見知らぬ死体に一目惚れした話【後】



「────っは」


 網膜が光を取り入れる。焦点が徐々に合って、私は意識を取り戻した。何があったか瞬時に理解できない。ここは──私の部屋だ。開けっ放しの窓から夕日が差し込み、カーテンが風に揺れて、床には物が散乱し、時計の秒針が一秒ずつ進んで時を刻む、そう、部屋。


(そうだ私……。家に帰ったら物音がして、部屋に入ったら知らない男が。それでもみ合いになって、それから──)


 認識がようやく現実に追いついて、遅れて腹部に痛みが走った。視線を落とす。壁によりかかって脱力する体の腹部、中心からやや左にズレた位置に深々とナイフが刺さっている。


「っくぅ~~、痛っ」


 とっさに右手で傷口を押さえた。痛い。痛いし、熱い。焼けただれた杭にでも打たれたようだ。こんなに熱いのに身体は冷え切っていて、冷や汗が背中を伝っていく。呼吸がまともにできない。涙が滲んできた。このままでは死んでしまう。その確信がある。


(……いいじゃないか。どうせ生きていたってしょうがないもん。誰にも愛されず、見向きもされず、誰の記憶にも残らない、意味のない人生)


 そう薄い諦めが脳裏をよぎる。けれど思考と反発するように心には湧き上がる切望があった。


「死にたく……ないっ」


 口が勝手に本音をぶちまける。


 嫌だ、怖い。死ぬのは怖い。怖い、怖い、怖いっ。


 自分が居なくなっても誰も困らない、世界は何も変わらない、いっそ誰も私が死んだことに気づきすらしないかもしれなくっても。そんなふうに生きることになんの意味も見出せなくなって、失うものなんて何一つなくっても。


 それでもやっぱり、死ぬのは怖い。


 止められない震えが怖い。

 呼吸しても酸素が巡ってこない実感が怖い。

 血液と一緒に命がこぼれていく感覚が怖い。


 なにより死ぬのがこんなに痛いなんて、知らなかった。


「いや……」


 歯を食いしばって硬くなった身体を無理やり動かす。そうやって手を伸ばして、落ちていたスマホに指が触れた。


 無意識に画面のロックを外して、緊急通報ボタンを押す。


 通話先は決まっている。

 乾いた唇を震わせて、必死の声を上げた。


「……すけて。わたし……死ぬのは嫌!」



       ◇   ◆   ◇



 結論から言えば、私は一命をとりとめた。


 出血は多かったものの救急車の到着が早かったため危ういところで処置が間に合ったのだとか。医者には奇跡的と言われたが実感はない。


 私を刺した犯人も無事に捕まったらしい。やはりただのコソ泥だったそうだ。金に困って空き巣に入り、遭遇してとっさに刺した相手わたしが動かなくなったのが怖くて逃げたらしい。警察からそう教えられても私は特に相手を恨まなかった。


 いや、刺したあげくナイフをグリグリしてくれたことに関しては憎んでるけど。おかげで傷口が広がって出血が酷かった。めちゃくちゃ痛かった。


 けど恨んでいないのは本当だ。だって刺されたときは、このまま死んでもいいかと思っていたから。私が死にたくないと、生きたいと願えたのは、あの一目惚れがあったからだ。


 きっと私は死にたくないと強く願った自分を肯定できたから、ギリギリで目覚めることができたのだ。


 病院のベッドで上体を起こす。傷が痛まないよう体勢を気遣ってやりながら。


 両親は手続きのため一度顔を見せたきり現れない。見舞いに来る友達もいない。

 あれほど劇的な経験をして、奇っ怪な体験をしたって、私の人生に変わりはない。問題は何も解決せず過去も未来も暗いまま。けれど不思議ともう、以前のような鬱屈うっくつとした気分にはならなかった。


 外はすっかり日が暮れ切っていて窓に自分の姿が映っている。鉄の味がする唇にリップを塗ってやって、私は私の死体に恋をした数時間に思いをはせた。


 あれが死が差し迫って見た幻覚だったのか、はたまたただの妄想だったのか、それとも私があのまま死んだ“もしも”の世界を覗き見ていたのか……。真相は定かでない。


 考えても詮無せんなきことだろう。一つ確かなのは、あの恋があったから、今の私は生きているということだ。


 もっと自分を愛してあげようと思う。誰が愛してくれなくても。生きていたいと願えなくても。

 生きてることの意味を見出せない人生が続いていくとしても、それでも愛そうと心に決めた。


 だって自分のことを無意味に愛してあげられるのは、自分だけなのだから。死にかけて初めてそんな簡単なことに気がつけた。


 きっと私はあの奇妙な体験を生涯、誰にも語ることはないだろう。どうせ信じてはもらえないし、共感も得られないだろうから。だからあの記憶は一人でひっそり抱きかかえて、大切に仕舞い込む。


「私もあなたを、いとおしいと思うよ」


 小さく、あの時の自分に答えるように呟いた。


 そうしてこの無価値な人生を、無意味な愛情を携え必死になって生きるのだ。

 

 前向きに笑った瞬間、ガラスに映った自分の頸動脈にナイフが刺さった。見えない手に引き抜かれた切っ先は真っ赤に濡れており、遅れて首から血が噴き出す。


 無意識に首を触るがもちろん傷などない。そうこうするうちに虚像の私は絶命したようだ。絶望を浮かべた目でうなだれている。その暗く歪んだ瞳に私の心臓が早鐘を打った。


 背後で三回、静かで重々しい幻影に追いつくノック音。


 どうやら私の恋はまだ二転三転の理不尽を残しているらしい。



            了

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