第2話 異世界の森の中を全身黒ラバースーツで全力疾走
気が付くと俺は、暗い黒い森の中に立っていた。全身黒ラバースーツにガスマスク姿で。
そっと腕を抱くとまだミクさんの温もりが残っているような気がした。
そこで気づく。体格が前の世界の整然と変わっていないようだ。
転生だと聞いていたからてっきり赤ん坊からやり直すかと思っていたのだが、すぐに活動できるのはありがたい。
まあ確かに全身黒ラバースーツにガスマスクを標準装備した赤ん坊が生まれてくることになるよりは断然平和だ。
「森の中か……草木でラバーが破れないといいけど」
俺はあたりの茂みに体をかすめないように慎重に歩を進める。
すると、先ほどまで聞いていたあの声が聞こえた。
「(……勇者よ……聞こえますか……私です……貴方の脳内に直接語り掛けています)」
「どなたでしたっけ」
「(……私です、私)」
「詐欺ですか? 間に合ってます」
「(……イツキさん、ひどいです)」
「ああ、ミクさんか。いきなり勇者とか呼ぶから戸惑いました」
「(……むう)」
「それでどうしましたミクさん。デート直後に電話をかけてくる彼女みたいな勢いで」
「(……彼女じゃありません。貴方の運命の女神ミクです、勇者イツキよ)」
「はい、それでご用件は何でしょう」
「(……貴方が身に着けているラバースーツですが、女神の力でとっても強化しています。ヒグマに引っ掻かれても破れません)」
「すごいな、それは。ヒグマに引っ掻かれたことないけど」
「(……なので、草むらでも気にせず歩いて行っちゃってください、勇者よ)」
「ありがとう、教えてくれて」
「(……はい。道中お気をつけて)」
通話終了。
俺はミクさんの声に従い、森の中を慎重に進んでいった。
この新しい世界というものがどういう場所なのか、詳しくは何も聞いていない。この世界に俺がやってきた理由もまだ詳しくはわかっていないのだ。そういうことも少しずつ自分で探っていくしかないのだろう。
「そういえばこの世界って魔物とかいるのかな」
俺は敢えて口に出して自問する。
ミクさんからの助言を期待したが、そういうことは教えてくれないようだ。
「言葉も通じるかわからない。そもそも呼吸とか食べ物とか大丈夫なのか?」
「(……勇者よ。その辺は大丈夫です。その世界に合わせた体を再構成しています)」
「あ、それは教えてくれるのね」
ミクさんは2回目の質問には即答してくれた。ちゃんとこちらの発言を聞いているらしい。
「(……貴方がこの世界で調査できないことは教えてもいいという制約になっています。なので独り言をせずに気軽に私に呼びかけてください)」
「わかりました。自分で調べられることは調べて、困ったら素直に頼ります」
「(……はい。お待ちしています)」
新しい世界の暗い黒い森の中に一人で放り出された、というわけではなかった。それを感じることができて良かった。
俺はさらに森の中を進んでいく。
3時間後。
「さすがに無目的に歩き回るのはよそう」
そう悟った俺は偶然見つけた湖の横で開けた場所にある岩に座った。暗い黒い森から一歩出れば明るい日差しが照り付けている。
歩き続けても平気な体になったというわけではなさそうだ。3時間も歩けばラバースーツの中は汗でぐちゃぐちゃになっている。
ちょうど泳げそうな湖もあるので一度体を洗った方が良いかと思ったのだが、そうも言っていられない事に気付く。
「おい、おいおいおい……」
俺が今まで歩いてきた道の方を振り向くと、横に2つ並んだ赤い光が俺に向いていた。
その2個1組の光が、ひとつ、ふたつ、みっつ……。
俺から一定の距離を保って待ち構える何かの群れが、暗い黒い森の中にいたのだ。
「そりゃそうか。魔物かどうかはわからなくても、こんな森には野生の獣はいるだろうよ」
俺は赤い光から目をそらさずに、座っていた岩からゆっくりと立ち上がる。
俺は武器を持っていない。
格闘技もできるわけじゃない。
魔法の力に目覚めた様子もない。
だが、ここで終わるわけにはいかない。
俺には何もない。
いや、ある。
見守ってくれている女神と、勇気が。俺にはある。勇者らしいからな、俺は。
俺は注意深く様子をうかがってタイミングを見計らう。
「ちくしょう、コイツらは"どっち"だ? "慌てて逃げたら襲ってくるタイプ"か、"ゆっくり逃げたら見過ごすタイプ"か。って結局逃げなきゃダメだよな」
俺が少しずつ湖を迂回するように後ずさると、距離を保つように群れの先頭の1匹が日の光の中にその姿を晒した。
狼のような四足歩行の獣だった。額の中央からまっすぐにドリルのような角が生えていた。
