第2章 この寮は不気味でした。
2-1.お金はありませんでした。
金がない。金がないのである。
天道大学の大学寮「
この聡明寮は立地も内装も理想以上の物件で、さらに生活費はほぼタダ。それを理由に寮生活がスタートしたわけだが、同じ理由で親からの仕送りが一切ないことが発覚した。
「そこの寮タダだからお金はいいわよね?」
そんな電話が母親からかかってきたのは、引っ越しの後片付けを終えてゆっくりしていたころ。もうすぐ大学生かー、という俺の胸のドキドキを、たった一言で違うドキドキにさせた。
収入がなくなった今、まさにアルバイトを始める良い機会だ。高校では禁止されていたし、大学生になったら何かしらやってみたいと思っていたからちょうどいい。
そう考えながらも、俺の指は水色の背景に白い鳥のアイコンに伸びる。
大学生になったのをきっかけに、同じ学科の人を探しては相互フォローする、いわゆる大学用アカウントを作った。
特に有名になるようなツイートをするわけでもなく、ただただ入学前の交流をしていた。
他の人のつぶやきに交じって、ときどきアルバイトの広告が目に入る。しかしこういうところにあるものというのは、ごく普通のアルバイトばかりだ。
入学までのあと三日。今日もいつものようにタイムラインを流し見していく。
「起きろ天野! 朝ご飯の時間だ!」
「――っ!」
リンさんの大声がドアの向こうから響く。時計を見ると短い針が「7」を指していた。
ベッドから飛び降り、急いで着替えて食堂へ駆け下りていく。
そうか、今日は大学のガイダンスだった。
「天野、アルバイトは見つかったのか?」
「いえ、まだ……」
結局アルバイトは良いものが見つからなかった。
リンさんはもちろん、昨日の入学式のために空き部屋に泊まっていった両親にも、同じように心配された。
「いいやつないのか? べただけどコンビニとか居酒屋でもいいじゃないか」
「なんか違うんですよね」
コンビニや居酒屋はありきたりだし、高校のときに塾にも行ってなかったから、アルバイトのお誘いなんかも一切来ない。
「ごちそうさまです」
変なところで謎の意地を張っている俺は、この寮にいたらまたリンさんに何か言われる気がして、予定よりも一時間早く大学に向かった。
我が
他にも五階建ての二号館、三階建ての三号館、十階建ての四号館が緑に囲まれて建ち並ぶ。各建物は、三階の連絡通路で行き来可能になっている。
ガイダンスが行われる教室へと向かう途中、後ろから肩を叩かれる。
「よ、ユッキー。初日なのに元気なさそうだな」
「ああ、ヒデか。まぁ色々あんだよ」
入学式で仲良くなったヒデ――
こいつは見た感じチャラチャラしてるから、居酒屋かなんかのアルバイトをすでにしているだろう。話だってちゃんとできるはずだ。比べてみると色々と自分の劣等感を感じた。
「なぁなぁユッキー、お前委員会とか入る? 俺、新聞委員会に入ろうかと思ってんだけどさ、一緒に入らね?」
「新聞委員か……。考えとくわ」
英記は高校三年の頃新聞部の部長をしていて、毎週発行していた学校新聞の評判は、先生にも生徒にも好評だったらしい。それが市内の学校ではすごい噂になったとか。
そこまで本気になれることがあるとは、ますます劣等感を感じずにはいられなかった。
ガイダンスは面白くはあったが、基本は事務連絡だ。履修登録の仕方だったり、施設の使い方だったり、内容は午前中で終わる量しかなかった。
委員会の紹介のとき隣がやけにまぶしいなと思えば、英記の顔が無邪気な子どものようにキラキラと輝いていたのははっきりと覚えている。
「だってお前、俺ら工学部の情報工学科だぞ? 情報大切、情報戦ネ、オーケー?」
「あ、ああ、オーケー、オーケー」
テンションの上がった英記に圧倒され、から返事しかできなかった。
しかしそれでも満足してしまった英記の手により、俺の昼休みは新聞委員会室へと消えていった。
そしてその部屋を出たとき、俺の手にはすでに新聞委員会の会員証があった。
「がんばろうぜ、ユッキー!」
まぁ、こいつの笑顔が見れるなら、そんなに悪くないのかもしれない。
家の用事があると言って、英記はそのあとすぐに帰ってしまった。
寮に帰っても昼ごはんは出ない。一人残された俺は、とりあえず大学の食堂に向かう。
