百合

マタニティ・ドール①


 生命の神秘があられもなく解体されてから、四十年余りの月日が経とうとしている。


 妊娠のメカニズムは暴かれ、世界はついに子づくりに異性を必要としなくなった。


 用意すべきは互いの同意と遺伝子だけ。

 いつの頃からか男が産まれにくくなった我が親愛なる島国で、女性同士の婚姻が一般化するのは早かった。


 それは貴族でも庶民でも同じこと。


 そういう私も婚約者の性別は女だ。親同士がひと月前に決めたことだから、まだ互いに顔も知らない。私はその婚約者に今日、初めて会わねばならなかった。


 本来ならこれは喜ばしいこと。狭い領地しか持たぬリンジャー子爵家の娘が、恐れ多くも交易の要地を治めるサラエヴァラ伯爵家にとつぐのだ。


 全ては互いの利益のためである。婚約が急に決まったのは、リンジャー家の土地に新たな鉱脈が見つかったから。貴族にとって婚姻とは家同士の契約。恋だの愛だのとは無縁の政略結婚。私も貴族に生まれた身だ。それくらい理解しているし、不満もない。


 けれど私は、この結婚にちっとも納得していない。


 なぜなら──


「お嬢様、そろそろ出立の準備をなさるお時間です」


 控えめなノックと呼びかけに思考が途切れる。見るともなく眺めていた窓に入室してくるメイドの姿が映った。


「ニミお嬢様、お召変えを」


 赤毛の少女がスカートをつまみ会釈する。そばかすの浮いた頬を赤らめ、馴染みの少女が静かに扉を閉めた。


 私は浮かべた笑みを彼女の温度に合わせる。


「ありがとう、リエル。もうそんな刻限なのね。外を眺めていたら時間を忘れていたわ。あら? その手にあるのは」


 目が花束に吸い寄せられる。飴細工のように繊細に、幾重いくえにも重なる白い花弁たち。まだ半分ほどはつぼみのままだ。さかりはこれからなのだろう。


 おそらくはバラ科の花だろうけど、今まで見たことのない種類だった。


「旦那様がお取り寄せに。珍しい品種だそうですよ」


「へぇ」


 リエルは口以上に素早く手を動かし花をベッド脇の花瓶に生けてしまった。古い花を処分する彼女を横目に、純白の蕾へ手を伸ばす。手元でよく見ようと茎に触れると指先に痛みが走った。


「──痛っ」


「お嬢様!? ああ申し訳ありません! とげの処理が万全でなかったようですっ。すぐ治療をっ」


「大したことないわ。気にしないでリエル」


 慌てて部屋を飛び出そうとした彼女を静止する。この程度で医者を呼ぶのは大げさだ。血が出たのすら一瞬で、痛みは長く続かない。


 花を摘み取る代わりに開いた花弁を一枚千切った。白の花びらに指先の血をすりつける。綺麗なモノが汚れる様はどうしてこうも言い得も知れぬ高揚を感じるのだろう。私は思わず、朱に侵食された花弁へ口づけた。


 こくりと、リエルの喉が鳴るのが分かる。流し目を送ると彼女の顔が真っ赤に染まって、誤魔化すように焦って棄花の処理へ戻った。


「お、お嬢様は時間にルーズなところがおありですから! 早めにお声がけして正解でした。遅刻は許されませんよ? 今日はお嬢様にとって特別な一夜になるでしょうから」


「そうかしら?」


「ええ、ニミ様は素晴らしいお人ですから。きっとお相手の方と幸せになれますとも」


「でも私、相手の顔も知らないのよ」


「そのために今日、お会いになるのでしょう?」


 花を片付けたリエルは苦笑して私の背中に回った。彼女の意図を察し後ろ髪を掻き分けて前へ流す。背中のボタンをゆっくりと外され、私は開放感に息をついた。他の貴族はどうして一人で脱ぎ着できないようなこの服を不便に感じないのだろう。


 きっとこんなもので締め付けないと、若い自分を持て余してしまうのね。苦しいならいっそ全て脱ぎ捨てて発散してしまえばいいのに。そして満足したらまた、着せて貰えばいいだけのこと。


 とはいえ、そんな便利な侍女レディースメイドが誰にでもついているわけじゃない。彼女だってそう。リエルは私の侍女だけど、彼女を雇っているのはあくまでリンジャー家であって私ではない。出稼ぎ女でしかないリエルは嫁ぎ先にまでついては来られないのだから。


 リエルはやっぱり、私が窓越しに彼女の表情を盗み見ているのに気づいていないようだ。私よりも一つ年上の、ほっそりとした体躯の少女は、瞳に隠すことなく愛惜を宿して手を動かしている。いつもより時間がかかっているのは、あと少しで終わってしまう触れ合いの機会を惜しんでいるからか。


