6.ギークと魔法戦


 チサは、自分の腕に刺さった針を気にすることなく、マヤトに近づいた。


「早く、防壁を解いて」


 チサの声はマヤトに聞こえていないのか、マヤトは一向に防壁を解除しようとしない。目に刺さった針の根元を押さえたまま、防壁の中でじっとしていた。


 無傷の片目で、チサは視認されていると感じていたが、痛みで動けないのか、と思った。


「マヤト君、私が回復ヒールをするから」


 すると、マヤトの赤い防壁魔法が消えていく。


 針の刺さった目元を押さえる手からは、血が滴っている。しかし、その針の根元が虹色に光っていた。


 チサは、すぐにそれがマヤトの解析魔法であることがわかった。


 ――こんな時にも?


「針に毒は仕込まれてはいないようだ」


 マヤトは顔をゆがめて言った。


「抜いて止血だけするから、動かないで」


 チサは、目を押さえるマヤトの手の上に片手を乗せた。その手を包みこむように回復魔法の水色の光球が発光する。


「ちょっと我慢して。抜くね」


 チサは目に刺さった針をつかんでゆっくり引き抜いた。


 マヤトの表情は苦痛にゆがんでいたが、声をあげることはなかった。


 チサがマヤトから手を離すと、目の出血は止まっていた。


 しかし、眼球の傷はそのままだ。


 マヤトは、瞼を閉じた。


「しばらく痛みは、今の回復の効果で感じないと思う。でも、ごめんなさい。私、細胞復元までの回復魔法は会得できていなくて」


「いや、抜いてくれただけでも助かった」


「早く、治療に」


 チサの言葉をさえぎるようにマヤトは、チサの腕を指差した。チサは自分の腕を見ると、まだ針が刺さったままだった。マヤトの怪我を見てから自分の痛みを忘れてしまっていた。


 指摘されて、急に痛みがぶり返してきた。


「俺が抜くから、回復を自分にかけろ」


 マヤトがチサの腕をつかんで固定する。


「え、うん」


 チサは針の根元に手をかざして、回復魔法を発動させた。水色の光が傷口の周囲を包む。


「マヤト君、抜いていいよ」


 マヤトはうなずいて、ちゅうちょすることなく針を引き抜いた。


 ヒールによって強烈な痛みは緩和されたが、それでも抜かれる際には一瞬の痛みがあった。それが腕で済んだチサは、マヤトにどれほどの痛みがあったのだろうかと想像したら、体が震えた。


「ありがとう。マヤト君、目を」


「いや、先にあの魔物ギークだ。サトシ、一人にまかせておくには荷が重すぎる」


 マヤトは空中から屋上に着地する。チサに刺さっていた針を下に置いて、自分の胸の前で両手を組んだ。


「待って、血は止まってるけど、中の傷が……。無理しないほうが。それに片目じゃ解析魔法は」


 チサは、マヤトの前に回りこんで立ちはだかる。


「片目が見えなくても、解析魔法に支障はない」


「でも……」


 マヤトは解析魔法を発動させると、マヤトを中心にドーム状の光が広がっていく。


 片目があれば解析に問題はないということなのか、ふと思ったチサはマヤトの背後の壁に目を移した。第一塔校舎内から屋上に出るドアがある。そこには、魔物が放った幾千もの針が壁一面に突き刺さっていた。


 近距離でこの攻撃を受ければ、ひとたまりもないとチサはゾッとする。


 マヤトの解析魔法が屋上全体を包みこむと、マヤトの前に虹色の虫眼鏡が出現した。


 ここではない世界を映すレンズの中は、マヤトにしか見えない。


 マヤトが魔物のなにを解析しようとしているのか、チサにはわからなかった。


 ハリネズミの魔物は、サトシを針のむしろにしようとしているが、サトシは素早い身のこなしで突進を交わしている。


 そのせいで、マヤトの作り出したレンズもハリネズミの動きを合わせようと右に左にと振るが、しっかりターゲットをロックできずにいる。


「サトシ、魔物の動きを止めてくれ」


「はい?」


 サトシのとまどった声が魔物の向こうから聞こえてきた。


 そして、サトシはチサたちに注意が向かないよう魔物から少し間をとって宙に浮いていく。


 マヤトが解析魔法を展開しているのを確認して、サトシが親指を立てて了解の意思を示した。


 チサは、なぜサトシが瞬時にマヤトの意図が読めたのかもわからない。


 サトシは、ローブの腰付近から出ている左右の紐を引っ張った。すると、袖がぎゅっと縮んで短くなり、足元を覆っていたローブは中央から左右に分かれて広がり、ズボンが見えるようになった。背中にも切れ目が入っていて、通気性が増すスタイルとなった。


