第4章 アルバイト先は地獄でした。

4-1.契約は一瞬でした。

「もういいぞ」


 わたりさんに言われてゆっくりと目を開けると、そこは人間界と変わらない普通の家のリビングだった。


「ここは私の家だ。少し待っててくれ」


 そう言って渡さんはリビングから出ていった。もう一度見回してみても、ここが地獄と言われないと転移してきたことに気が付かないほどに普通の家だ。

 窓の外を見ると、やはり人間界と同じような閑静な住宅街。違うところと言えば、遠くの景色が黒く染まっていることぐらいだ。しかしそれは得体のしれない黒ではなく、人間界の夜の空のような雰囲気だった。

 外を眺めていると渡さんが戻ってきて、俺の隣で一緒に外を見る。


「転移酔いは大丈夫か?」

「あ、はい、大丈夫そうです」


 渡さんの言う「転移酔い」は、ある場所から別の場所へ転移ができる渡さんの能力「座標転移テレポーテーション」を使ったときに起こる、車酔いのようなものだそうだ。原理としては、転移のときに今の次元から一度離れ、異次元で瞬時に移動してから目的の場所に行くらしいが、俺には正直どうだってよかった。  

 とりあえず、目眩や吐き気は今のところない。偶然にも身体が転移に適していたようだ。

 渡さんはさらに言葉を続ける。


「ここは地獄第二区。見ての通り家が集まる街だ。第二区を出て少ししたところに目的地の第一区がある。そこにはUDユーディキウム・デイの本部はもちろん、店も多く活気のある街だ」


 説明しながら渡さんは杖を取り出し、転移の準備を始めた。


「第一区に行くぞ」

「はい」


 再び足元に魔法陣が形成され、身体と視界も光に包まれる。ほんの数分の渡家訪問を終えて、いよいよ地獄の中心第一区へと転移し始めた。


 目の前に広がる光景は、昨日森定さんが見せてくれた地獄の写真そのものだった。

 自分の中で地獄はとても暑くて空気もあまり綺麗ではないイメージを持っていたが、実際はその全てが正反対だった。

 転移してきたのは、地獄のとある路地。そこから一歩通りへ出れば人間界と変わらない普通の商店街だ。多くの買い物客で賑わい、店員の呼び込みの声がそこら中から聞こえてくる。

 常識を一八〇度覆された目の前の事実に言葉を失っていると、俺をからかうおじさんの笑い声が聞こえてきた。


「それは転移酔いじゃなくて、ビックリって顔だな」


 俺の口からも思わずハハハ、と笑いが漏れる。


「まったく、その通りですよ……。ここが第一区ですか」

「そう、地獄第一区のメインストリートだ。人間界っぽく言うなら駅前商店街か。……お?」

「?」


 俺の顔を見てニヤリとした。俺の顔に何か付いているのか、慌てて手で自分の顔を触る。


「いや、君の顔、すごいなと思ってな。感心するよ」


 後ろを歩く渡さんは直接ではなくずいぶんと遠回しに言ってくる。


「えっと、どういうことですか?」

「初めて地獄に来たっていうのに、恐怖が感じられない。むしろ目をキラキラさせながら色々なところを見て、まるで田舎から都会に出てきた子どもだ」


 大学のガイダンス、委員会の紹介のときの英記みたいだ。言われてみればたしかに、知らないうちに楽しんでいる自分がいる。

 高校三年の進路を決めたときから望んでいた非日常だ。たとえこの先でUDの任務がどれだけ大変になっても、その夢が叶うならこれほど嬉しいことはないだろう。


「緊張感がないわけではないですが、こういうのは楽しんだもん勝ちなのかなって思います」

「こいつは大きく出たな。私も幸長くんの活躍が楽しみになってきたよ」


 長い商店街をしばらく歩き続ける。途中でいくつか気になる店もあったが、また今度と止められてしまった。チラリと見えたお金は日本のものではなく、渡さんに訊けばこの地獄だけに流通する通貨だそうだ。


