ミステリー?

下着泥棒二者択一? 〜パンツと下着泥棒と写真と性癖〜


 一日にこれほど『パンツ』という単語を聞いた日は他にない。


 パンツにパンツ、パンツパンツパッツンパツン。単語は既に頭の中でゲシュタルト崩壊していて、意味のわからない文字列となってリズムを刻む。


 今年ようやく二十五歳を迎える山尾やまおは、脳裏を巡る単語のあまりの低俗さに、自転車を押して歩きながらひっそりとため息をついた。


 自転車を団地の空きスペースに止めて、メモを頼りに目的の部屋を探す。棟がくねくねと波打っているせいで、なかなか部屋が見つからない。


 この団地は数十年前に有名なデザイナーが船をイメージして設計したという。バブル期を代表するこの市営団地は、当初こそ奇抜なデザインで持てはやされたが、今では鳩があちこちに住み着くはた迷惑な建築物に成り下がっていた。


 庶民出の山尾に芸術を芸術として消費する素養はない。ベランダや壁に窓をモチーフとした丸い穴がたくさん空いている様子は、警官である山尾にしてみれば「なるほど登りやすそうだ」という感想にしか結びつかなかった。


 つい数時間前、ここで一人の下着泥棒が捕まった。二階のベランダから逃げるように飛び降りた不審な男を、パトロール中だった山尾の先輩警官が職務質問した結果発覚した窃盗事件だった。


 それだけなら何の問題もなく、我が交番の実績として数えることができたのだが……。


「なんとも、ややこしいことになった」


 几帳面に前髪をかき上げ、嘆息を漏らす。


 細身の男は先輩に肩を掴まれた時点で諦めたように顔を伏せたらしい。ベランダから飛び降りる所を目撃されたのだから無理もない。しかし男は突然顔色を変えた。そして容疑を否認し始めた。


 あげく遠くに見える野次馬の中から小柄な男を指差して「あいつが下着泥棒だ!」と言い出したのだ。焦った態度からも、あからさまな嘘だと考えられた。手にはしっかり女性物の下着――パンツが握りしめられていたからだ。


 もちろん先輩も、ただの言い逃れに過ぎないと思ったらしい。しかし男は小柄な男に噛み付くようにして暴れ、手に負えない。先輩は仕方なく、小柄な男にも話を聞くことにした。


 それは、細身の男を落ち着かせるための事情聴取に他ならなかった、はずだった。


 しかし小柄な男――後藤のポケットから明らかに使用済みな女性物パンツが見つかったことで、事態は急変する。


「……っと、ここの棟だな」


 郵便受けで部屋番号を確認し、階段を上がる。コンクリートで塗り固められた殺風景な空洞の中、どこからか鳩の鳴き声が反響してくる。段差の手すりには鳩のフンが落ちて固まっていた。山尾はフンに触れないよう気をつけて足を踏みしめる。


 鳩も増えすぎると人間の健康を脅かす。鳩の羽毛やフンは病気の感染源となるからだ。


 駆除できればと思うが、鳩は鳥獣保護法で守られているのでそれもできない。それでも年に何件か交番に、鳩をどうにかしてくれという苦情が入る。やってあげたいのだが、警官が鳩を駆除しようとするとどこから嗅ぎつけるのか、必ず愛鳥団体からクレームという名の圧力が圧し寄せた。


 住民の力になりたくても、上がうるさくてできることは少ない。出来ても鳩の侵入を防ぐ柵や網の設置に手を貸すくらいだ。公の立場というのも肩身が狭いものである。


 ここも住民が張ったのだろう、階下を見下ろせる出窓には緑色の網がかけてある。その外に鳩が張り付いていて、ホーホーと忙しなく鳴き声をあげていた。


 気の抜けた声をずっと聴いていると頭がおかしくなりそうだ。山尾が思い切り手すりを殴ると鳩の飛び立つ羽音がして、声がんだ。代わりに鉄を殴った手の痛みと、手すりの振動する余韻があとを引く。


 鳩の声と手すりの反響。どっちを騒音とするかは微妙なところだ。


 気を取り直して山尾は短い階段を登った。山尾は窃盗の被害を受けたと目される一家に、事情を確認しに派遣されたのだ。最初は先輩が行きたがった。先輩はいつもそうやって、交番に詰めるのをいとう。隙あらば外出しようとするのだ。