「入校以来、このスタイルになったのは初めてだ」


 サトシの魔力が急激に高まっていく。それは、チサがいままで感じたことのないサトシの魔力だった。


 スッと腕を前に出したサトシの目の前に、一瞬で炎の玉が現れた。その直径は、サトシとほぼ同じほどの大きな球体。炎がその周囲を駆け回っている。まるで、太陽がすぐそこにあるように、サトシから離れた場所にいるチサでさえ熱を感じられた。


 短時間にいともたやすく巨大な火球を作りあげたサトシが、別人のようにチサは思えた。


 サトシは、拳を繰り出して、巨大な火球を魔物に向けて打ち放った。


 魔物は、それに恐れることなくその場から動こうとしない。


 魔物の体全体を覆う針が向かってくる火球に集まって、大きな針を作り出した。


 そして、火球を突き刺した。


 熱で針が溶けるかとも思ったが、火球を刺したまま針はいっきに外側へ花開く。


 その勢いで、火球は散り散りに火の粉を撒き散らし消えてしまった。


 魔物の針には、焦げ一つ見当たりらなかった。


「中レベルの魔力で、行ったんだけどな。まったく効いてないのかよ」


 サトシは、頬を指でかいた。


「次は、これでどうだ」


 両腕を左右に伸ばすと、サトシの両サイドに巨大な氷柱がゆっくりと真っ白な蒸気をたたせて現れた。サトシの背丈の二倍はある。


 サトシは、大きく息を吸って、ギークを睨んだ。


 そして、両手を交互に魔物に振りかざす。


 まずは右手を。次に左手を。


 放たれた二本の氷柱が魔物に向かっていく。


 今度は、魔物がその場で体を丸めて全身の針を立たせた。


 すると針先一つ一つからオレンジ色の光の円が広がっていく。それが次々に隣同士と融合して行き、一枚の膜となった。魔物の全身は、オレンジ色の光に覆われた。


 槍のように尖った柱の先が魔物を包む光に衝突する。


 しかし、光の波紋を描くだけで氷柱は魔物まで届かなかった。それどころか氷柱は衝突の衝撃で砕け、氷のブロックになって地面に転がった。


「まだまだ」


 サトシは、手の振りを止めず、何度も交互に両腕を振りかざした。そのたびに、氷柱が衝突するが、氷柱は氷の塊に砕けていくだけで、魔物を包みこむ光を破壊することはできなかった。


 サトシは、肩を上下させて息をし、汗が額から垂れていた。


 人は体を動かさずとも、魔法を使うと体温が上がり、汗をかく。魔法を発動させる魔力の源は、血液の赤血球にあり、そこから魔力を引き上げる。引き上げる際に、熱が発生する。


 しかし、チサはただそれを見ているだけで、冷たい汗を流していた。


 サトシの異常な高い魔力を感じただけでなく、得体の知れない魔物と向き合い戦っているのだ。もし自分一人だったら、とチサは考えると、なにもできなかったと思った。


 おそらく動くこと、ましてや逃げることすらもできず、魔法実践戦闘の授業を受けていたとしても、きっと全ての思考が止まっていたと。


「サトシの攻撃が……」


 エアリスローザの生徒を上から指折りの中に数えられるサトシの魔法が全くきいていないことに、チサは驚きを隠せなかった。


「マヤト君、やっぱり先生たちを呼ぼうよ」


 マヤトは、動きの止まっている魔物にレンズの焦点を当てて集中していた。


「やっぱり、あの魔物といい、元の生徒が電気を止めた犯人だ」


「えっ?」


「サトシの攻撃がきかないのは、あの障壁魔法のせいだ」


「あの光」


 チサは、電気管理室で電極ロッドの間にあったぶ厚いオレンジ色の障壁魔法を思い出した。


「あの障壁魔法が発動されたら、打つ手はない」


 障壁魔法を超えるほどの魔力で破壊しなければならない。おそらくサトシが全力で魔法を使っても、あの魔物に勝てないと、チサには見てとれた。


「魔物の針とあの障壁魔法じゃ防御は完璧。どうやって魔物を倒せば……」


 チサは、今まで読んだ文献を思い返したが、魔物の倒す方法など読んだことがなかった。魔物が召喚されたモノであれば、その召喚主の魔力がなくなるか、死んでしまえば召喚された魔物は消える。しかし、目の前の魔物は、人の闇が変化したものだ。


「手はある」


「えっ?」


 マヤトの横顔は、笑っていた。


 ――一体、あのレンズに何が映っているというの。


 ――どうして、そんなに冷静でいられるの?