 突然商店街が切れて大きな広場に出ると、いかにもお偉いさんのような人たちがベンチに座り、コーヒーを飲みながら話し込んでいた。仕事合間の休憩のようで、それは彼らの顔が明るいことからもうかがえる。


「あれがUD本部と、横にあるのが地獄を統括する運営本部だ」


 渡さんの視線を追いかけるまでもなく、広場の奥には例の黒い国会議事堂と、それに隣接する形でビルが建っていた。


「まるでUDの方が強いみたいだ」

「まさにその通りだ」


 独り言のつもりが聞かれてしまい、さらにはそれが真実。


「それも行けば分かるだろう。先に運営の方に行って申請をするぞ」


 前を行く渡さんのあとを追って、地獄運営本部の扉を開く。

 内装や行きかう人々は、人間界のオフィスビルと大して変わらない雰囲気だ。スーツのサラリーマンが熱心に打ち合わせをする声や、会社の顔とも言える受付嬢の明るい笑顔が広がる。

 まずはその受付嬢のところへ行くかと思いきや渡さんはそれをスルー、一切の迷いもなくエレベーターの上を示すボタンを押した。右も左も分からない俺はそれに首を突っ込めないどころか、ついていくことしか出来ない。

 ポン、という音がしてエレベーターの上のランプが橙に点灯すると、エレベーターの扉が静かに開く。中からは「腹減ったー」という声とともにスーツ姿の男女が手ぶらのままぞろぞろと出てくる。解放感の裏に緊張感が見え隠れしていて、これから昼食でそのあとまた仕事、という雰囲気そのものだ。


 地獄に来たことの衝撃が強すぎて気が付かなかったが、向こうが夕方でこっちは昼ということは、二つの世界は時間の進み方がどうやら逆らしい。


 スーツの集団が出終わったのを見て入れ替わりで乗り込む。壁には、何課何部が何階にあるのかが書かれた掲示がされており、他の乗客は各々目的階のボタンを押していく。渡さんが最上階の五階を押したのを見て再び掲示に目をやると、「本部局長室」とただ一つだけ書かれていた。

 申請も何もなしでいきなりトップと会うことができるのも、UDという組織の構成員、しかも序列第七位という立場だからだろうか。


 途中二回ほど止まったあと、残る乗客は俺と渡さんだけになると、そのあとはすぐに最上階に到着した。

 扉が開くと今度は焦げ茶色の両開きの扉が姿を現した。アンティーク調のそれは、あの委員会室を思い出させる。

 渡さんが扉をコンコンと叩き、数秒待って「どうぞ」という返事とともに、蝶番ちょうつがいの音を響かせながら扉が開いた。


「お、サルバか。相変わらずごくろうだな」

「ヴェリーヌ様もお変わりないようで」


 ビル内で働く人たちと変わらない普通のスーツに身を包んだ黒髪の女性が一人。窓がなく薄暗いこの部屋で、両手を腹に当て軽く腰を曲げる綺麗なお辞儀で俺たちを出迎える。その彼女の肩に手を添えて、長年の知り合いのような会話を始める。それも、今まで幾度となく繰り返してきたという風に。


「局長はいるか?」

「こちらです」


 サルバと呼ばれた女性は手で奥の扉の方を指し示すと、ヒールの音を立てて先導する。

 再びアンティーク調の扉が現れ、サルバさんが扉をノックする。「どうぞ」という返事はすぐに返ってきた。


「ソネイロン様。ヴェリーヌ様がお見えです」

「通せ」


 至って単純で明白な事務連絡だが、ソネイロンと呼ばれた男の声はかすかに跳ねているように聞こえた。

 サルバさんが大きな扉を開くと暗い部屋に眩しい光が差し込み、思わず手で目を覆う。

 その光を気にも留めずに、慣れた足取りで奥へと進んでいってしまった渡さんを、急ぎ足で追いかける。


「久しいな、賢治。元気だったか」

「見ての通りだ。ひろしも元気そうで何よりだよ」


 渡さんと歩いてきた商店街とその奥に続く荒野が見渡せる大きな窓。天井にはステンドグラスにも見える派手な照明器具がいくつも吊られていて、光の出どころはおそらくこれだ。

