マタニティ・ドール③


 喜びもつかの間、婚約は破断となった。


 あの夜に持ちかけた件が問題になったわけではない。真相はもっと単純で、ユスィア様が駆け落ちして家を飛び出したのだ。


 しかも相手は庭師の男だったという。


 その知らせはつい二日前に届いた。サラエヴァラ家が言うには、両者の行方を追っているが手がかりも掴めていないとのこと。


 手紙の末尾には多額の示談金が提示されていた。


 これはもう、事実上の捜索打ち切りと縁切りを表していると考えていい。娘がいないのだから婚約も当然に白紙──いや二度と話題に上がることもないだろう。


 貴族の噂話というのはあなどれないもので、伯爵家が必死に隠蔽しようとしているユスィア様の事情はつまびらかに、元婚約者の私の所にまで届いていた。


 なんでも彼女は、庭師の子を身籠っていた可能性があるという。あの日お腹を抱えていたのは月経のせいではなかったらしい。


 お淑やかな顔をしてやることはやっていたということだ。その点に関しては私も他人のことを言えないけれど。


 でもこの時代にわざわざ男を選ぶなんて。私には到底理解できない。


 こうして世間で私は、婚約者に裏切られた憐れなご令嬢ということになった。両親は私が真っ当に傷ついて意気消沈していると思っている。使用人たちもどこか私を腫れ物扱いのように接してくる。


 実際は上手く子どもをはらめそうだったチャンスを逃して落ち込んでいるのだが。深く傷ついたことは事実なので、放っておいてもらえるのは助かる。


 とはいえ何時いつまでも寝室に閉じこもっていても気が滅入る一方だ。


 気を紛らわそうと部屋を出る。


 そういえば、あれからまともにリエルの顔を見ていない。いつもなら呼ばなくても部屋へ来るのだが。この間、少し突き放し過ぎたらしい。この辺りの加減は未だに理解が及ばない。


 まぁ、最低限の仕事はしているようだから病気ではないはずだ。


 私専属の侍女であるリエルは、小さいながらも個室を与えられている。普段通りならば今は彼女の休憩時間だ。運が良ければ会えるでしょう。


 物置スペースを作り替えた縦長い扉の前に立つ。ノックもせずにノブをひねった。一思いに開くが人の姿はない。簡素なベッドと木の机。あとは着替えを仕舞うケースが一つ。奥行きはあれど、横幅は私の身の丈にすら及ばない。これでも使用人部屋より恵まれていると言える。


 入るのは始めてだけどとても狭かった。立っているだけで息が詰まりそうだ。新鮮な空気を吸おうと開けっ放しの窓へ歩み寄る。


 部屋に私物はほとんど見当たらなかった。机の上にはからの鳥かごがあるだけだ。飼っていた小鳥に逃げられでもしたのかと観察すれば、どうにも生物を飼育するには簡素すぎた。ただのアンティークらしい。


 かごの中には羽の代わりに一枚の板が伏せて置かれていた。写真立てのようだ。風で倒れてしまったのだろうか。


 網の留め具を外して手を差し入れ、映るものを覗く。


 瞬間、背筋にゾクリと高揚が走った。


 あまりの衝撃にたたらを踏む。自分の口元が知らず笑みを浮かべていることに、私は遅れて気がついた。





「……失礼いたします、ニミ様」


 寝ずの番以外、誰もが夢の国へ落ちる深夜。控えめに扉がノックされた。ベッドに腰掛け、返事ともつかない意味のない言葉を口からもらす。入ってきたのは奉仕服を着たままのリエルだった。


 部屋に一歩踏み入り後ろ手で扉を締める。習慣通り、鍵をかけるのも忘れない。それに私は微笑んで、彼女を中ほどまで招き入れた。


 ひどく緊張した面持ちで視線をあちらこちらとさ迷わせているのが、蝋燭ろうそくのか細い灯りだけでも分かった。リエルは自室の異変に気づいたけれど、なんとか人目の途絶えるいつもの時間まで待っていたのだろう。これ以上らすのも可哀想で、私は一葉の写真を掲げてみせた。