 チサは、息を飲んだ。





 マヤトは、正面の虹色のレンズを消した。


「だが、二人の協力が必要だ」


 チサは、マヤトと視線があった。


「でも、わ、私はなにもできないと思う」


「そんなこと言ったら、もっと俺はなにもできない」


「マヤト君は――」


「白鹿、浮遊系対物型魔法は使えるか?」


 チサの言葉に重ねるように言った。


「え、うん。できる」


「なら、問題ない。白鹿はここにいて、俺が合図をしたら頼む」


「頼むって、いったいなにに……」


 チサの質問を聞く前に、マヤトは魔物に向かって駆けて行ってしまった。


 あれこれ説明している時間がないことくらいチサにもわかっていたが、突然、一人その場に残されてしまい、寂しさと恐怖に心を挟まれた。


 自分の背後の壁には、魔物が放った針が刺さったままだ。もし、また同じように針が飛んできたらと、不安を呼ぶ想像しかできなくなっていた。


「サトシ、魔物の体に生えている針を切り落としてくれ」


「また、無理なことを言ってくれるが、問題ない。やってみせるさ」


 サトシは、また親指を立てて見せた。


 マヤトが魔物に近づくと、魔物を覆っていたオレンジ色の光が消えた。


 今までサトシの方を向いていた頭と思われる方が、マヤトの方へ向きを変えた。


 チサの方からは、魔物がどっちを見ても同じ形にしか見えなかった。


 マヤトは、魔物からサトシと同じくらいの距離をとって立ち止まった。それを見たサトシは、ジリ、ジリっと魔物に近寄っていく。


 魔物が向き変えようとすると、マヤトが魔物に近寄って行く。


 ――そうか。


 マヤトがあえて近づいて行ったのは、魔物がまた障壁魔法を発動させないため。サトシと二人で挟みこめば、魔物はどちらも警戒することになる。


 サトシは、右手を広げた。すると、手の平から上へ上へと細い氷が伸びていく。それは、氷剣だった。


 その氷剣を一度構え直すとすぐに、宙を蹴って、ギークに飛びこんでいく。


 魔物は、それに気づき、サトシだけに針を放つ。


 サトシは針を避けるだけでなく、手に持った氷剣で目の前に飛んでくる針を華麗な円舞でもしているかのように次々と切り落としていく。サトシが速度を落とさず一直線に進んでいく姿は、その剣さばきと切れ味がものを言っている。


 あっという間に魔物の間合いに近づき、あと一歩というところまで迫った。


 その時、魔物が針攻撃をやめて一瞬で防御態勢に入り、魔物はオレンジ色の障壁魔法に包まれる。


 サトシは進む勢いを止められず、障壁魔法に激突してしまった。


 ビリビリと、障壁魔法に稲妻模様が走り伸び、激突の反動でサトシは地面を転がるようにふっ飛ばされてしまう。


 魔物はすぐに防御態勢を解き、転がり倒れているサトシに向かって針を放った。


「サトシ、危ない!」


 マヤトは、叫んだ。


 サトシはすぐに起き上がり、その場で針を切り刻んで行く。連続して放たれる針の勢いに勝てず、前進することもできない。ただ針を切り落として防ぐことしかできなかった。


 防戦一方のサトシを見てチサは、自分もマヤトのように近づいて何かできればと思ったが、足が動かなかった。もし、今のサトシのように針の攻撃を受ければ、避ける他に防ぐ手段がなかったからだ。