 しかしそれを許せば山尾が容疑者二人の聴取をすることになる。若い山尾はまだそういうことに慣れていない。なので結局山尾が行くことになった。


 つまりはそう、二人のうちどちらが本当の下着泥棒か判別するために。


 被害に遭ったのは奇妙な構造をした団地の二階の一室。頭が良くて地形把握も得意な先輩は、外から見ていただけでその部屋番号を言ってのけた。しかし山尾はその当たり苦手な分野だ。左右のドアのどちらが目的の部屋か迷ったが、右手のドアには今どき珍しく表札が出ていたので判別できた。


 市営鏡街団地265号室。此処こここそが、下着泥棒がベランダから侵入した家で間違いない。


 早くこんな下品な山は終わらせたい。どうか在宅であってくれ。そう一息ついてから、山尾は呼び鈴を押した。


 家主の反応を待ちながら、山尾は窃盗容疑で交番に連行された二人の男の証言を思い出す。山尾は二人の免許証をコピーしに別室へ行っていたので、先輩から伝え聴いたものだが、それは酷い有様だったそうだ。


「俺はあの家から下着なんか盗んじゃいない。これは俺の彼女のパンツだ」


 最初に捕まった男――前田はそう主張した。


「んじゃあ、なんで人ん家のベランダから出てきたんさ。あ、嘘ついても調べりゃバレっぞ」


 先輩の追求に前田は言葉を詰まらせる。挙動不審に視線をさ迷わせていたが、何か思いついたように喜色を浮かべた。


「あれは確認してたんだ」


「確認?」


「この男が」と隣に座る小太りの男を指差し「その家のベランダから出てきたんだ。それで、何か事件でもあったのかって、心配になったんだ。そりゃあ勝手に入るのは駄目なのは分かってる。でもあそこの団地は入り組んでて、ベランダ見ただけじゃ部屋番号が分からない。そう悩んでるうちに大事になったらことだろう? だから」


「だから登って確かめたと?」


 先輩が言葉を継ぐと、前田は満足げにそうだとうなずいた。


「たとえ安全確認のためといっても、それは住居侵入の罪だぞ。怪しいと思ったならなぜ警察に連絡しない」


「いや、手を煩わせるのもなって。通報して何もなかったら、嫌味言われるの俺じゃないか」


 一方の小柄な男は、前田の証言を否定した。


「そんな馬鹿な。お巡りさん、こんな奴の言うことを信じるんですか? 私はそんなことしてません」


「んなら、ポケットに入ってるパンツは何だ? 盗んだんじゃないのか」


 先輩が言うと後藤はあからさまに表情を曇らせ、声のトーンを落とした。


「それは……これはあんまり人に言うことでもないんですが、その……。…………私、女装癖があるんです」


「はっ?」


「だからこのパンツは、私のなんです」


「何くだらねぇこと言ってんだテメェ!!」


 恥じるように俯く後藤に、前田が掴みかかる。先輩はそれを引き剥がしてから後藤に向き合った。


「証拠はないのか」


「隠れてやってますから、この場ではなんとも……。ただ、そうですね。このパンツ若い女性が履いたにしてはゴムが伸び切ってるでしょう? 私が無理やり履いたからで――」


 そう言って後藤がポケットからパンツを取り出そうとした時だった。一緒に一葉の写真が滑り落ちたのだ。


 表を上にして落ちた写真を見て、後藤が顔を青ざめさせる。前田は勝ち誇ったように笑った。


「ほら見ろ! きっとコイツはこの人のストーカーだったんだ! だからパンツを盗んだんだ!!」


 インターホンの回線が繋がる音がして、山尾は我に返った。控えめな誰何すいかの言葉に、警察ですと伝える。チェーン越しに開けられたドアの隙間に向かって警察手帳を開くと、住人は安心したようで招き入れてくれた。


 靴を脱ぎながら、出迎えてくれた少女と、その後ろに控える女性を見る。


(なるほど。確かに美人な親子だ)


 別室に居た山尾はくだんの写真を見ていない。確認しようにも、その写真はいつの間にか消えてしまった。どこを探しても見つからない。じっくり見聞されると都合が悪いと、二人のうちどちらかが隠したのだろう。


