見知らぬ死体に一目惚れした話【前】


 一目で恋に落ちた。


 間違って入った見知らぬ部屋の、壁によりかかった彼女に。

 その誰とも知れぬ死体に私は一目惚れをした。



       ◇   ◆   ◇



 全身が心臓になったような感覚を落ち着けたくて、視線をいったん正面から部屋全体へ移した。


 参考書の詰まれた勉強机に、質素なタンスと棚が一つずつ。部屋の中央は広くスペースが取られ、端には布団のめくれたベッドがあった。床はぶちまけられたみたいに本や小物が散乱している。


 痺れる指を動かして後ろ手で扉を閉める。だがそれで密室にはならない。私から向かって右側の窓が開け放たれているせいだった。薄茶色のカーテンを揺らした風が部屋を巡り、私の鼻孔びこうに酸化した鉄分の匂いを運んでくる。


 臭気の元は言うまでもない。私という侵入者があってもピクリともしないだ。


 息を呑んで彼女へ近づく。広がった赤を避けて片膝をつき、半ば覆いかぶさる体勢で状態を確認する。


 彼女は壁に背中を預け両足を延ばした体勢をしていた。


 お腹からはゴツい印象のが生えている。中心からやや左にズレた、へその延長線上の位置だ。柄の先にあるはずの刃は体に深々と突き刺さって姿を見せない。彼女の片手が傷口を押さえているせいでもある。もう片方の手は脱力するように体の横で垂れていた。


 他に目立った外傷はない。後頭部にも血はついていなかった。死因は恐らく失血多量のショック死か。


 確認を終えて部屋を振り返る。


 自分一人じゃ不可能なほど深く刺さったナイフ、部屋に残る争った形跡に、開けっ放しの窓。これだけでもう、何が起こったかは明白だろう。犯人はさっさと逃げ出したに違いない。どこかに隠れているということもないだろう。この部屋に生者の気配はないのだから。


 そこまで理解しても、私の中に恐怖の感情は生まれなかった。それよりもっと私の脳を占める欲求があったから。


 はやる思いのまま死体へ視線を戻す。


 女性の死体だ。年のころは私と同じくらい、中学生だろうか。鼻が大きく目が小さい。重たいまぶたの上にはやぼったい眉毛がしげっている。髪の毛はくしを通しているのか疑わしいほど硬く跳ねていた。お世辞にも美人とは言えない。


 あちこちに大小のにきびが浮いていて、半開きの唇も乾燥しひび割れていた。日頃のケアは手抜き気味なようだ。


 なぜこんなありふれた少女に、しかもどう見ても死んでいる相手にこんな衝撃的な恋心を抱いたのか。私にはもう理由が分かっている。


 眼だ。

 痛々しいほどに見開かれた眼が訴えかけてくるようで、私を惹きつける。


 その目と視線が合った瞬間に私の心臓は早鐘を打ち、不安に駆られて落ち着かなくなった。まるで肋骨ろっこつの裏側を柔らかに撫でられているみたいだ。息を吐くたび胸の中心を優しく荒縄に絞めつけられる錯覚を覚える。


 このときめきが恋でなければ、何が恋だと言うのだろう。


 この平凡な容姿の、性格どころか素性も知らない彼女のことを好きか嫌いかで問われれば、私は恐らく答えにきゅうしてしまう。好きと叫ぶほど盲目ではなく、嫌いと断言できるほど私は彼女に詳しくない。


 だがこの胸を貫いた感情は間違いなく恋であり、湧き上がる愛おしさは愛情以外の何物でもないはずだ。


 彼女の眼のふちに、こぼれるには足りないほどにわずかな涙が溜まっていた。人差し指ですくい取るとしずくはすでに冷え切っていて、その冷たさに始めて背筋がゾッとする。


 もうこれ以上検分する必要もない。彼女はあやまたず死んでいる。


 確固たる事実に不思議と安堵を覚えた私は、後ずさりつつ尻餅をつくようにして座り込んだ。



       ◇   ◆   ◇



 彼女と出会って何時間が過ぎただろうか。外は真っ暗闇に包まれたまま時間の移ろいを認識できない。ほんの一時の気もするし、数日経った気もする。


 鳥の声も虫の声も聴こえてこない。そのせいか秒針の刻む音が妙に大きく響く。


 時刻を確認しようと時計を手に取ったが、秒針は振れては戻るを繰り返していて一向に進む様子がない。壊れているようで、短針も長針も日暮れを指したままだ。秒針に見入っていたせいか時間が足踏みしている感覚におちいる。


 用立たない時計を置いて私は身震いをした。窓は閉めたのに風が肌を撫でる。どこかに隙間があるのだろうか。


 救急車も警察も呼ばずに辺りが暗くなるまで他人の部屋に居座っているのには理由がある。私は、私が恋したこの死体しょうじょのことを少しでも知りたいのだ。


 彼女はいったい何者なのか。どのように生まれどのように生き、そうして死の瞬間に何を思って、その瞳は最期に何を映したのか。


 それで無礼とは知りつつも部屋を漁らせてもらっている。


 だが彼女の素性を明らかにするものは見つからなかった。教科書もノートも名前が黒く塗りつぶされていて、なぜか中の固有名詞も同様の状態だ。まるでニュートンも信長も検閲に勝てなかったみたい。塗りつぶしたのは彼女自身だろうか。