 部屋の大きさは俺の寮の部屋とそこまで変わらないが、照明は倍以上の明るさだ。

 一足先に顔を合わせた二人は、特に中身のないような世間話をし始めた。呆気にとられる俺の耳元でサルバさんが囁く。


「お二人は幼馴染なんです。ソネイロン様もUD所属なんですが、お二人がUDに入る前からの関係だそうですよ」


 へー、と素直に感心する。最上階唯一のこの部屋で友人との再会を喜ぶ二人。渡さんに賢治と呼ばれたその人物こそ、この地獄を統括する人なのだろう。

 賢治さんの視線が俺に向くと渡さんにこっちに来いと手招きをされ、賢治さんが座る書斎机に近づく。


「君が新人の天野くんだね。私は地獄を統括する地獄運営本部の局長だ。悪魔名はソネイロン、人間名は生田賢治いくたけんじ、UD内序列は第九位だ。よろしくな」

「はじめまして、天野幸長と言います。よろしくお願いします」


 一方的な自己紹介に対して面白みのない自己紹介しか返せずに、二人は話を続ける。


「で、今日はどんな用事で?」

「彼を地獄の民にしてほしくてな」


 地獄の民、そんなことは聞いてない。静かにしていると勝手に話を進められてしまう。


「待ってください。俺は地獄の民になるとかは聞いてないんですが」


 しかし賢治さんは、俺をなだめるように答える。


「安心しなさい、天野くん。別に地獄で生活してもらいたいとは思っていないよ。ただ、地獄にいるのに普通の人間のままでは、正式なUDの構成員にはなれないし、少々不便なことがある。例えば博の転移酔いとかね」


 さっきは症状が出なかったが、この先もしかしたら出てしまうかもしれない。であれば、辛いのはないに越したことはない。それに、地獄の民にならなければ正式なUDの構成員にはなれないのであれば、今さら引き下がれない。

 賢治さんはそれに、と申し訳なさそうな顔をして続けた。


「地獄に来てからやけに視線を感じていたと思うんだが、それは君がまだ完全な人間だからだ」


 たしかに、おそらく視線があったかもしれない。地獄という新しい世界に感動していたせいで正直気にする暇もなかったが、改めて言われると意識してしまって嫌になる。



「分かりました。どうすればいいですか」

「よかった、判断が早いのは良いことだ。じゃあ、これを頼むよ」


 そう言って渡さんが渡されたのは、紛れもなく刃物。渡さんはそれをこちらへと向けて近づいてくる。偽物ではないのは明らかだ。


「大丈夫だ、天野くん。少し血を出して契約書を書くだけだ」


 震える手をゆっくり出し、痛みに耐えられるように目を閉じ、歯を食いしばる。


「はい、じゃあこれにサインをお願いできるかな」


 しかし痛みは一切なかった。目を開けて指の先を見るとたしかに、僅かだがぷっくりと血が漏れている。

 しっかり大きく「契約書」と書かれた紙に目を通すと、地獄での簡単な生活の仕方やルールが書かれていた。何かあればその都度教えてくれるらしく、特に疑問もなかったので漏れ出る血で名前を書き記す。


「よし、これで君も我々と同じ地獄の民となった。それじゃ、隣の建物でUDの正式加入の手続きをしてきてくれるかな」


 驚くほど簡単な契約だ。イメージではもっと厳しい縛りがあるのかと思っていたが、本当に必要最低限、血判のようなもので終わってしまった。


「私は用事があるんだが、幸長くん一人で大丈夫か」

「ではサルバに案内させよう。サルバ、天野くんを頼むぞ」

「承知しました。天野様、こちらです」


 言葉を失う俺は放っておかれ、また勝手に話が進められる。仕方なく、サルバさんに案内されるほかなかった。

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