百合なんて滅べばいい 前編


「私の言う好きは、『恋』って意味……だよ」


 親友だと思っていた子にそう言われ、私は目の前のその子が急に化け物に変わってしまったような錯覚を覚えた。


「なに……それ。私たち同性だよ?」


「そうだけど、ほら。百合ゆりとか言うでしょ? 私は真剣に宇月うつきちゃんのこと──」


「やめてよっ、触らないで!!」


 手を払い退け、思い切り拒絶した瞬間の彼女の顔を、いまだに忘れられないでいる。


 それは中学時代の苦々しい思い出。私の人生の価値観に大きなヒビを入れた出来事。

 脳裏に焼き付いたあの痛みを思い返すたびに思う。


 同性愛なんて吐き気がする。

 百合なんて滅べばいい、って。



       □   ■   □



 下心を向けられるのが苦痛で仕方ない。

 そんな私が進学先に女子校を選んだのは必然だった。


 入学して二週間ほど経てばクラス内のコミュニティはほぼ固まると言っていい。

 あまり他人と関わりたくないけれど、さりとて一人でいることにも耐えられない小心者の私は、そのうちの一つにどうにか潜り込むことに成功していた。


 目標はできるだけ目立たないようにしながら過ごすこと。間違っても、好意を向けられたりしないように。


 そうやって無難に時間を浪費する昼休みのこと。


「子どもって何人くらい欲しいもん?」


 四人のうちの一人から発されたそんな言葉に、まるで心臓を握りつぶされたような痛みが走る。


 くっつけた机を囲む友人たちは、薄く笑みを浮かべて先の質問に反応を返した。


「えー急になにぃ?」

「昨日さ、大家族の番組見て、楽しそうだなって」


 ただのよくある世間話の一つだ。早く終わって別の話題に行って欲しい。

 だが以外にも興味を引いたようでみんな食いついてしまう。


「わたしも見たぁ。すごかったよね」

「あー、うちはあんな無理だわぁ。いうて三人くらい?」

「じゅうぶん多いじゃん」

「その前に彼氏作れし!」

「無理。夢くらい見せてよ」


 やりとりが進むにつれ、心臓の拍動がどんどん早くなっていくのが自分でも分かった。背中を変な汗が流れていく。私は必死に気配を消して菓子パンを口に詰め込んだ。早くここから立ち去りたい一心で。


「ねぇ宇月うつきさんは?」


 ぎくりと肩が跳ねる。話を振られてしまった。

 無視するわけにもいかず、私は目を泳がせて口角を引きつらせた。


「や、私そういうのないし」


「えー? あるでしょ。男の子と女の子どっちがいいとかさ」


「いや、ほんと、ないから」


 私が照れていると思っているのか、どれだけ避けようとしてもしつこく訊いてくる。彼女たちに悪気がないことは分かっている。けどありがた迷惑だ。


 マズイ、せっかく胃に入れた栄養が無駄になる予感がする。


「うっ──」


 案の定、喉を熱い液体が駆け上がってきた。


「ごめっ、むり」


「ちょっと、宇月うつきさん!?」


 ──駄目だ止められない。

 口を両手で押さえた私は耐えきれず席を立って教室を飛び出した。



       □   ◆   □



 初めてが危うく母親の彼氏になりかけたのは、私がまだ小学三年生の夏休みのことだった。


 何でもない昼下がりだった。家に出入りするようになったその男を、私は特に警戒もしていなかったはずだ。


 突然腕を掴まれて引き寄せられた。大きな体が私に覆いかぶさる。何が起きているのか理解が追い付かない。声も出ないまま上半身の服を剥ぎ取られ、私は遅れて込み上げてきた恐怖に悲鳴を上げようとした。


 だが声は出なかった。ギラギラと欲望に縁どられた瞳に射すくめられ、喉が干上がったように掠れた吃音しか飛び出てこない。


 の詳細を知らずとも、自分が何かしらの危機に瀕していることは分かる。けれど必死にもがいても拘束はびくともしなくて、抵抗は意味を成さない。荒い呼吸が鼻をかすめて気持ち悪く、楽しげな引きつり笑いは耳を腐らすようだった。


 あいつが自分のズボンのベルトに手をかけたその時、母親が帰って来てくれて事なきを得た。


 その後のことはよく覚えていない。記憶に残っているのは焦ったような怒鳴り声にヒステリックな泣き声と、私にしようとしていた行為をあさましくも母にぶつけて励む男の姿。そして自分の吐しゃ物の生ぬるさ。


 以降、母は家に男を連れてこなくなった。それは親としての優しさや憐憫れんびんではない。母は私が男を誘惑して自分から奪うと、馬鹿馬鹿しくも本気でそう考えたらしかった。