そいつが赤く光る眼を細めて身をかがめるような予備動作をすると、他の獣たちも横に並ぶように一斉に陰からのっそりと姿を現した。その数、あわせて5頭。
グルルという唸り声。俺の体のどこに噛みつこうか見定めているかのようだった。
暗い黒い森の中では俺の黒い身体の輪郭がはっきり見えなかったのだろう。日中の日差しの中の黒い人体はさぞ形がわかりやすいのだろう。
覚悟を決めた俺は獣たちが動き出す前に奴らに背を向けて暗い黒い森の中に飛び込んだ。背後から聞こえる石を蹴り飛ばす音。敵も走り出しこちらに向かっているのが見ずとも分かった。
「うおおお!」
草葉や小枝が体をかすめるのも厭わずに俺は森の中を全身黒ラバースーツで力の限り走った。
「ぐあああ!」
10秒も経たないうちに追いつかれた。
そして飛びかかるようにしていきなり肩を噛まれた。
「痛い痛い痛い!」
ミクさんが言った通りラバースーツは獣に噛まれても破けなかった。
だが、尖った牙が激しく食い込んでくるのは全く防げていなかった。破れないというだけで痛いものは痛いのだった。
最初は先頭の1匹だけだったが、追いついてきた他の獣が両足を噛み、俺はたまらず転倒した。
「こんっな……無理だろ、ええ?」
獣は何度か俺の顔にも噛みつこうとしたがガスマスクはさすがに強固で獣の歯を通さなかった。
獣たちは何度噛みついても皮膚が破れない俺の体を警戒し始め、蹂躙しながらも今度は前足を振りかぶり爪を立てようとしてきた。
「ちくしょう、始まったばかりじゃねえかよお」
俺は何とか抵抗しようとがむしゃらに手を振り回した。
突っぱねようとした手に何かがぶつかる。爪を立てようとした獣の前足だ。分厚くがっしりした肉球が手のひらに合わさる。
その瞬間。
じゅぱっ
俺の体の表面、黒いラバースーツが波打ち、膨れ上がり、流れた。
一瞬の出来事だった。
俺の体を包み込んでいたラバースーツがめくれあがり、合わせた手を中心に裏返るようにして目の前の獣を包み込んだ。
獣の手を合わせていたはずの俺の手の先に、黒い風船のように大きな球体ができあがった。
ほかの獣たちは突然現れたそれに驚き飛び跳ねて逃げ出していった。
俺も驚いて手を離すと、球体はしぼんでいき四足の獣の姿になった。まるで、ぬいぐるみを詰めた風船の空気が抜けるかのように。
ラバースーツが脱げて暗い黒い森の中で全裸になってしまった俺は心細さを感じながら足元の黒い塊を見下ろす。
黒い塊は自分の体がゴム膜に覆われたことに激しく抵抗していたが、やがてぐったりと倒れた。
とりあえず直近のピンチは退けたようだけれど、さっきの残りの獣がまた帰ってくるとも限らない。
それに、こいつら以外の危険生物がまた襲ってくるかもしれない。どうしたものか。
俺は例の女神に頼ることにした。
「おーい、ミクさん。コレどうなってんの」
暗い黒い森の中でとりあえず空に向かって呼びかける。返事はすぐに返ってきた。
「(……勇者よ。それが貴方に与えた力のひとつ。手を合わせた相手を貴方の新しいスーツにする力です)」
「新しいスーツ」
「(……その獣ともう一度手を合わせるのです。手を離してしまったのでスーツ化が中断してしまったようです)」
ミクさんに促されるまま、俺はおっかなびっくり手を伸ばして獣の前足を掴む。
獣の表面を覆っていたラバースーツが溶けるように毛皮の中に入り込んでいき、獣の姿に戻った。だが同時に獣の体までしぼんでいき、脱ぎ捨てた毛皮のコートのようにぺしゃんこになって森の地面に横たわってしまった。
「(……ご覧なさい。その獣の背中に大きな穴が開いているのがわかりますか?)」
毛皮を拾い上げて広げると確かに獣の背中に穴が開いていた。まるで、そこから着込めと言わんばかりに。
俺は毛皮を着たいという衝動にあらがえず、片足をその穴に突っ込んだ。
「ウッ……、なんだコレ。足の形が全然違うのに、しっかり入る。それにもう指先まで動く」
俺はすぐに残りの足も入れ、腰も、胴体も、両腕も毛皮の中に入れた。最後に頭も突っ込むと、自動的に背中の穴がふさがっていく。
俺は四つん這いになり体の隅々の感覚を確かめる。
元の体の骨格を思い出せないほど、俺は完全に獣になり替わっているのを感じた。
「(……まあ可愛い。……こほん……いかがですか、勇者よ。『別の何かに』なった感覚は?)」
俺は別れ際にミクさんに言った自分の言葉を思い出す。
『別の何かになりたいっていう変身願望』だ。
今の状況は確かに自分の願望が叶っているようだ。
なかなか良いぜ、ありがとうミクさん。
例を伝えようと口を開いた俺から出てきた言葉は、
「ワン! ワンワン!」
……あれ?
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