 この部屋にはアルバムどころか写真の一枚もない。ゆえに彼女の由来が私にはつまびらかにできない。唯一彼女の内面に迫るのは、一冊の日記帳だけだ。


 この日記によると、少女はどうやら学校でいじめを受けているようだ。

 無視をされ陰口を叩かれ、いわれのない誹謗中傷に晒されている。まだ直接的加害に至るほどではないようだが、日記の描写にはその片鱗が見え隠れし始めていた。


 加えていえば両親とも不仲なようだ。彼女に非はない。父親は女遊びにいそしんで、母親は男遊びにハマって抜け出せない。典型的な家庭崩壊を起こしている。家に帰ってこない日も多く、現にこの家には人の気配が他にない。


 あと数日は死体と時間を共にしても、警察に捕まることにはならなさそうだ。


 ともかく少女は今まで誰からも愛されてこなかったらしい。仲の良い友人も、助けてくれる大人もおらず、ずっと一人で生きてきた孤独な人だ。


 日記帳の几帳面な文字列を指の腹でなぞる。


『毎日つらい』

『生まれた意味なんてない』

『誰も信じられない』


『──生きていたくない』『私は私が大嫌いだ』


 並ぶ文言。繰り返しの吐露とろ。その声すらどこにも届かず、こうして平面に閉じ込められている。


 数か月分の日記を通しで読んでしまったせいか、私はいつの間にか彼女の気持ちに同調していた。彼女の内面が手に取るように分かる。彼女の日常が安易に想像できる。


 少女は誰にも見向きされない。それどころか自分自身にすら見放されている。

 少女の死を悲しむ者はなく、誰の日常に波及するものでもない。


「そっか、蝶の羽ばたきよりも無価値な命なんだ」


 きっとこの子は、救いクモの糸が降りてきてもそれで首を吊るに違いない。

 それだけ人生に絶望し、生きていたくないと諦めている。彼女は何も遺せず無価値に死んだのだ。


 人は理由もなく他者を愛したりはしない。無条件な愛情なんて幼子おさなごの中にしかなく、親の愛すら鏡じみた反射でしかないと気づくにつれて失われていく。


 愛される意味がある人間だからこそ、他人は愛をくれるのだ。だったらその意味を見出せない自分はきっと一生誰にも愛されない。


「でも私は、あなたを愛おしいと思うよ」


 そこにも意味があるのだろう。


 私は改めて死体を見た。乾いた唇には最初に見つけた安物の薬用リップを塗ってやった。手櫛てぐしも通したから髪の乱れも落ち着いている。それだけで少しは見目好くなった。


 けれど、目が慣れてきたせいか最初ほど心惹かれない。死体の目力が弱まった気がする。


「……違う」


 変わったのは、私が彼女の涙を拭ってしまったからだ。あの涙を含めた瞳の様子が私の心をかき乱したのだ。


「この子はどうして泣いてたのかな」


 生きていたくないと切望していたなら、いかに予想外であろうと、訪れた『死』は喜ばしいに違いないはず。嬉し泣き? けどそんなふうには見えない。


 では涙する理由はなんだろう。自分をさいなんだあらゆるものに報いを与えられなかった悔しさ? けどこの眼が訴えかけるのは、そんな外に向けた憎しみには見えない。そんな眼に私は惹かれない。


 彼女に宿る感情はもっと単純で簡潔な、原始的な力強い欲求のはずだ。彼女は死の直前にいったい何を欲したのだろう。


 じろじろ死体を観察していて、私はふと一つの気づきを得た。


 傷口を押さえていないほうの手。左手の甲が上を向いている。なんだか不自然だ。


 普通は突然に刺されたら、両手で傷口を押さえるだろう。力が抜けて胴体から手がすべり落ちたなら、手のひらは横か上かを向くはずだ。だが手のひらは下を向いている。血もついていない。まるで傷どころではなく、もっと必要なものへ伸ばした手が力尽きたよう。


 よく見れば爪が床を掻いている。やはり意思を持って伸ばしたのだ。


 私はその手の先を視線で舐めるように辿った。散乱した部屋の床、指先からほんの三十センチあまりの位置に、それはあった。


 さっきまでなかったはずの、画面のひび割れたスマートフォン。私は妙な確信を持ってそれを拾い上げた。

 彼女はこと切れるその瞬間までこれを取ろうと手を伸ばしていたのだ。他にも落ちている物があるのに、どうしてか間違いないように思えた。


 だがスマホを手にしてどうしようというのだろう。誰かに連絡しようとしていたのか?


 どこに? なんのために? 助けてくれる他人なんてこの子にはいないのに。


 そう考えていたが、涙の冷たさを思い出して私は自分の思考の浅慮さに気づく。


「自分を助けようとしたんだ」


 生きていたくないと思っていたはずなのに。迫りくる死を前にして、彼女は願わずにいられなかった。だから必死に手を伸ばした。


 私の指が自然と画面のロックを外す。表示されたのは「110」。


「……そうか。本当は死にたくなかったんだ」


 死体の左手にスマホを握らせる。

 瞬間、何かに引っ張られるように意識が遠のいた。


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