       □   ■   ◇



 口をゆすいで顔をあげる。鏡に映った私の顔は面白いほどに青ざめていた。熱くなった目頭を押さえる。情けなくて泣きそうだった。


 あれ以来、私は自分に向けられる性的な視線に耐えられなくなった。


 それどころか、将来をすることを前提とした話題にすらこうして拒絶反応が出てしまう。


 だから、男子と同じ空間にいるのは耐えられない。たとえ彼らにその気がないとしても関わりたくないのが本音だった。


 だって、男女の友情は成立しないって考える人は多いし。つまり愛を深めていくとすべて性愛に行きつくってことでしょう? だったら迂闊うかつに交友など持てるわけがない。


 だから女子とだけ仲良くしてきたのに。女性は無条件に私の味方なんだっていう幻想は中学時代、かつての親友によって無残にも打ち砕かれた。


 もはや全人類が私の敵に見える。心の休まる時間がない。いっそ一人でいても平気な精神構造をしていればいいのに。体育祭とか一致団結とかの集団行動が好きな自分の本質が憎い。


 とはいえ女子のああいうノリも正直キツいんだよなぁ。


 トイレから出ると、ちょうど見覚えのある子とすれ違った。


 ぼさぼさな黒髪に低身長。全方位を威嚇するようなジト目三白眼が睨みを利かす。まるで手入れを放置されて怨念おんねんを溜め込んだお人形さんみたいだ。整えてあげれば十二分に美人さんになるのになと見当違いの感想が漏れる。


 少女は小柄ながらも背筋を伸ばし颯爽さっそうと廊下を進んでいく。道行く生徒が思わず道を開けるほどのオーラを全身から発していた。


 守護霊がこの世にいるとすれば彼女のそれはサメだろうなと思う。たぶんホオジロザメ。


 確か同じクラスの淀補よどほ灯南ひなみさんだ。


 どうして彼女の名前を憶えているかと言えば、彼女が誰とも関わらず独り浮いて、なのに毅然きぜんとしている頼もしい姿が強く印象に残っていたからだった。


 思わず目で追っていると、彼女の後頭部に折り鶴が突き刺さっているのに気づいた。しかもあれ、足生えてるタイプだ……。わざと付けてるわけじゃない……よね? 自分の後頭部であんなおっぴろげポージング取らせるオシャレ概念はパリコレにだって不在だよ。