「探しているのはこれかしら」


「──っ!」


 リエルの部屋の鳥かごからこっそり抜き取った写真を指に挟む。


 それは私の写真だった。ドレスで着飾り化粧をした姿。いつ撮ったのか写りが良い。壁に飾られた絵画のようだ。


 だが写真の首元にはペンで真横に引っ掻いた跡が幾重にもつけられ、その芸術性が台無しになっていた。まるでこの喉を切り裂きたいと言わんばかりに。


 薄暗くても、リエルは写真が間違いなく自分のものだと確信したのだろう。顔を真っ青にして震える手で口元を隠す。


「私を殺したいほど憎いの?」


 単刀直入に問うた。少女は泣きそうな顔で首を横に振り、私の言葉を否定しようとする。


「違いますっ、私は──きゃっ!」


 写真に誘われ近寄ってきた彼女の腕を掴む。そのまま引っ張ってベッドに押し倒した。立ち位置を入れ替え倒れた彼女に覆いかぶさる。


 舞い上がった風が蝋燭ろうそくの炎を揺らす。影が踊り、リエルの硬い表情をちらちらとあざ笑った。


「そうよね。貴女あなたが私を殺せるはずないもの。これは傷じゃない。首輪でしょう?」


 微笑んで指摘する。リエルは面白いほど顔を青ざめさせ硬直してしまった。


 私は彼女の細い体から身を起こし、脇に飾られたバラへ手を伸ばす。


 そこにはあの日、リエルが飾ったバラがあった。ただし純白だった花の面影はどこにもない。そこには水の代わりに私の血を吸ってほころんだ赤黒い花が満開に咲き乱れていた。


 そのバラを片手で丹念に茎から摘み取っていく。


「嬉しいわリエル。貴女は私の知らぬ間にこんなにも大きく」


 一輪、二輪ともいでいく。


「無様に」


 三輪、四輪、


「醜悪に」


 最後のつぼみまで丁寧に。


 全て摘み取り、手のひらの上でぐしゃりと握り潰してみせる。


「欲望をはらんでくれたのね」


 あまりの歓喜に声が震えた。

 

 私はただ、あなた欲望を注いだだけ。それだけで貴女は変貌した。を吸い上げ、内から己の色を造り変えゆくほどに。


 両手いっぱいになった花弁をはらはらとリエルの上に振らせてゆく。


 彼女は私の暗い歓喜を呆然と見上げていた。なぜニミわたしが笑っているのか理解できないというように。


 ああ、まだ自分でも気づいてないのね。


 貴女はこの手折られた花々と同じように、他者の情慾に染まりきった。自らの意思でそこまで堕ちたの。


 私の期待どおりの──いいえ。予想を遥かに超え育ってみせた。


 震える冷たい手を取り、私の腹部に押し当てる。


「リエルは私の価値観を知ってなお、私を孕ませたいと思う?」


 私が貴女を汚してとしてもてあそんだように。


 今度は貴女が、私をぐちゃぐちゃに塗り替える番でしょう?


 私の視線一つで意識が揺蕩たゆたう可哀想なリエルは、耳まで真っ赤にして唇を噛む。


「ニミ様はご婚約者に裏切られたショックで、周りが正しく見えていらっしゃらないのですっ」


「ええそうよ。私、血迷ってるの」


 ずっと前から。

 いいえ、本当は生まれたときから!


「貴女のせいよ、リエル。貴女のせいで私こうなっているの。そんな私に付け込んで、たぶらかして、貴族の立場も責務も捨てさせて、首輪を現実にしたいとは思わない?」


 誰もが口ずさむ純粋な愛なんて私には分からない。


 だから傷つけて。縛って。歪めて。私という人間の全てを貴女で剥奪はくだつして。


「いいのよ、リエル」


 それほど恋い焦がれているんだと私に知らしめて。


「ねえ、私の全てを奪い尽くしてでも、自分だけの所有物にしたいと願える?」


 腰に手を回し二人の距離をゼロにする。真っ直ぐ目をそらさずに甘く囁くと、リエルはやっぱり逃げられない。


 彼女の瞳の中に、仄暗い欲望の色が沸き立つのを確かに見た。


 鼻先にひときわ赤く染まった花びらを差し出す。リエルはそれを相変わらずの不器用な舌使いで舐めとり、喉を鳴らして嚥下えんげした。


「お願いリエル、私を貴女のためだけの人形ドールにして」


 肉の薄い身体を抱きしめてうたう。応えるように彼女の手が背中へ回って、私は耐えきれず笑みを深めた。


 ユスィア様、貴女は私に教えてくれました。

 受動的なだけでは望む未来は掴めないと。

 そして女は貴族なんかよりずっと、よっぽど愚かになれるのだと。


 始まるのは貴族の誇りと重責を捨て、さらに不便をいられる奈落の底への逃避行。


 私の人生を、この知恵も力も身分もない少女が握る心もとなさのなんと甘美なことか。貴族として歯車に従事するよりもよっぽど息苦しいことに思えた。


 リエルが私の首筋に唇を這わせ、秘め事のように囁く。


「愛しています、ニミお嬢様」


「………………そうね、ありがとうリエル」


 女は子を身籠みごもると変わるという。妊娠という現象に身体を作り変えられ、精神は嵐のように揺らぐ。そんな苦痛にさいなまれたなら何かが変わらなければむしろおかしい。


 私が貴女の子を孕んだら、私は変われるのだろうか。

 貴女を愛せるだろうか。

 私を愛せるだろうか。


 もしも変われたとして、果たしてそれは貴女が愛した私なのだろうか。


 答えはまだ、保留でいいだろう。


 それはきっと生まれてくる新しい命が教えてくれることだ。


 私は私らしくただ己の欲望のままに、貴女を利用してこのむせ返る快楽に身をゆだねよう。


 どうせ、微睡まどろむような良識や人間らしい豊かな倫理観など、この私にはまだ理解できないのだから。



           マタニティ・ドール 了


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