なけなしの貯金でも買えるくらいの安さだ。メニューも種類が多い。「一番人気」と書かれた定食を買おうと財布を取り出す。
――が、金がなかった。〇円ではなく、財布ごと存在していなかった。どこを探してもなかった。
今朝リンさんから逃げるように出てきたから、そのせいで忘れたのだろう。
今日はまだ何も買っていないし、電車は定期券を携帯カバーのポケットに入れているし、たしかに気づかないわけだ。
昼時はとっくに過ぎていたので、列が混雑するようなことはないのが不幸中の幸いだった。
現状を把握し、諦めて券売機から体を反転させる。
「そこの君」
突然後ろの方で低い女性の声がする。
「君だ、君。聞こえてないのか?」
都内の大学ともなると、怖い女性もいるのは当たり前なのだろう。周りも変に騒がしくなっている。あまり関わらないようにしよう。
――トンッ。
ふと何かに当たる。目の前には何もない。足元に目を向ける。
視線の先には、真っ黒なネコとこちらをにらむ紅い目。たまらず驚き一、二歩後ずさる。
「ありがとう、ミィ」
「ミャーウ」
儚げな小さい声で「ミィ」と呼ばれたそのネコは、返事をして飼い主らしき人のもとへと戻っていく。
見てはいけないと思いながらもそれを目で追った先にいたのは、見たところ小学校高学年くらいの少女だった。
赤いスカートとそこから伸びる黒ニーハイ、飼い猫のように黒いパーカーを身にまとったその少女の顔は、パーカーのフードで隠れていてよく見えない。
「おい君」
さっきからのその声はあなたか。
フード少女の隣でそう言ったのは、俺と同じくらいの歳の女性。こちらはスカートではなくジーンズを履いていた。上は少女と同じパーカーを着てはいるがフードは被っていないため、その顔がはっきり見えた。
肩くらいまで伸びた燃えるような紅い髪と、今まで見てきた女性の中で軽くトップに躍り出る整った顔立ちだった。睨みつけるほどではないが、どこか不機嫌にも見える凛々しい表情で、アイドルというよりは、例えるなら美人教官という印象だ。
モデルのようなスラッとした身体のその人は、両手を腰に当てて堂々とそこに立っていた。
周囲のギャラリーの目を見れば、その評価が正しいことが一目瞭然だ。男女関係なくアイドルを見るような目。まさにこの大学のアイドル的存在なのだろう。
そんな方が大学生活初日の俺にどのような御用で?
「えーっと……。何でしょうか……?」
周りの目もあり、俺は恐る恐る尋ねる。
「いや、大したことではない。金がなくて困っているようだったのでな。これをやる」
そう言って差し出してきたのは樋口一葉。買おうとしていた定食の十倍以上の金額だ。
キラキラしていたギャラリーは、その言動一つでギロギロと嫉妬の目を向けてくる。
「いえいえいえ、もらえません。お気持ちだけでもありがたいです」
こんな額はさすがにもらえない。もらったところで返せない。いや、そういう問題でもないんだが。
あたふたと両手を振っていると、
「ベル姉さまの厚意を受け取らないなんて……」
今度はフード少女が近づいてくる。しかしそれを手で制するのは、「ベル姉さま」と呼ばれた隣の赤髪の女性。
「まぁ待て、スウ。見知らぬ人に突然金をあげると言われたのだ、彼の反応は正しいだろう。今回はこちらが悪い」
そう言われたフード少女、もとい「スウ」は「ベル姉さまがそう言うなら……」としゅんと身を引っ込める。
「困っている人を見つけたら助けるのは当たり前のことだ。これを使ってくれ。全額に躊躇いがあるならお釣りを返してもらってもいい」
「ベル姉さま」は、俺の手に五千円を握らせる。美女にここまでされては、さすがの俺でも折れるしかなかった。
「では、お言葉に甘えさせていただきます……」
「ああ。では、私たちはもう行く」
満足げにうなずいては、二人は集めすぎた視線を引き連れてこの場をあとにする。
こうして半ば無理やりの善意によって、大学生活初日の昼食を取ることになった。
そういえばあの二人の、いや、「ベル姉さま」の学年も学科も聞いてないから、お釣りの返却が出来ないのでは。
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