第19話 悪夢の始まり

「こんにちは。初めまして」


 感情が感じられない抑揚のない声をかけられ俺は目覚めた。

 スタジアムだ。見上げると観客席に囲まれているが、そこに入るはずの観客は一人も見当たらない。

 立ち上がり、声が聞こえた方を見る。そこにはなんの魔法かは知らないが、宙に浮いた背の高い女の人が立っていた。

 長い黒髪を風になびかせ、鋭い瞳の色は闇よりも深く思える。声には感情というものの一切を感じることが出来ず、どこか機械じみた不気味さを感じられる。


「君は、この世界が理不尽だと思ったことはない?」


 唐突に、宙に浮く女は歩み寄るように俺の元へと近づいてくる。

 女の出したその質問の意図はよくわからない。ただ、答えようとは思えなかった。女の深い瞳には常人には感じられないような狂気を感じたからだ。


「私はね、この世界を壊したい。どう?君も一緒に」


 黒い闇の篭った瞳を俺へ向けながら女は逆さになって近づいてくる。少し前に出れば頭が当たるくらいの距離だ。

 怖気づき、一歩後ずさってしまう。それを見て女は口の形を綺麗な三日月に歪める。

 得体の知れない恐怖。感じたことのない困惑が心の中で蠢くのがわかる。

 姿勢を正しく戻し、俺と視線を合わせる。一度大きく笑った後、突然真顔に戻る。

 光の籠らない、闇を体現したような瞳に飲み込まれてしまいそうになる。


「どう?いい案だと思わない?」


 距離を詰めてくる女から逃げようと足を動かそうとするが、ピクリとも足が動かない。恐怖による錯覚ではない。明らかに何者かに足を掴まれている。

 女の黒い瞳に俺だけを映してにじり寄ってくる。

 世界を壊す。なんて事を俺ができるとは思わないし、やろうとも思わない。最初から答えは決まってる。決まってるが、それを言うための声が出てこない。


「…………そう、あなたは私とは違うの。折角の仲間だって言うのに。ハンニもういいわ」


 そう言うと足元を掴まれていたような感覚は消え去り、後ろへと飛ぶことが出来た。

 額に浮かんだ汗を拭い、正面の女を見据える。先程までの不気味な笑顔はなく、こちらを睨みつけている。


「私はもう目的を達成したんだけど……もう一つ目的が出来た」


 言うと同時か言ってからかはわからなかったが、突然俺の体は激しい痛みと共に後に飛ばされた。

 何をされたかわからない。何故俺はこんな痛みに襲われている。


「何が起こったかわからないよね」


 今度はしっかりと捉えられた。

 頭上に女の右足が降りてくる。直撃はダメだ。何とかして防がなければならない。


火鳥フレイムバードッッ!!」


 寸前で起動した魔法が直撃前の女の右足へと食らいつく。魔法を発動した反動で下へと風圧により飛ばされ、直撃を避けることは出来た。が、女の蹴りの風圧で飛ばされ、地面に叩きつけられる。


「がっ……」


 自由落下の勢いで降りてくる女の攻撃を体の痛みに耐えながら、横へ転がることで何とか回避する。

 立ち上がろうとし、足に力を入れる。地面に付いていたはずの足は突如空中に放り出され、勢いのまま地面に転がる。

 何をされたか未だわからず、即座に女の方へと向き直るが、女はその場から動いてはいなかった。

 地面に転がり、痛みが広がる腹部を抑える俺を見て女は嬉しそうに笑みを浮かべる。その顔は教室に現れた悪魔を連想させる程の邪悪さで、同じ人間から放たれているものとは到底思えない。


「おぉ……まだ立てるんだぁ……」


 目を細めて口元を大きな三日月にして女は笑う。まるで大切な何かを見つけたかのような表情にも思えるが、今は恐怖の方が強い。


「あぁ……」


 恍惚とした様子で女は体を抑えて身震いし、赤く染めた顔で俺を見やる。

 光のない闇の瞳で俺を見つめ、女は少しだけ荒くなった息を沈めるように深呼吸をした。


「ごめんね……もう、我慢出来ない」


 その言葉と同時に女の姿がそこから消えた。目で追っても恐らくは反応できない。であれば気配を感じ取るしかない。

 目を閉じて、呼吸を整える。体の痛みは未だに引かないが、その痛みに気を取られていてはダメだ。集中し、耳を澄ます。

 女が高速で、俺の目に捉えきれない程の速度で迫るのならば必ず、風を切る音が聞こえるはず。その瞬間を――――


 突然、左腕の感覚に違和感を感じた。

 なんというか、歪な、不自然を感じる。

 左腕を見る。脳がその行動に警鐘を鳴らしていたが、どうにも目が左腕に引き寄せられる気がしてならない。


 左腕は――――――無かった。


 肘から先が無かった。千切られたような断面で、歪な肉が血と共に地面に落ちている。よく足元を見てみれば、何か、赤い、紅い、水溜りが出来ていた。

 それは――――熱い、熱い、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。


「がっ…………ぎ……ぁぁぁあああああ!!!!」


 感じたことのない痛み。叫び声によって力んだ体からは血が塊のようにこぼれ落ち、嫌な錆の匂いが鼻腔をくすぐる。

 思考が正常に回らない。痛みに支配される。

 筋肉の繊維、千切れた骨、滴る血肉、視界に入るだけで痛みを感じる。想像を絶する痛み。

 視界すら滲み、目からは自然と涙が流れる。

 無い左腕を抑え、地面にみっともなくのたうち回る。

 抑えている右腕はすぐに赤く染まり、制服すら赤く変色させる。


「いいわぁ……その表情、その声、その姿……そして、この腕」


 滲む視界の中、辛うじて捉えることが出来た女の手には真っ赤な中に一際目立つ白が入っている『何か』が見えた。

 それは千切られたように歪な断面で、赤い水を流すモノだった。

 女はそれを頬に当て、満足そうに、火照った体を沈めるように体をくねらせる。


「その声、もっと聞かせて……」


 続く女の攻撃は避ける意思さえ湧き上がらなかった。

 無くなった腕からまたしても同じかそれ以上の熱さ。熱。熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱――――