 唯一写真を確認した先輩は、ただ一言「そりゃあもう、美人だったぞ」と満足げに笑うだけだった。


 居間に通されて、山尾は二人の対面に腰を下ろした。女性のほうがお茶を用意すると出ていく。


 歳の頃は五十くらいか。……少し若過ぎるか。


「お母さんですか?」


 笑顔を作って問うと、少女は首を横に振った。


「いえ、祖母です」


「失礼ですが、おいくつで……?」


「祖母は六十七歳、私は十八歳です」


 では十分ストライクゾーンか。山尾は笑みを深めた。


「他にご家族は?」


「母が一緒に住んでます。仕事に出てますけど」


 簡単な確認をしている内に祖母が戻ってくる。二人揃うのを待って、山尾は切り出した。


「玄関先でお伝えした通り、こちらで窃盗があったのではと伺いました。よければお話いただけませんか」


 表情を引き締めて告げると、二人は躊躇ためらうように顔を見合わせた。お互いの出方を探り合っているようだ。口火を切ったのは少女のほう。


「その……下着が盗まれたんです。ベランダに干してたパンツです」


 やはりと山尾は頷いた。部屋はここで合っていた。


 パンツという単語に微かに眉を潜ませながら、山尾はメモをとる。


「警察に連絡しなかったんですか?」


「それはっ、……考えましたけど。たかがパンツのことですし」


 また二人が顔を見合わせる。長い黒髪に隠れて、その表情までは山尾から見えない。たった、と言いつつ自分の下着が盗まれるのはやはり怖かったのだろう。少女は肩を震わせ、祖母は恥じたようにうつむいた。祖母としては、男性の山尾に身内のこんな話をするのは恥ずかしいらしい。無理もなかった。


 だが警察としては、被害はきちんと申告してもらわねばならない。


「盗まれたのがいつ頃か分かりますか?」


 まだ震えている少女の代わりに祖母が答える。


「今日はさっき取り込もうとした時にこの子が気づきました。だから十五時くらいでしょうか。昨日も同じ時間です」


「昨日……二日連続で盗まれたんですか?」


「はい、そうなります。まさか本当に今日も来るなんて……」


 二日連続の窃盗事件。下着泥棒は同じ家に連続で入ることが多い。コソ泥はすぐ味をしめる。警戒の薄い家が標的にされ続けるのだ。今回も同じことなのだろう。


「それで、盗まれたのは何枚ですか?」


「二枚です」


 山尾は呟かれた言葉と、頭の中の情報とを突き合わせる。二人の容疑者、二枚のパンツ、そして二人は現場にいた。数は合致する。


 つまりあの容疑者二人が同じ日に、別々に盗みに入り、それぞれが一枚ずつ盗んだということか。……そんな偶然があるのか?


「昨日は何枚盗まれたんですか?」


 浮かぶ疑問に首を傾げながら問うと、少女が顔を上げた。もう震えは止まっており、不思議そうに山尾を見つめ返してくる。


「いえ、昨日と今日、一枚ずつ盗まれて、二枚ですよ」


「んっ? それは確かですか?」


「はい」


 こともなげに肯定される。山尾は内心頭を抱えた。つまり今日盗まれたパンツは一枚。なのに今日捕まった容疑者は二人。パンツも二枚ある。どういうことだ?


「すみません、ベランダを見せてもらっても?」


 頭を冷やしたくて提案する。祖母が快く案内してくれた。


 そこは外から見たとおりのベランダだった。大人が手を広げて四方にぶつからないくらいの広さだ。証言通り洗濯物はすでに取り込んであり、ハンガーを吊るす紐だけが風に揺れている。


 山尾は階下を覗き見た。それほどの高さはない。下は芝生で飛び降りても危険はないだろう。それにコンクリートに丸い穴が等間隔に空いているから、身軽な人間ならボルダリングの要領で登り降りできそうだ。


 他の家は鳩避けのためかベランダにも網を張っている所が多い。しかしこの家は違った。網などしていなかった。そのうえ家に男手がない。下着泥棒に狙われた理由はそれだろう。


 網がない割にベランダは小綺麗にしてある。尋ねると、毎週鳩のフンも含めて掃除するのだという。柵のフンが犯人の服にでも付いていればと思ったが、そう簡単ではなかったようだ。