 リエルの小指が愛おしむように私の肩甲骨にあるほくろをそっとなぞる。走る甘いしびれを気づかないフリで流した。


「ねぇリエル。私、不安だわ」


「不安……ですか?」


 リエルが小首を傾げる。仕草が小鳥に似ていると思う。


「不安になることなどないではないですか。サラエヴァラ伯爵家の評判はしがないメイドである私の耳にも届くほどです。次期当主であるユスィア様も人格者であらせられるとか。ニミ様ならユスィア様と手をとり合い必ず、良き家庭が築けるはずです。ご両親ともそう楽しげに話しておられたではないですか。

 それとも此処ここに……リンジャー家に何か惜しむものでもあるのでしょうか……?」


 リエルの頬が期待に紅潮していく。私は彼女の期待を察しながら、全く違うことを呟いた。


「私、本当は子どもを生みたかったのよ」


「え……? こ、子どもですか?」


「貴族の女同士の婚姻だと、どちらが子を産むかは身分で決まるでしょう? 子作りも今では遺伝子の交配に過ぎないのだから、産むのなんて本当はどちらでも変わらないはずなのに、なぜか必ず身分の高いほうがはらむことになってる。それが貴族社会の暗黙の了解なの。だから私がどれだけ望もうと、子爵に過ぎない私がサラエヴァラ家に嫁いで子を産む機会は訪れない」


 滔々とうとうと語ってみせる。欲しがりなリエルは望む言葉でなったことに気落ちしながらも、私に話を合わせてくれるようだった。


庶民わたしたちとは逆ですね。庶民は妊娠と出産の苦痛を相手に押し付け合って裁判にまでなることがありますから」


「いつだったか貴女あなたがそう聞かせてくれたわね。リエルの聴かせてくれる話はいつも新しい発見に富んでいるわ」


「光栄ですニミお嬢様。爵位持ちの方々がそのような取り決めをなさるのは、庶民わたしたちのようなくだらない争いを無くすためではありませんか?」


 言葉に微かな棘を混ぜてリエルは喉の奥を低く鳴らした。どうやら機嫌をそこねてしまったらしい。理由は分かっている。けれど身分ある私は彼女の期待に応えることはできない。だからリエルが必死に沈めている想いには気づかないという顔で、表面上の会話を続ける。


「そんな美談じゃないと思うわ。……貴族は爵位という明確な身分差で相手を支配できるもの。だから安心して、子孫に自分が腹を傷めて命を繋いだって事実を残そうと思えるのよ。身分が上の者が、より後世に影響を及ぼせるように。でも領民たちにそんな具体的な差はないわ。だから相手に産ませようとするの。相手を支配したいから」


 着替えを終えて鏡の前に座る。リエルがその後ろについて、ブラシを取り出した。


「子を産ませることが、どうして支配に繋がるのです?」


 柔らかなブラシで私のブロンドをきながら彼女が問う。私はそれに微笑んでちょっと振り返った。


「貴女が言ったんじゃない。妊娠と出産には苦痛を伴うって。本来対等であるはずのパートナー同士が、妊娠の苦痛を一方にだけ押し付ける。それが押し付ける側の優位性じゃなくてなんだと言うのかしら」


「つまり産む側ではなく、産ませる側が優位に立っていると?」


「ええ、意識的にしろ無意識的にしろ」


「そこまでお考えでなぜ、ニミお嬢様は子を産みたいとお思いなのですか? お嬢様の理論ですと自ら劣位にお下りになろうとしているようです。僭越ながら、ニミお嬢様は貴族としての誇りを抱いておられると私は思うのですが……」


 私が貴族のしきたりに異を唱えるのがそれほど珍しかったのか。リエルは心の底から困惑しているようだった。どうやら彼女は支配される側に甘んじる考えを理解できないらしい。


 確かにこんなのは貴族の役割に準じてきた私らしくない。それだけ『子を産みたい』という欲望は根深く、洗っても立ち上る移りのように私を覆っているのだ。


 髪型を社交界流行の編み込みに結われた私は立ち上がり、少女に背中を向けて扉へ向かう。


「誇り……。いいえ、私にそんなものを口にする権利はないわ。私はいつも私のしたいことをしているだけですもの。それにせっかく国の歯車でしかない貴族に生まれたのよ。私は最後まで人形ドールでいたいわ。だからね、私は支配される側になりたいの。この願いは貴女では叶えられないでしょう、リエル」


 さっと顔を青ざめさせた侍女を部屋に置き去りにして、私はドレスをひるがえした。


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