魚も泳いでいない。生物の気配は全くしない。
「あの、フレシアさん。ほんとにここにいますか?カエルの鳴き声とか、何にも聞えませんけど...」
フレシアさんはしばらく周りを見渡した後、
「はい。いません。どうやら獣が訪れたようです。驚いて逃げてしまったのでしょう」
と、視線で何かの大きな足跡を指した。
それは私が今までつけてきた足跡と見比べるとその倍はあり、靴でつけられたものではない、どう見ても獣のものだ。
足跡は私とフレシアさんの間を通り、沼の中に消えていた。
私は怖くなってフレシアさんに尋ねた。
「これ、なんの足跡ですか?」
フレシアさんは翻って沼に背を向け、歩き出しながら言った。
「すぐに離れましょう。ここは危険で────」
その時、沼の中から強大な体躯が飛び出し、フレシアさんに襲い掛かった。それが飛び出してきた時の飛沫で私は思わず顔を背ける。沼の飛沫は私の身体に点々と付着した。
向き直ると、沼の中から飛び出してきたモノの正体がはっきり見て取れた。体は一見人型のようだけど、全身は毛で覆われ、手足は鋭い獣の爪を持ち、顔は狼だった。昔絵本で呼んだことがある。人狼だ。
黒く全身を覆う毛は沼でドロドロになり、べちゃべちゃと地面に泥をまき散らし、ギラギラとした赤い目でフレシアさんを見つめている。
フレシアさんは傷ついた肩から血を流し、人狼から目を背けずにいつもの無機質な調子で私に言った
「セリナ様、お城にお戻りください。ここは危険です」
そうしたいのはもちろんだ。でも、フレシアさんはどうするつもり?その疑問を口に出す前に、フレシアさんは答をだした。
「私はここで彼の餌となり時間を稼ぎましょう。運よく奇襲を免れましたが、肩を裂かれてしまいました」
お逃げください。と最後にフレシアさんが言うのと同時に、人狼はフレシアさんの喉元に齧り付いた。血が入った布が裂かれたみたいに、生暖かい血飛沫があたりにまき散らされた。
人狼は本能のままフレシアさんの肢体を弄び、鋭い爪でズタズタに引き裂いては血を啜っていた。当のフレシアさんは赤子の残酷な遊びに使われる人形のように、されるがまま悲鳴の一つも上げず、逃げだす私の方を無表情で見ていた。
元の暗い森の中を私は全力で逃げた。遠くの高地にローゼンクライツ城が見える。あそこまで行けば安全なはず。途中、直前に見たフレシアさんのグロテスクな最期が何度も記憶に蘇り、その度に吐きそうになりバランスを崩して転びそうになる。
後ろから獣の吐息が足音と共に追いついてきた。沼からずっと離れているのに、なぜか私の位置は奴に筒抜けだった。私は恐怖と混乱で息がおぼつかなくなっていた。掴まれば全身をズタズタに裂かれて殺されてしまう。それがわかっているのに思うように走れない。次第に足が重くなっていき、それと比例して足音はぐんぐん近づいてきた。
もう駄目。すぐ後ろに人狼が迫っているのに、ローゼンクライツ城はまだずっと遠くに見える。 追いつかれる。 嫌だ。死にたく───
突然、背後で何か大きな音が聞こえて、同時に私は吹き飛ばされた。逃げる私のすぐ後ろに何かが降ってきた。
その衝撃であたりは木の葉と砂煙が立ち上り、周りは何も見えなくなった。
砂が喉に入り、せき込みながらなんとか起き上がり、振り返ると、薄れゆく砂煙と舞い散る木の葉の中に何か人型の黒いものが跪くように蹲っているのが見えた。
そしてその奥では人狼が真っ赤な目を細め蹲っているものをがなんなのかを伺っている。
すると蹲っていた何かは突如黒い稲妻みたいに人狼に襲い掛かった。その風圧でいっきに周りの砂煙が晴れ、黒い何かの姿を確認することができた。
黒い騎士。
洗練された美しい銀の装飾が、電気信号を送る神経のように何か紫色の光を全身に伝え、ベルトに巻いたボロの栗革色の腰布は風を受けたなびいている。
左手に持った盾にはローゼンクライツ城の所属を表す紫の薔薇が刻まれ、右手に持った武骨な黒い剣は空を斬り地面に突き刺さっていた。人狼が躱したからだ。
正直、私はそれを味方だと思えなかった。ローゼンクライツ城の盾を持っているから普通に考えれば味方だとすぐにわかるはずだけど、さっきまで置かれていた状況がいきなり意味も分からず好転すると期待していなかったから、混乱した頭では今はただ逃げる事しか思いつかなかった。
だから、人狼が黒騎士に気をとられている今がチャンスだと思って、ローゼンクライツ城の方に向かおうとすると、いつの間にか後ろに立っていたノワール様にぶつかった。
「ノ、ノワール様...!」
よかった!味方に会えた!
ようやく孤独から解放されたような気がして、私はヘタリとその場に座り込んだ。安心したら一気に全身が重くなって、その場から立ち上がることもできなくなった。
「セリナ。あなた、つくづく運がいいのねぇ」
皮肉るように、小声でノワール様は言った。ノワール様は私の横を通り過ぎ、人狼と睨みあう黒騎士に向かって手をかざした。するとまた、黒騎士の全身に施された銀の装飾に紫色の光が廻った。
ノワール様は黒騎士から目を離さずに私に言った。
「セリナ。見ておきなさい。死霊術に何ができるか、あなたに見せてあげましょう」
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