 現場を見ただけでは、容疑者のどちらが犯人か分からない。山尾は一度先輩に分かったことを報告することにした。


 電話に出た先輩は少し苛立っていた。まだ聴取は続いているらしい。


 こちらが分かったことを伝えると、先輩も交番の様子を教えてくれる。どうやは前田は、後藤こそ真犯人なのだと言いたいらしい。


「俺は確かにこの目で見たぞ! 昨日もあそこに居たじゃないか! お前がパンツを盗んだんだ!」


「何を言ってるんです。昨日? 昨日はずっと家にいましたよ」


「嘘だ! 昨日の昼過ぎ、あそこのベランダからお前が出てくるのを俺は見た!」


「お巡りさん、こんなやつの嘘にいつまで付き合わされなきゃいけないんです?」


 そんなやりとりがずっと続いているらしい。


「先輩、もう二人とも署に連れてって、あとは向こうに任せたらどうです?」


「いやなぁ、ほら、上手くいけば昇進チャンスかもだぞ? 俺たちでなんとかやろうや」


「なら面倒なんで前田が窃盗犯でいいんじゃないです?」


「お前なぁ。つうかな、俺的には前田が後藤の件について、嘘ついてるようには見えないんだよ」


「本当のこと言ってる……後藤が今日と昨日でこの家のベランダに来たと? 確かに後藤が女の子のストーカーなら写真を持っててもおかしくない。でも前田の主張はなんだか不自然です。勢いだけで嘘を全部本当にしようとしてる奴の喋り方だ」


「あぁ。後藤は写真が自分のポケットにあるなんて知らない素振りだった。つまり前田がこっそり後藤のポケットに入れたんだろう。罪を被せるために」


「つまり前田のほうがストーカー?」


「それにしてはあっさり写真もパンツも放り捨てたがな。せっかく手に入れた女子高生のパンツ、しかも惚れてる女のパンツだ。俺ならギリギリまで握り締めるね。なのに、視線すら向けない。ストーカーにありがちな執着が見えん。せっかくパンツ二枚とも机の上に放置してんのに」


「やめんかい持ち主に殴られんぞ。…………俺はもうちょい、こっちで話きいてみます」


「はぁ、さっさと帰ってこいよ。なんなら交代する。男二人と顔合わせ続けんの辛いわ。俺もそっちが良かっ――」


 先輩はまだ何か言っていたが、山尾は一方的に通話を切った。自分も大概警官らしくないが、先輩の態度はそれ以上だ。仕事にちょこちょこ私情をまじえる。


 空想の先輩を睨みつけ、山尾はベランダから中へ戻った。腰を浮かせる少女と祖母を手で制し、神経質に前髪をかき上げながらもう一度対面に座る。


「この男たちをご存知ですか?」


 先輩から送られてきた容疑者二人の顔写真を見せる。しかし彼女たちは一様に首を横に振った。面識はないそうだ。ストーカーらしき者も見ていないらしい。


 山尾は次に、二枚のパンツ写真を見せる。紫とピンクの、いかにも女子高生が履きそうな派手なパンツだ。自分のスマホにこんな画像を長期間残していたくない。早く確認とって消したい。念じるように見せると、二人の顔色が変わった。


「はい、たぶんこれです、盗まれたやつ」


 祖母がそう肯定する。少女も同調し、パンツを指差す。


「こっちが昨日、こっちが今日盗まれたやつです。洗濯物干すのは私の係ですから、確かです」


「そうでしたか。ありがとうございます」


 確認の礼を述べながら山尾は頭の中を整理した。


 シンプルに考えれば、後藤が昨日、ピンクのパンツを盗んだ。

 そして紫のパンツを、今日前田が盗んだ。

 そういうことになる。


 しかし先輩の言うとおり前田の主張を信じると、後藤は今日、前田が侵入する直前にもう一度ここのベランダに入っている。なのに昨日盗んだパンツしか持っていないのはなぜだ? せっかく盗みに入ったのなら、取っていくのが泥棒だろう。この家の住人も侵入者に気づいていなかったのだから、物色する時間すらあったはずなのに。


 やはり前田の言葉は全て嘘で、後藤は白か。持っていたパンツも写真同様、前田が後藤に罪を着せるために仕込んだのかもしれない。後藤は知らないパンツが出てきて咄嗟に嘘をついた。疑われたくなくて変に嘘を吐き、意図せず捜査を撹乱する間抜けはたまにいる。