 その時、マヤトが魔物に向かって片手を向けた。


 ――解析魔法しかできないと言っていたマヤト君が何を。


 すると、マヤトの手の平から針が勢いよく飛び出していく。


 どう見てもそれは、魔物が放つ針と全く同じものだった。


 魔物がそれに気づき、サトシへの針攻撃をやめて、向かってくる針に、針を放った。


 マヤトの放った針は、全て魔物に撃ち落とされてしまった。


 ――どうしてマヤト君が、魔物と同じ針を。


 チサがその理由を考えている間はなかった。


 サトシは自分への攻撃がなくなった一瞬の隙に、手を足元に振り下げた。


 すると、サトシの履いていた靴が青白く光りはじめた。


 すぐさま地を蹴ると、一閃の光が走ったようにいっきに魔物との距離がつまった。それは、空間を飛び越えたのような速度だった。


 魔物の間合いに入ったサトシの両手には、いつもの間にか氷剣が一本ずつ握られていた。


 防御態勢に移ろうとする魔物の針先が、またオレンジ色に光り出した。


 障壁魔法が魔物を包みこむ前に、サトシはまるでブーメランのように魔物の周囲を回る。


 草刈り機が通り過ぎて行くように、魔物から生えている針がスパンスパンと根元近くから切られて、辺りに散らばって行く。


 サトシが魔物を一周すると、トゲトゲしさのなくなった魔物となった。


「チサ、今だ。魔物をひっくり返してくれ」


「え?」


 目の前で進んで行く展開をただ目で追って行くのが精一杯だったチサは、慌てた声をあげることしかできなかった。


 ――魔物をひっくり返す?


 目の前で起きていることがチサの想像を超えていて、どうしていいのかわからなかった。


「浮遊系対物型魔法だ。早く!」


 マヤトに言われて、そうだったとチサは自分のすべきことを思い出した。


 チサは、魔物に向かって両手を広げる。


 そして、目の前の空気を抱え持ちあげるように両手を上へ勢いよい振りあげた。


 しかし、チサの手はなんの抵抗もなく上がってしまった。


 魔物の二メートル手前の地面に転がるサトシが切り落とした針が宙へ舞いあがった。


「あれ?」


「白鹿、位置がもっと奥だ。もう一度だ」


「う、うん」


 チサはもう一度魔物に向かって両手を伸ばした。


 魔法の発動場所が自分から離れている場合、発動させる箇所の空間把握が必要となる。


 チサは、自分から魔物との距離を確認して発動場所に意識を集中する。


 サトシが空宙で大きな氷柱を目標に向かって投げ落としていたのも、浮遊魔法で制御しているからだった。ましてや質量のあるものを連続で発生させた上に、加速させて移動させるには、並みの魔力ではできない。


 チサは、サトシやエアリスローザトップクラスの生徒たちとレベルの違いを改めて知った。


 しかし、今はできることをやるしかなかった。マヤトには考えがあって浮遊魔法ができるか聞いてきたんだ。


 ――きっと、上手くいく。でなきゃ、巻物が……。


 チサは、さっきより奥に発動位置の意識を置いた。


 そして、両手を徐々に上げていく。


 今度は、手の平に重い抵抗を感じた。壁がそこにあるかのように腕が上がらなくなった。もう自分一人で持ち上げられないのではと、すぐにチサは悟った。


 それも、すぐにその抵抗が軽くなった。


 マヤトも同じように腕をあげて、浮遊魔法を発動させていた。


 ただ、チサの発動位置が魔物の中心からずれ、想定よりも奥だった。


 魔物の片側が上がり出す。


「そのままひっくり返す!」


 チサとマヤトの手がいっきに天を仰いだ。


 重さから解放されたチサの体は、飛び上がるようだった。


 同時に魔物はひっくり返った。丸刈りになった魔物の背が地面につき、ゴロンゴロンと振り子のように行ったり来たりしている。


 ――やった。


 マヤトの力も借りたが、今までにこれほどまでの巨大なものを浮かび上がらせたことがあっただろうかと、チサは静かな達成感を覚えた。


 ――そうか。針があると、元に体勢に戻ってしまうからか。でも、どうして。


「サトシ、魔物の魔法核を破壊しろ!」


 ――魔法核?