「――――――ぁ、ぎ、ぁぁぁ」


 口から空気と共に漏れたのは自分でも聞いたことのない音。

 左腕の違和感。第三者に骨を触られる感覚。左腕に女の腕が刺さる不自然さ。

 そのどれもが不快で、熱くて――痛い。


「あ、ダメ。ハンニ!」


 女が何か焦ったように声を上げると、突っ込まれていたはずの左腕が軽くなり、地面に倒れる。

 既に痛みを叫ぶ程の力は残されておらず、相手を憎む余裕すらない。

 自分の現在の様子すら曖昧なまま、目を閉じた。


『お前は計画性が無さすぎるんだ』


「しょうがない。少し気分が良くなっただけ」


 途切れゆく意識の中で女が脳に響くような声で喋る男と会話する声だけが耳に聞こえた。


 ※ ※ ※ ※ ※


 私の隣にいたロイ様が突然姿を消した後、私たちの教室にいたあの悪魔も姿を消した。

 私は主人の危機に何をしている?何故守れなかった?何故助けられない?何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故――――


 冷静さを欠いてはダメだ。今はロイ様の居場所を突き詰めるのが先。自分を責める時間じゃない。

 居場所には大体の見当がついていた。

 悪魔がいなくなったことにより、教室内には恐怖と混乱が跋扈ばっこし、クラスメイトは皆学校内へと散らばった。

 他の学年、学級の人達も一緒になって混乱を招き、場は想像を絶するものとはなっていた。

 泣き叫ぶもの、怒りを抑えきれないもの、恐怖により心を壊されたもの。

 今の校内は既に取り返しのつかないものになっている。

 そんな、皆が我先にと逃げていく中私はその流れに逆らって校内に残り続けた。


「ねぇ、クロト。少し落ち着きましょう」


 後に立つ少女は、寂しげな瞳を私に向けてそういった。

 彼女だけは私と共に残り、ロイ様を見つけようとしてくれている。


「職員棟への道と高等部への道は閉ざされ、中等部の一室、生徒会室には入れなかった。そしてここ……スタジアム」


 そう。私たちは今、スタジアムの目の前に立っている。

 手当り次第に目に付く教室を調べていき、ロイ様を探して回ったが、どこにもいなかった。

 消去法から様々な場所を探して回り、最終的にこの場所。スタジアムまで到達した。

 ここには職員棟への道にあったような透明な壁がない。恐らくはここが正解。この中にロイ様はいる。


「ここ……スタジアムからは嫌な……そう、本能が嫌がる気配を感じるわ」


 エリカはそう言うが、私は感覚が壊れているのか何も感じ取ることが出来ない。

 とにかく今はロイ様の安全が優先。私自身の安全なんてどうだっていい。


「ちょっと!聞いてる!?ここから先はきっと入ってはダメよ!!」


 エリカが私の腕を掴む。力が込められたその腕を思いっきり、力の限り振りほどき、私は構わずスタジアムへの一歩を踏み出した。


『ようこそ。お待ちしてたぜ』


 目の前に現れたのは宙に浮く悪魔だ。浅黒い肌。通常白目であるはずの場所が黒く染まり、瞳の色は真っ赤になっている。特徴的なのは頭に生えた二本の鋭い角。

 体躯は小さく、一見すれば子供のようにも思える。そんな体躯と同じくらいの長さの髪は血のような赤色で、手入れなどするはずもないのであまり整っているとは言えない。

 ゆったりと空中を漂い、悪魔は私たちを交互に見る。視線の動きが止まり、口が裂けたように笑って、


『招待状だ、受け取れ』


 そう言って私たちはスタジアム内に飛ばされた。


「……転移魔法?」


 エリカが声に出したそれは聞いたことのない魔法だった。


「何それ」


「その名の通り人や物を特定の場所に転移、移動させることが出来る魔法。古代の魔法で現代の魔法技術では再現不可能な魔法よ」


「そう……それで、ここにロイ様は――――」


 言葉にして、周りを見渡して気づく。私たちは今スタジアムの観客席にいる。

 であれば見下ろすのは当然その下にあるだだっ広い地面だ。

 そこにいたのは見慣れた黒い髪の少年――ロイ様だった。


「ロイ様ッ!!!!」


 叫ぶ。声が届くように。ロイ様がこちらに気づけるように。

 だが、ロイ様が声に気づく様子はない。

 力なく地面に座り込み、体の左側を抑え込んでいる。

 近くにいるのは長い黒髪の女だ。何やら女はロイ様を見下しながら、嬉しそうに頬を赤く染め上げているように見える。


「ハンニ!」


 突然女が大きな声で何かを呼んだ。すると、私たちの背後、通路の方から黒い影が地面に降り立っていくのが見えた。

 それは先程の長髪の悪魔だった。

 悪魔と女は一言二言何かを交わし、ロイ様へと向き直った。


「何してる!!ロイ様から離れろ!!」


 今すぐここから飛び降りてロイ様の元まで駆けつけたい。が、目の前の見えない壁にそれを遮られる。

 長髪の悪魔がロイ様に掌を向けると、ロイ様は人形のように地面に倒れ伏した。

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