 そういえばさっき、クラスの中でアレ量産して投げつけて遊んでる連中いたっけ。淀補よどほさん髪がもさってるから飛んできたやつが知らず絡まったんだろうな。


「よ、淀補よどほさん待って。頭がえげつないモノに……」


 さすがに見て見ぬふりはできず、言いながら駆け寄る。しかし伸ばした手は乾いた音と共に弾かれた。

 振り返った淀補よどごさんがキッと私を睨み上げる。


「触んなっ!」


 予想外に憎しみの籠った怒声に一瞬、過去の自分がフラッシュバックする。あの時と立場は逆だけど。

 私は喉を絞められた思いで笑みを引きつらせた。


「ごめんっ、私なんか、そんな嫌われるようなこと、したかな?」


 泥棒猫でも見るような剣幕だったので思わず震え声で見つめると、


「ああ? お前のことなんか知らないよ。人間なんかみんな大嫌いだ。触られたくなんかない」


 放置された生ごみに発生した赤蠅を見るような睥睨へいげいで少女は吐き捨てる。


 あ、折り鶴落ちた。


 気のない素振りで去っていく小さな背中が輝いて見える。


 この子と友達になりたい。

 この子となら、絶対に安心できる。

 天啓のように爆誕したその感情に、私は突き動かされた。


 その日の放課後から私のアタックは始まった。


淀補よどほさん、帰りはどっち方向? かぶってるとこまで一緒に居ていい?」


 靴箱で待ち伏せし、


灯南ひなみさんお昼いっしょに食べよ」


 机に押しかけ、


灯南ひなみちゃーん。今日提出の宿題終わってる? 私も忘れたから怒られるの二分の一で済むね。やった」


 どれだけウザがられようと毎日のように話しかけ続け、ついに──


「ねぇ灯南ひなみちゃ……あれ? どうしたの?」


「…………ちゃん付け嫌い。灯南ひなみでいい」


 口内の隅々に溜まった苦々しい唾を吐き捨ててしまいたいのを堪えるような表情でそう言われ、私は二か月近くかけてついに彼女の友人の座を得たのだった。


 周囲からちょっと拍手が湧き起こったのは何だったのだろう。ノリの良いクラスなのかもしれない。



       ◇   ■   ◇



 月日は流れ、文化祭の開催を視野に入れる季節。私はすでに薄暗くなり始めた廊下を駆けて教室に飛び込んだ。


灯南ひなみー! 終わるまで待っててくれてありがとう!」


 机でスマホを弄ってた灯南ひなみが、抱き着くように駆け寄った私をうんざり顔で見返した。


「止まれこっちくんな」


「えー」


「ベタベタされんの嫌い」


 何度聞いたか分からないセリフに私は安堵を覚える。

 触ろうと、近づこうとするたびに飛んでくる拒絶が心地いいなんて、私も頭がおかしいのかもしれない。けど何度も確かめたくて、ついスキンシップを取るフリをしてしまう。


 いつものように彼女に触れる直前で止まった私を灯南ひなみが見上げる。への字にした口から鋭い犬歯が覗き見えて可愛い。


「ったく、委員会の予定くらい把握しとけよ」


「だって実行委員がこんなに忙しいなんて思ってなくて。いつも急でごめんね」


 灯南は、『待ってて』って言ったら悪態つきながらも本当に待っててくれる。勝手に帰っても私が怒ったりしないって知ってるくせに。あんな一方的な約束ですらこの子は必ず守ってくれる。


 誰に頼まれなくてもこうして自分の思う正しいを貫ける。灯南ひなみみたいな子のことを真に『誠実』って呼ぶんだろうな。


 灯南ひなみと友達になれて良かったと何十回目かの感謝を天に捧げていると、灯南ひなみがいつもの不機嫌顔で視線をふいっと脇に逸らす。


「別に。宇月うつきは、僕に僕以上のものを求めてこないから、楽でいい」


「?」


「僕ができないことは求めないだろ」


「そうだっけ?」


「…………花火大会、無理に誘ったりしなかった」


「あぁ、そういえば」


 夏休みに隣町で開催された大きめの夏祭りに『一緒に行こう』って誘って『大きい音が嫌いだから無理』って返信来たからそれで諦めたんだった。無理をさせるのも悪いと思って。


 当然のことをしたつもりだったのに、こんな感謝されてたなんて。


 なんだろ、意図してなかったのに、灯南ひなみの理解者になれたみたいで、けっこう嬉しい。口角がだらしなくゆるんでしまう。


「顔キモイどうにかしろ。早く帰るぞ」


「なんかソワソワしてる?」


「別に、天気悪くなってきてるから──」


 今日は朝から雨だった。天気は最初から悪い。でも確かに、雨雲が分厚くなっている気がする。夜が近いだけかもしれないけど。なんて思った瞬間、窓の外でピカッと光った。どうやら遠くで稲光したらしい。遅れて落雷の音が届く。


「思ったより近いね。駅に着くまでに止むかなぁ……って、灯南ひなみ?」


 見失った小柄な体躯を探すと、彼女はなぜか廊下の端で停止していた。どうしたんだろう。近づいて顔を覗き込むと、固い表情で口を引き結んでいる。


「大丈夫?」


「も──問題ないっ」


 明らかに問題のある顔色で目を泳がせている。もしかして……


「かみなり、怖い?」


「っ!!」


 否定しようとしたのか大きく口を開けた灯南ひなみだったが、そこから言葉が飛び出すことはなかった。また雷が落ちたのだ。しかも今度は景色が暫時白じむほど近くに。間髪入れず轟く轟音に、さすがの私も身がすくむ。どうやら近くの公園の大木に落ちたらしい。窓に近寄ると、木からチロチロと煙が出ているのがここからでも見える。


「わぁ凄っ。こんな近くに落ちたの初めてだぁ」


 振り向いて笑いかける。けれど灯南ひなみはそれどころじゃなくなっていた。

 顔を真っ青にして肩を震わせている。額に脂汗をにじませ、呼吸が浅くなってるのが分かった。視線が定まらず何かに怯えるように自分を抱きしめ縮こまっている。


灯南ひなみ? 本当に大丈夫?」


 声をかけるが届いていないみたいだ。さらに近づこうとして私の影が灯南の顔にかかる。


 その瞬間、灯南ひなみが弾かれた様に駆けだした。灯南ひなみはあれで意外と足が速い。止める間もなく角を曲がる。


「えぇっ、どこ行ったの?」


 慌てて追いかけたのにもう姿が見えない。耳を澄ますけど足音は雨音にかき消されて、向かったのが上か下かすら判別できなかった。


 学校中を探し回る。靴箱のローファーは残されたまま。濡れた雨傘も半開きで私のそれと並んでいる。思いつく場所を手当たり次第に暴いていくけど、あの小さな姿はどこにもない。