 今まで針の山で身を守っていた体の内側に赤黒い光の玉が見てとれた。両手で抱えるくらいの大きさはある。


 ――あれが、魔法核……なの。


 チサは初めて見た。魔法の理論として図解などでしか見たことがなく、実際にそれを見ることは一度もなかった。


 魔法および魔法で作られた物には、目に見えるほど大きくはないが魔法核が存在する。その魔法核が魔法自体を魔法として維持させているのである。


 魔法核の持つ魔力がなくなったり、外部から破壊されると、魔法はその効力を失い、消滅してしまう。


「そういうことか。初めからそうならそうと言ってくれよ」


 宙で様子をうかがっていたサトシは右手を伸ばした。すると細長い氷が上下に伸びていき、氷槍が出現した。


 サトシは、魔物の魔法核をしっかり見定め、振りかぶる。


 そして、魔法核めがけて勢いよく氷槍を投げつけた。


 プスッと、呆気なく魔法核に突き刺さる。


 しかし、魔法核に変化は見られない。


 氷槍が鋭すぎて、きれいに刺さってしまっているため、魔法核にダメージを与えていない様子だ。


 魔物がそれに抗おうと体を丸めようとして動き出す。


 マヤトは身の危険を感じて、後方へ飛びのいた。


「サトシ、次を」


 マヤトは、空宙で余裕たっぷりのサトシに叫んだ。


「これで終わりだ」


 サトシは、前に突き出していた握りこぶしを力強くバッと開いた。


 次の瞬間、魔法核の中から数多の細く鋭い氷槍が四方八方に飛び出した。突き刺さっていた一本の氷槍が、魔法核の中で外に向かって伸び広がったのだ。


 魔法核は、ひび割れて、赤黒い光を放ちながら破裂する。


 その途端、魔物も同じように体の中心から爆発してしまった。その光景は、辺り一帯に赤い雨を降らすようだった。魔物がいた地面は、血のバケツをひっくり返したように赤黒い大きな水溜りができていた。


 その中心には、巻物を手にした生徒が横たわっていた。





 チサは、魔物の爆発と同時に背後にも水滴が飛びるような気配を感じた。


 恐る恐る背後を振り向いた。


 壁一面が赤黒く染まり、飛び散った水滴が壁を流れ、床をも赤く染めていく。


 壁に突き刺さっていた針も、魔物の魔法核を失ったことで形を維持することができず、赤黒い液体に変わったのだ。


 壁には穴がそのまま残されたままだった。


 壁は校舎のビルの一部であり、当然魔法で作られている校舎もダメージを受けている。しかし、校舎全体からみればごく小さな被害でしかなく、校舎が消えてしまうことはない。


 チサは、この異常な状況に震え、魔物が作った赤黒い水溜りの淵に立つマヤトの元へと駆け寄った。


 近づくにつれて、水溜りから放たれる生暖かく臭いにおいが強くなった。


 サトシもマヤトの元へ宙から降りてきたが、顔色が良くなかった。


「俺、まさかあの生徒を……」


 マヤトを見ているはずのサトシの目の焦点は、どこにも合っていないように見えた。


 マヤトは、じっと水溜りの中で倒れている生徒を見つめた。


 マヤトの片目には、虹色のレンズがあった。


「呼吸は……あるようだ。早く手当てをしたほうがいい」


「そうか……でも、俺」


 サトシは、水溜りに背を向けてその場にしゃがみこんでしまった。そして、口を手で押さえて嗚咽した。


「サトシ、大丈夫?」


 チサはサトシの肩に手をかけて、水溜りから離れていく。屋上の端に座らさせた。風も吹き、異臭も軽減していた。


 マヤトは、水溜まりの中を見つめたまま、中心に向けて手を差し出した。


 倒れている生徒の手にあった巻物を引き寄せた。


 手に持つことなく、巻物を開こうとしていた。


「ちょっと、ごめん」


 チサはサトシにそう言って、マヤトの横に並んだ。


 めくられてすぐの部分は赤黒い液体が染みこんで、何が書いてあるのかわからなかった。さらに巻物を伸ばしていくと、読み取れる字が出てきた。


 チサは、ぐっと顔を近づけて読もうとしたその時だった。


 突然、巻物が引っ張られるように、目の前から飛んで行ってしまう。


 巻物を取った本人以外は、手にできないのかと思ったが、その巻物は第二塔の屋上へひゅるひゅると向かっていた。


 そこには、黒いローブを頭からかぶった人物がこちらに手を向けて立っていた。


 巻物を引っ張っている浮遊魔法の発動者の顔は、すっぽりフードを被っていて確認できない。


 マヤトは、その場で振りかぶって、巻物に向かって小さな光を手から放った。


 マヤトの放った光の矢が巻物にぶつかる寸前、別の光に弾かれた。


「えっ」


 マヤトは目を丸くして驚いていた。


 弾いた光が飛んできた方向を確認すると、黒いローブを着た人物が腕をあげていた。


 マヤトの放った光がなんだったのか、チサは思い出した。自分のメガネが奪われそうになった時に、マヤトがメガネに放った光と同じものだと。


 あっという間に巻物は宙を飛んで、その人物に奪われてしまった。中身を確認することなく、丸めて懐に入れる。そして、屋上の向こうへと飛び降りてしまい、姿は見えなくなってしまった。