 だがそうだとして、なぜ前田は写真を持っていたのか。もちろん写真が紛失していて先輩がここにいない以上、少女の写真と断定できないのだが。


 山尾は難しい顔をしていたのだろう。少女が山尾を覗き込むようにして口を開いた。


「それでその……。昨日パンツを盗まれたので、私達も対策をしたんです」


 それは初耳だった。


「対策? どのような」


「パンツに写真をつけたんです」


「は?」


「ほら、野菜の生産者みたいに。この人が丹精込めて作りましたならぬ、この人が長年丹精込めて履いてるパンツですって」


 山尾は耳を疑った。ついに自分か少女か、どちらかの頭がおかしくなったかと思った。しかし祖母は表情を殺し、少女は口元を固く引き結んでいる。どうやら本当らしかった。


 同時にさとる。交番で出てきた礼の写真は、ストーカーが撮影して持っていたものではない。彼女たちがパンツに貼り付けたものだったのだ。前田はそれごとパンツを盗んだ。


「でっ、でも。そんな本人保証必要ないでしょう。むしろ変態は喜びますよ!?」


 女子高生が履いたパンツに女子高生の写真がついてたら、下着泥棒をするようなやつは喜ぶに決まっている。


 しかし少女は、怪訝そうに苦笑する。


「いえいえ、普通に嫌でしょう。だってお婆ちゃんの写真ですよ?」


「……はぃ?」


「えっ? いやだからお婆ちゃんの……あっ、私の写真貼ったりしませんよ!? 当たり前じゃないですか!」


 パンツに写真つけて干す少女に常識を問われても。山尾はそうらしそうになったが、なんとか耐えた。


「ですがご自身のパンツに――」


 勢いあまってついに『パンツ』と口にしてしまった。今まで下ネタなど言わないキャラで通してきたというのに。


 混乱と後悔に口の中が苦くなる。激しい嫌悪感に自然と眉が寄った。山尾はもはやそれを隠しもせず、少女に詰め寄る。


「いくら盗まれたくないからと、ご自身の下着に祖母の写真をつけておくというのは、そちらのお祖母様にも失礼ではないですか?」


 最後の問いに、二人がまた顔を見合わせる。そして少女がポツリと言った。


「だって盗まれたのは両方お婆ちゃんのパンツだもん」


 少女の隣で祖母が頬を赤らめていた。


    □  ■  □


 山尾は自転車を押しながら通話口を睨みつけた。


「先輩、最初から全部分かってましたね」


 歯ぎしりしながら怨嗟を込めて言うと、スマホの向こうで先輩が笑う。


「何のことだよ。俺は真面目にお仕事しただけだろー?」


 と、はぐらかす。山尾は来たとき同様ため息をついて暮れなずむ空を見上げた。まだ中天には青色が残る。浮かぶ雲は夕日に照らされオレンジに染まっていた。そこを鳩が飛んでいく。


「まず、前日に後藤が下着を盗んだ。前田はたまたまそれを目撃した。そうでしょう?」


 突然話し始めた山尾に先輩は何も言わない。ただ様子を見るように、ニヤニヤと笑う気配がする。試されている。直感でそう思った山尾は、さらに続けた。


「後藤は盗んだ下着を女子高生のものだと思っていたんでしょう。洗濯物を干すのは彼女の仕事だそうですから。そして上手く下着を手にいれた後藤は翌日も犯行に及んだ。前日盗んだ下着をポケットに入れて。けど、今日は下着を取らなかった。いや、取るのをやめた。写真が貼ってあったから」


「ほう写真が。それで?」


「先輩も見たんでしょう? 写真は女子高生の祖母のものでした。それで後藤は、疑心暗鬼になった。欲しいのは女子高生の下着だ。でも、目の前にある下着は誰のものかと。悩んだ挙げ句、何も取らずに逃げた。前田はまたそこを目撃した。それで前田も盗みに入ったんです。おそらく彼は初犯」


「同じやつが二回も盗みに入れるなら、自分も大丈夫だってか?」


「ええ。そして写真を見ずに下着ごと盗って手早くベランダから飛び降りた。そこを先輩に捕まったんです。前田は最初、警察に見つかって諦めようとした。でも、手の中にある写真が老婆のものだと気づいて暴れてだした」