「お? 宇月うつきちゃんやけに慌ててどしたの?」


「あっ田中さん、灯南ひなみ知らない?」


「なに、相方消えたの? こっちはぜんぶ施錠せじょうしてきたけど、部室棟のほうじゃ見てないよ」


「ありがと!」


 クラスメイトに礼を言って来た廊下を戻る。いったいどこに消えたんだあの子は。

 もう外は真っ暗だ。雨も雷も弱まってきている。残っている生徒も数えるほどだろう。


 そのおかげか、階段の下の、普段は誰も覗き込まない隙間からすすり泣きがするのに気づいた。いらない机や荷物を詰め込んだ埃だらけの空間。身をかがめ、ゾンビから籠城するバリケードみたいになってるそこを潜って進むと、やっと彼女を見つけた。


 灯南ひなみは一番奥の一番暗い場所で体育座りをしてすすり泣いていた。微かに声が聴こえる。


「違う……ごめんなさ…………ぼく、なにも……して……なっ」


灯南ひなみ?」


 呼びかける。小さく肩を震わせた灯南はちょっと顔を上げて私を見上げた。


「ぁっ……」


 頬が赤い。熱っぽい瞳には大粒の涙を湛えていた。

 いつもは強気で白く透き通るような顔が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。


 つい、生唾を呑んで喉を鳴らす。


 いつもの灯南ひなみじゃない。目の焦点が定まっていない。たぶん私を認識できてもいないんだろう。


 顔を拭ってやろうと袖を引き寄せ手を伸ばす。すると灯南ひなみは反射的になのか腕で顔を庇った。


 そのしぐさに理解させられる。

 ああ、大きい音が嫌いって、そういうことだったんだ。

 この子も心に傷を負っていたんだ。


 少しも気づかなかった。だって灯南ひなみはいつも気丈に振る舞っていたから。そんな子がこんなパニックを起こすなんて。


 きっとは、自己防衛だったんだ。

 私はそれを知らずに、自分が安心するために利用して。


 またどこかで雷が鳴る。さっきよりは遠い。けれど低い暴音は灯南ひなみの神経を無遠慮にひっかいてしまったらしく、歯の根が合わない様子で身体を震わせている。

 その指先が、私の袖を赤子がそうするように掴むのを見て、体が勝手に動いた。


 彼女の背中に腕を回して灯南ひなみをぎゅっと閉じ込める。灯南ひなみは腕の中で微かに暴れたけど、すぐ大人しくなってされるがままになった。小さいから私の腕にすっぽり収まっている。それを心のどこかで愛おしく思いながら、彼女の頭を優しく撫でた。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 安心させたくて、小さく、ゆっくりと囁き続ける。いったいどれだけの間そうしていただろう。灯南ひなみのすすり泣きはどんどん小さくなっていった。



       ◇   ■   ◇



 帰り道はずっと気まずかった。灯南ひなみは私の腕から抜け出したときから無言だ。駅に近くなってきたところで、灯南がやっと口を開く。


「その……セーター……汚してごめん」


「うん」


「普段は、あんなならないし。パニックもめったに起こさない。今後は絶対、大丈夫」


「うん」


「だから……ありがと」


 ぼそりと、聞き取りづらいほどに小さく呟く。灯南ひなみの耳は赤くなっていた。


 私は慌てて首を横に振る。


「いやいや、こっちこそごめんね。灯南ひなみが人に触られるの嫌いって知ってるのに」


 触れるどころかぎゅっと抱きしめてしまった。しかも逃げられないくらいの力で、抑え込むみたいに。

 これはどんな罵倒が飛んできても甘んじて受けねば。そんな覚悟は、予想外の声音に崩壊する。


「別に。宇月うつきって分かったから。……なんか、安心できた」


 そっけなく言って灯南ひなみが改札をくぐった。後を追うことはできない。私は逆の乗口だから。


「じゃ、また明日」


 やっと振り返った灯南の口元は、少しだけ柔らかく微笑んでいた。


 灯南ひなみが乗っただろう電車が行ってしまった後も、私はその場に馬鹿みたいに立ち尽くしていた。


 だって、心臓が止まったと思った。なのに鼓動はバクバクうるさくて、アナウンスもくぐもってよく聴こえない。分かるのは、自分の顔が酔っ払いより赤くなってるだろうことだけ。


宇月わたしだから? だって、そんな。それじゃまるで、私だけ君に触れることを許されたみたいな)


 そんな特別、許さないで欲しかったはずなのに。どうして胸がこんなに高鳴っているんだ。


 周囲から不躾に投げかけられる視線にやっと押されて歩き出した私の耳に、かつての親友の声が響くようだった。


『無理だよ。自分じゃ止められないから』


 違う。絶対に違う。そんなんじゃない。こんなのただの勘違いだ。

 何度も自分に言い聞かせるのに、その度に心臓が速くなって勝手に確信を深めていく。


『誤魔化すなんて、そんなの、太陽を滅ぼすくらい不可能なんだよ』


 あの時は簡単に追い払って退しりぞけられた涙混じりの告白が、いまさら私に追いついて。


 心をえぐった。

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