「ど、どういうこと……」


 一瞬のことでもあり、呆気なく、目の前にあった巻物が消えてしまった。チサは、それ以上なにも言えなかった。


「いったい、なぜ……」


 マヤトも状況を把握しきれていないようだった。


 屋上の扉が開き、ティーダをはじめ先生方が続々と屋上にやって来た。


 変わり果てた屋上の様子に驚きを隠せずにいた。


 後列にいた朝霧が戸惑う先生方をよそに前に出て、寸前まで闇に飲まれて魔物と化していた生徒の元へ駆け寄る。


 水溜りから生徒は浮き、赤い水滴を垂らしながら朝霧の前までやってくると、生徒は水色の光に全身が包まれた。


 怪我をしていたチサとマヤトも、その場で治療を施された。チサの腕の傷は癒え、マヤトの目も元に戻り、両目を開けることができるようになっていた。


 それからチサたち三人は、空き教室に移動して、ティーダらに事情を聞かれることになった。


 三人は、見たままを正直に話した。隠したところで何にもならないことはわかっていた。


 魔物を発見した時点で、すぐに報告するように一喝された。


 最終的に、巻物が誰かに取られてしまったことの責任が誰にあるのか、生徒三人の前で揉める形で、事後検討する形で幕が降りた。


 今回の一件は、現場を見た者が少なかったため、大きな混乱にはならなかった。取ることのできないはずの巻物が消えてしまったことに関しては、何かしら理由をつけて生徒たちに通達されるのだろうと、チサは思っていた。


 そして、しばらく屋上は封鎖されることになり、魔物や巻物については口外しないように指示を受けることになった。


 三人が解放された時には、すでに夕方となっていた。


 教室を出ると、マヤトは用があるからと言って、一人でいなくなってしまった。


「なぁ、チサ」


 マヤトの姿が完全に消えてから顔色の良くなったサトシは、いぶかしげな表情をして聞いてきた。


「なに?」


「チサも見ていたよな、マヤトが魔物と同じ針を放ったのを」


「え、うん。見てたよ。急にどうしたの?」


「どういうことかわかるか?」


「えっ、わかるわけないでしょ」


 チサは、そう言いながら、その時のことを思い出していた。


 あの時は、考える余裕もなかったが、確かにどうしてかと思った。そして、あることが頭をよぎった。


「いや、そんな……」


「解析魔法」


 サトシの意見に、チサもそうだと思った。


「でも、それだったら、どんな魔法だって解析して作れちゃうんじゃ……」


「もしだよ、もし。あの時、マヤトは自分の目、自分の体に魔物の針が刺さっていたよな」


 目に針の刺さった痛々しいマヤトの顔がチサの脳裏に蘇った。


「まさか」


「そのまさか、かもしれない」


「マヤト君は、解析魔法しか使えなくても問題ないのはそういうこと……」


 サトシは、一度だけ強くうなずい。


「きっとマヤトは屋上に向かったはずだ。魔物と戦った現場へ」


 チサとサトシは、第一塔の屋上へ向かった。屋上に出る扉には、立ち入り禁止の張り紙がしてあり、ドアもロックされていた。


 しかし、塔の外から回れば、屋上には簡単に降り立つことができる。


 ただあるのは、夕日に照らされた赤黒い水溜りと、まるでそれを見守るように立つ初代賢者のスティーロン・ジョーンズの像だけだった。


 マヤトの姿はなかった。


 サトシは、赤黒い水溜りをなるべく見ないように、しかし顔をゆがめて水溜りの淵を指差した。まだ生乾きの液体が削り取られているような跡がそこにはあった。


 チサは、マヤトの家にあった赤い結晶を思い出した。赤くキラキラと光るそれは、血の結晶だったことを。


 マヤトが魔物の血の海から結晶を採取していたのではと、サトシはすでに気づいて指差していたのだった。


 しかし、チサは確信を抱きたくなかった。マヤトではない誰かが、なにかの拍子に触ってついた跡かもしれないと思いたかった。


 この時、まだチサは身をもって確信を抱くとは思ってもいなかった。

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