 耳元で低く、なぜ? という問いがする。それが先輩のものなのか自分の頭の中の声なのか、区別しないまま山尾は答えた。


「女子高生の下着を盗んで捕まったなら、まだ誇らしい。でも初めて盗んだ下着が老婆のものだなんて、前田のプライドが許さなかった。実際に老婆のでなくても、警官にそう思われるのは耐え難い。だから、見つけた後藤に罪を押し付けようとしたんです」


「なんだそりゃ。コソ泥にプライドもなんもあるかよ。犯罪だぞ?」


「変態ってそんなものですよ。自分が少数派だと知りながら、いや少数派だからこそそれを心のどこかで誇ってる。学校でタバコ吸ってイキってる子供ガキと変わらない」


 ケッと吐き捨てて言うと、先輩がなるほどと感嘆した。


「さすが隠れナルシスト。おんなじ異常者の思考回路なんざ手に取るように分かるってことか」


「一緒にしないでください。それを言うなら先輩だって好きじゃないですか」


「何を?」


「熟女。特に六十代で元綺麗系の人。先輩は以前からあのお宅の老婆に目をつけていた。だから今回、聴取を引き伸ばして自分が被害者宅に行こうとしたんだ。俺の分析間違ってます?」


 信号待ちしながら挑戦的に言うと、先輩は数秒待たずに爆笑した。


「はっはははははは! つーことは全部バレてたか! いやぁははっ慧眼けいがん、慧眼。さすが山尾! 我が交番の星!」


 そう先輩はひとしきり笑って、急に声を落とした。


「なぜ俺が知っていると分かった」


「先輩は昨日の昼頃、鳩の対策を手伝ってくれと住民に頼まれて団地の方に行っていたでしょう。その時後藤の犯行を見たんだ」


「見たなら捕まえるに決まってるだろ。仕事は割と、ちゃんとやるぞ俺」


 信号が青になる。さすがに警官が立っている前を信号無視して突っ込んでくる車はいない。山尾は左右を確認して、歩き出した。一瞬だけ、背後の団地を振り返りながら。


 船をモチーフにした奇妙な形の団地群。しかし山尾は、穴の空いた船は必ず沈むと知っている。


 今回の穴は、山尾が先輩の性癖に気づいていたことだ。


「いいえ貴方はそれをしなかった。なぜなら先輩はすぐ、そのベランダが前から目をつけてた美人の住む家のものだと気づいたから。何か盗まれて、その美人さんが交番へ相談に来てくれれば接点ができますから」


「だからといって目当ての人が来てくれるとは限らないだろ」


「あそこは母子家庭だ。母親は忙しい。子供はまだ高校生。だったら祖母が来る可能性は高い。先輩なら、好みの相手が居ればそのくらいすぐ調べる」


 動機がある。自分に有利に動く可能性もある。それを計算し繋げる頭も、残念ながら先輩には備わっていた。だから見逃した。最初の犯行を。


「けど、前日と違う人間がベランダから出てきて、先輩はさすがに前田を捕まえざるを得なかった。命に関わる犯罪が起きてからでは何もかも遅い。先輩はそこまで腐った警官じゃないから」


「買いかぶりすぎだ」


「事実でしょう。そこまでクズなら、私が大人しく部下に甘んじるわけないですから」


 口元に微かな笑みを浮かべて呟く。通話の向こうで、先輩が照れたように笑ったのが聴こえた。山尾はそれに深く頷き、途端ドスを利かせて夕日の方角を睨みつけた。


「だからさっさと隠した写真出せ。いくら好みだったからって、容疑者の持ち物パクるな」


 山尾は交番に辿り着いた。表に出て通話していた先輩と目が合う。先輩は慌てたように声を上ずらせた。


「やっ、後で返すつもりだったんだよ」


「いいから今返せ。そこの二人さっさと窃盗罪で署まで連れていきますよ」


「えー」


「そしたら明日一緒に、被害者宅へ報告行きましょう、ね?」


 駄々をこねそうな先輩をなだめすかして、山尾は交番に入った。すぐに窃盗犯を連行する準備に入る。机の上には確かに、二枚のパンツが置かれたままだった。


 山尾は指先だけでそれをつまみ上げ、証拠物資の袋に入れる。これにて一件落着。そう考えていいだろう。


 山尾はもう一度ため息を吐いて、前髪を丁寧にかき上げる。そしてしみじみと思った。


 ――もうしばらく、パンツなんてという美意識に反する単語は聴きたくない。



               了

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